ずいぶん昔の話だけど。そう言って彼女は話はじめた。

 
「――貴様を殺す。吸血鬼」

 天使はその名前に恥じないほどの冷酷さでわたしに宣言した。わたしはずいぶんと捨て鉢な気分だったので、それもいいかな、とさえ思った。

「やってみれば? 先生」

 ここは打ち捨てられた、街はずれの教会だった。カソリックなのか、はたまたそれ以外なのかは、わたしにはわからない。何十年か前にここの主は死に、後を継ぐものがいなかったという単純な理由から閉鎖され、放置され、無視され続けている場所。墓地もなく、ゆえに訪れるものさえいない。

 天使はその光の翼をもって、この裏寂れた聖堂を照らしていた。破れた天井からは、冬の空がのぞいている。祭具もなく、ただ壁に貼り付けられた十字架のみがこの場所がかつて神の家であり、そしてこの部屋がその中心であったことを知らせていた。

 教会なんて、結婚式くらいにしか行ったことのないわたしは、ドアをくぐってその情景を見た時、さしたる感慨もなかったが、多少皮肉めいた感情を抱いた。

 ――馬小屋じゃあるまいし。

 と。こんなわたしでもクリスマスイブは知っているのだから。

 ましてやこの天使は多くの命を奪った。新たに命を授けた大天使ガブリエルとかなんとかとは違う。――そうは言っても、わたしは天使になんか詳しくないが。

 この天使は、本来、わたしの通っている高校の教員だった。担当科目は美術。人間として生活している時は、20代後半のひょろっとした印象の男にしか見えなかった。その正体を知ったのは、友達の死が原因だった。

 高校生にしては低い身長。うっとうしいほど長い金の髪は、その腰下にまで届いている。それを肩上で結わえていたリボンを、わたしは外した。そして瞳の色を、緑から紅に変貌させる。天使の清浄な光輝を押しやるように、ざわざわと、黒き瘴気が部屋に充満していく。

 天使が、顔をしかめた。今、わたしの顔は人間のものではないだろう。おそらく魔物――天使の言ったとおり、吸血鬼の顔をしているだろう。しかし、それでもいい。いや、それでいいのだ。

 この髪を手にとって、戯れに編んでくれた友達はいない。この碧眼を、きれいだと言ってくれた友達はいない。――それならば、もはや必要ではない。これから必要なのは、人間のわたしではなく、吸血鬼のわたしだから。

 たとえば夜明けのように。たとえば夕暮れのように。昼と夜。光と影。そして人と、魔。この世界に明確な境界線は存在しない。

 だからこそ、その狭間に揺れるモノがいる。それが半魔。魔物でありながら人の世界に生きようとするモノたち。吸血鬼。人狼。自動人形。他にも多種多様な魔物たちが、この世界には関わっている。それら全てが人の世界に足を踏み入れることを好んでいるわけではないが、しかし決して人は世界の支配者ではない。

 半魔たちは人の中、息を潜めるように生きている。彼らにはそれぞれの事情と理由があり、望むにせよ望まないにせよ、仮の姿をまとって生活しているのだ。

 
 友達の原因不明の死に、わたしは全身で抵抗した。その結果、どうにもならないと知った時、八つ当たりとしてわたしは仇を捜し求めた。死んだ友達とわたしは同級生であり、数年来の付き合いだ。同性ということもあり、その結びつきは強固なものであった。何より彼女は――わたしが吸血鬼だと知っても、まだ友人として付き合ってくれた。

 自己のルーツを知った時以来、どうにもわたしはわたしのことを好きになれなくなった。

 どうもわたしの片親は吸血鬼で、わたしはなんだかものすごく古い血統書が付いているらしい。どちらも半信半疑なのは、それが他人から聞いたせいだ。物心ついてから両親なんていなかったし、それが事故死だとその時まで信じていた。わたしは母の遠縁と言う男を保護者とし、基本的には不自由なく暮らしていた。保護者はほとんど家に寄り付かなかったが、それが普通のことだと思っていたから、そもそも人の温もりを知らず、だから寂しいとは思わなかった。身体が弱かったこともあり、また周囲とは風貌が違うためか、友達と呼べるものもいなかった。

 明らかに日本人とは違う、金髪に碧眼。病的に(事実身体は弱かったが)白い肌。浮くにはそれだけでも十分だが、さらにわたしは一般的観点から考えて、不幸とも言える境遇らしく、周囲はまるで腫れ物に触るかのように接していた。

 しかし、ある日突然、保護者は言った。お前は人間ではない、と。思春期に入ったばかりだったわたしは、 そこで初めて自分が吸血鬼と人間の混じり物だと知ったのだった。

 実感はなかったが、しかし、衝撃は受けた。

 そうして、自分が嫌いになった。元から好きではなかったが、さらに。何しろわたしは、太陽に背を向けて生きねばならないのだから、後ろ向きにもなるというものだろう。

 自分は他人の血を飲んで生きる、薄汚れた生き物だと。そううんざりするほど考えて、半ば自嘲しながら吸血鬼の自分を受け入れた。自分の力の使い方を覚えながら、しかしわたしは自身に対する嫌悪を深めていった。

 そうしてしばらく。わたしの前に、その女の子が現れた。

「前から一度、あなたと話してみたかったのよ」

 そう言って、彼女はとめどなくしゃべりはじめた。はじめて見た時は冬の空の下、雪の降る中で、まるでこの世のものでないように美しかったと。それ以来わたしのことを気にしていたが、しかしあまりにきれいで声をかけられなかったらしい。しかし同じクラスになって、それでようやく夢がかなった、と。

 そこでようやく、彼女は自分の名前をわたしに告げてないことに気付いた。怒涛のように流れ込んできた彼女の言葉に圧倒されていたわたしは、名前とともに差し出された手を思わず握ってしまった。

 そこからはじまったわたしと彼女の関係だったが、しかしはじめからうまくいっていたわけではなかった。しかし、わたしはいつしか、意地を張ることをやめた。

 かたくなに彼女を拒んでも、冷たく彼女をあしらっても、
「クールでかっこいい」

 とか言って、わたしのその意志をその都度くじき、そのままの成り行きとして彼女はわたしを振り回した。

 やがて、わたしは諦めざるをえなかった。そして、わたしは認めざるをえなかった。――彼女をわたしの側から引き離すことを。彼女を友としたいと思う自分のことを。

 彼女との付き合いは次第に深まっていった。クラスが分かれてしまったこともあったが、しかしそれでも仲は不思議と続いた。

 そうして――バレた。わたしが吸血鬼であることが。初めて得た友達ということで、わたしは臆病なほどそのことが露見するのを恐れていた。嫌われ、離れられるのを恐れていた。しかしそのことが余計、吸血鬼としての衝動を助勢したのか、ついにわたしは彼女の血を吸ってしまったのだ。

 だが、彼女は、それでもわたしを受け入れた。

 今、考えると、わたしの彼女に持っていた感情は、まっとうな友情とは言いがたかった。それまで人としての温もりを知らなかったわたしは、それが失われるのが怖かっただけなのかもしれない。他にも理屈は付けられる。しかしわたしのそうした考えを、彼女はあっさり吹き飛ばした。
「血が欲しいなら言ってね。いくらでもあげる。わたしは、あなたが好きだから。どんな姿でも、あなたはきれいだから――」

 自分のしていることに気付き、首筋から牙を離し、彼女を抱きすくめ、泣きながら謝るわたしを、彼女はそうやって優しく受け入れた。

 それから落ち着いた後、わたしははじめて出会った時の彼女のように、一気に自分のことを話し始めた。それでも彼女はわたしの側にいてくれた。

 そうしてようやく、わたしは自分を好きになることができた。彼女が好きな自分を、誇れるようになったからだ。

 しかし――もう彼女はいない。

 わたしの一番大切な友達は、この街で起きていた連続婦女殺害事件の被害者の一人となった。殺害場所は夜中の裏路地。他に被害者がいたことから、彼女は巻き込まれて、たまたま居合わせたというだけで殺されたらしい。彼女はわたしの誕生日プレゼントを求めて遅くなり、自宅への近道として公園を横切ろうとしたのだ。

 わたしは泣いた。みっともないくらいに散々に。自分のせい、というのが許せなかった。そして――泣き終わったその時、わたしは犯人を捜し求めはじめた。

 その結果、人以外のものが加害者であることを知った。普段はまじめな美術教師。しかしその実は降りたる天使だった。

 保護者は反対した。相手が悪すぎると。しかしわたしは退くことができなかった。彼女を殺したことをどうしても後悔させてやりたかった。たとえ、自分がどうなっても。
 

 そして今、わたしは天使と向かいあっている。心はどこかに置いてきたかのように、奇妙に落ち着いている。ここに来るまで、あんなにも激情にかられていたというのに。

 わたしは自暴自棄になっているのだろう。天使と吸血鬼。相性が悪すぎる。血が混じっているとはいえ、闇の族であるわたしは、おそらく天使の一撃であっさり塵となるだろう。それでも構わない。

「なぜ――殺したの?」

 わたしの問いに、天使は重々しく答えた。それはまったく託宣のようでもあり、普段の、人間の姿からは想像もつかない。

 「なぜだと? 彼女らは我が生徒ながら、姦淫の罪を犯していたのだ。わたしは聖職者として――もちろん、わたし自身としても許せなかった。だから――殺し、主の御許で審判を受けるべきと判断したのだ」

 天使の言っていることは事実だった。被害者の共通点はわたしが通っている高校の生徒であり、また売春等の行為を行っていたということも。
「もちろん、貴様も殺してやろう。吸血鬼など、主に背くものが我が生徒であることは許されん。今までよく偽装していたものだが――」

「そんなことを聞いてるんじゃない!」

 天使の言葉を、わたしは途中で振り払うようにさえぎった。そう、そんなことはどうでもいいからだ。

 わたしがここにいるのは正義のためでもなく、ただただ友達を殺したモノを許せなかったからだ。それはわたしのエゴだ。
「わたしは、なぜ通りすがっただけの者も殺したか聞いているのよ」

 再び平静を取り戻したわたしの言葉に、天使はまたも重々しく答えた。半ば、わたしは自分の問いに自分の中で答えを持っていた。しかし、それでも聞きたかった。

「それは、彼女がわたしの聖なる仕事を邪魔したからだ。だから殺した。わたしの邪魔をする者は、すべて悪だ。悪なるものは裁かれねばならないのだ。――わたしこそが正義だ」

 ああ、そうか。やっぱり。彼女のことだ。殺されそうになっている同じ学校の生徒を見過ごせなかったのだろう。そして――殺された。

 なんということだろう。いい人であることが皮肉な結果になった。わたしという、こんなにも穢れたものが生きているというのに!

「――そう」

 わたしは、天使の答えに満足しながら絶望した。彼女は最期まで彼女らしかった。

「さぁ、話は終わりだ。吸血鬼よ。塵となって消えるがいい。貴様は主の下に送る価値もない」

 天使はその右手に光を集め、弓を作った。そして左手には、やはり光で矢を作り、弓につがえた。

「わたしに価値がない、というのは認めるわ。でも――わたしはあなたを殺す。刺し違えてでも」

 わたしの言葉に、ただ天使は一言

「――Amen」

 と言った。

 
「それからどうなりました?」

 そこはとあるビルの屋上であった。金髪を短く切り、碧眼を懐かしそうに細めていた彼女は、その問いに、一つ一つ、大事な物を懐から取り出すかのように答えた。

 問いを発し、彼女の前に立つのは黒いカソックを着込んだ神父姿の男。その手に握られているのは銀の弾丸を詰め込んだ拳銃だった。すでに薬室には弾丸を送り込んでいる。あとはトリガーを引くだけだ。その状態のまま、彼と彼女は会話していた。

 冬の空、雪すらちらつき始めた中、ずっと。

 男は人間だった。退魔の技を身に付けた、ただの人間。その彼がここにいるのが教区の安全を確保するためにと教会に雇われ、この地に巣くっていた吸血鬼を狩りだしたのだった。その吸血鬼は中学生のような姿形であったが、その力は強大であった。彼は最初、自分が狩人だと思っていたが、しかしその実、ここに狩り出されたのはもしかしたら自分ではないかと思い始めていた。気が進まない仕事だが、これも運命だったか、半ば諦めている。

 しかし、そこで吸血鬼が「どうせ死ぬ前に」と懺悔を求めてきたことから、この奇妙な情景は続いている。彼は話している隙を狙っているのだが、まったくそれは見つからない。神父の服は借り物だ。懺悔なんてそれこそお門違いだろうに、と彼は思った。

 彼女の懺悔は続いている。彼女の話を聞きながら、彼はしかし、それでも銃を下ろすことはできなかった。いつしか話に引き込まれていることも原因だった。

「その戦いは、わたしの勝ちだった。わたしはその手で翼を、身体を、天使の全てを切り裂いたの。
でも、わたしもまた、そこで力尽きた。仰向けに倒れ、そのまま意識がなくなるのを静かに待った。きれいな光景だったわ。散った天使の残光がまるで雪のように部屋の中にぱぁっと広がって。思わず歓喜の歌を歌いたくなったくらいよ」

「歓喜の歌? ベートーヴェンの交響曲第九番ですか?」

「そう。FREUDE! ってね。ぴったりでしょう? それをずっと見ていた。でも、いつまで経っても死ねないのよ」

「……。」

 彼はじっと彼女を見ていた。銃口の先で思い出を語る彼女が、この時、一瞬だけ泣き笑いの顔をしていたことに気付いた。すぐに今までのような、貼り付けたような笑顔に戻ったが、しかし彼は見逃さなかった。そして隙を逸したことにも気付いた。あの一瞬、もし指をかけたままの引き金を引いていたら倒せたかもしれなかったのに。しかしそんな考えが浮かんだのはそれこそ一瞬で、不思議と後悔はしなかった。

 そんな彼の心を知ってか知らずか、吸血鬼の述懐はまだ終わっていなかった。

「ある意味、わたしは死んだのでしょうけど。――人間として生きていこうとするわたしは。そして3年が過ぎ、吸血鬼のわたしはうまくやって、街を裏から操り、他の魔物を支配し、そして――こうして刺客を送られる身分となった」

 その碧色の瞳は、どこか遠くを見るようであった今までとは違い、まっすぐに彼を向いていた。泣き笑いのような、隙だらけの顔で。

 彼は、それでも撃たなかった。なぜだかその姿を、彼は、とてもきれいだと思った。――それは彼女の、失われた友達が抱いたものと同じであった。

 そんな彼に、やがて彼女は不思議そうな顔をした。

「懺悔は終わり。――どうしたの? 撃たないなら殺すわよ?」

 そうして彼女は、自らの瞳を紅に変じた。しかし、それ以上の行動は起こさなかった。じっと、彼をうかがった。その彼は、やがて口を開いた。

「死んだなんて、勝手なことを言わないでください。――あなたの友人はそんなことを望んではいませんよ」

 その言葉に、彼女はかっとなって思わず彼の首をつかみあげた。吸血鬼である彼女は、それくらい片手でできた。そのまま締め上げながら、彼女は言う。それは、涙混じりだった。

「あなたなんかに何がわかるってのよ! 穢れたわたしだけが生き残ってしまったのよ。あなたにわたしたちの何がわかるってのよぉ……」

「わかりませんよ。でも、あなたの友人が言っていたことはわかります」

 どさ、と、彼は彼女の手から解放された。しりもちをついた彼が見上げたのは、涙を碧の瞳に溜め込んで、彼をにらむ彼女の姿だった。まるで子供のようだ、と彼は思った。

 彼はそのままの格好で、彼女に言った。

「だって――あなたの友人は言っていたのでしょう? たとえ血を吸われようとも、あなたの友人はあなたを好きだと言ったのでしょう? ならば今のあなたも彼女は好きだと言うのではないでしょうか? それなのに、死んでいいんですか?」

「――っ……!」

 彼女は、そこで崩れ落ちた。それは彼女自身気付き、しかし無視し続けたことだった。彼女は吸血鬼という道を唯一とし、逃げ出したのだから。温もりを失った彼女は、半魔として昼と夜の境目に生きることはつらかったのだ。温もりも絆も、彼女は必死で否定し、もう二度と友達を求めないことで自分を守ってきた。しかし、彼の言葉はいともたやすくその防壁を破った。

 あるいは――破らせるように誘導したのは彼女自身なのかも知れないが。

 そうして、彼女は、3年ぶりに、大泣きした。そんな彼女を初め困惑した顔で見ていた彼は、やがて持っていた銃から弾丸を抜き取り、手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。彼女はそれを拒まなかった。

 いつしか雪は、本格的に降り始めた。少女の姿の吸血鬼を撫でながら、人間の彼は思った。

 もう殺せないな、と。そして空を見上げ、もう一度心の中でつぶやいた。

 なるほど。確かにこんな光景なら、歓喜の歌がぴったりだ、と。

 雪は全てを包み込み、けがれなく、静かに、降り注いでいた。

             Fin

ベートーヴェン交響曲第9番
『歓喜の歌』抜粋歌詞(ドイツ語)

Freude, schoener Goetterfunken,
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum!

Deine Zauber binden wieder,
was die Mode streng geteilt;
alle Menschen werden Brueder,
wo dein sanfter Fluegel weilt.



(日本語訳)

「友よ、これまで演じてきた調べではなく、もっともっと、喜びに満ちた歌をうたおう!
歓喜。それは神の輝き。それは楽園の乙女。あなたはこの世が散り散りにしたものを結びつけ、すべての人間たちを兄弟となす。…この世界に生きるものすべては自然の恵みより生まれ、良き人、悪人、虫けらでさえも歓喜が与えられる」
 

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