死んでどうする

神道大教四大信條要典第三章清浄第六節
「他人の生命はもとより、自らの生命にも触れてはならない。それは神のものであるから
 である。」

神道大教の教えの中で、自殺に関して触れているのは、この一節のみであります。
なぜなら、神と共に泣き、笑い、己が神によって生かされている存在である。ということを
悟っている人間は、そもそも、尊い命を自ら絶つなどという発想を持ち合わせていないから
であります。
先月、そして今月、インターネットの自殺志願サイトで知り合った若者が、心中する事件が
起きました。なぜか両事件とも、男性一人に対して、女性二人の三人組でした。
男にしてみれば、死ぬ時は両手に花がいいのでしょうか?すみません。不適切な発言でした。
ところで、最近、若い人たちの間で、カウンセリングが注目を集めています。
混迷を深める現代日本の世相を反映しているのか、それとも、自ら考え行動することのでき
ない若者が増えたのか、理由は定かではありませんが、いずれにしても精神的にもろい若者
が多くなってきつつあるようです。
カウンセリングを受ける若者は、異口同音に、「何のために生まれてきたのかわからない」
「何のために生きているのかわからない」とか、「自分は何をしたらいいのかわからない」
「自分は何をしたいのかがわからない」と、「わからない」を連発するそうです。
ひとつの「わからない」が新たな「わからない」を生み、そうして、自分自身がわからなく
なってしまって、とうとう、自殺してしまうのでしょうか?
ひとつ言えることは、自殺を志願する若者は、いろいろなことが、わかってしまったが故に、
ますます、人生の意義が、わからなくなってしまったのではないか?ということです。
わかってしまったこととは例えば、この世に真の平等など存在しない。とか、努力をしても
報われない事の方が多い。とか、一生懸命勉強して、いい大学に入っていい会社に勤めても
さほど幸福ではない。とか、結局人生は楽しいことよりも辛いことの方が多い。など自分を
取り巻く世界の、本当の姿であります。こうして若者は、自分の生きる意味を見失い、非情
な現実を目の前にして、途方にくれているのです。

私は、自殺志願者に言いたい。
死にたければ死ぬがいい。しかし、困難な状況の中で、迷いながらも、より良く生きようと
奮闘している人間は、本当に素晴らしい。
自分がかつてこの世に存在していたという、足跡を残さずして死んではいけない。
煉炭を燃やす替わりに、君の熱き情熱の炎を燃やせ。健闘を祈る。03/03/07
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