教育の渕源

父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭倹己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、
学ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器ヲ成就シ・・・(教育勅語より抜粋)

子供は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに助け合い、夫婦は仲むつまじく和ぎ合い、
友達は胸を開いて信じ合い、また自分の言動を慎しみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、
学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき・・・(口語訳 勉誠出版)

皆さんは、教育勅語をご存知でしょうか?おそらく、現役の教師も含めて、戦後生まれで、
これを知っている人は、ごくわずかだと思われます。
教育勅語の理念は、天孫降臨以来、私たち日本人に脈々と受け継がれてきた、神道の精神
そのものであります。

特に上記の抜粋部分は、学校生徒のみならず現代に生きる日本人すべての、あるべき姿を
示していると言っても過言ではありません。

中学生による凶悪事件が、沖縄で、そして長崎で相次いで発生しています。
長崎の事件は、被害者が四歳の幼児であり、全裸で七階建ての駐車場の屋上から落とされ
たという猟奇的な側面を持つ事からか、連日のように各メディアで取り上げられています。
意見を求められた著名な有識者たちは、異口同音に「思春期のティーンの心の闇を解明し、
命の大切さを教えていかなくてはなりません。」などと、通り一遍のありふれたコメント
を寄せていますが、私は、信仰を忘れた現代の日本人が、心の闇を晴らし、命の大切さを
知るなどという事は不可能に近いと思います。残念ながら。殊に、宗教色を一掃した義務
教育の現場では、絶対にそれは無理だと言わざるを得ません。
そもそも日教組が教師は聖職者たるべきであるにもかかわらず、これを労働者と位置付け
た時から、我が国の教育の荒廃が始まったのです。

労働条件と待遇改善のことしか頭にない利己的な教師と、将来に何の希望も見出せない、
無気力で、それでいて常にイラついている子供たちは、お互い顔を合わせていても、視線
が一致することはないのです。もはやそこには、教師と生徒の信頼関係は存在しません。
信仰なき生活は人を滅ぼすものです。
信仰の視点を欠いた、我が国の教育現場に「ゆとり」なんぞを持ち込んだところで、どう
にもならない。という事に文部科学省の役人たちはどうして気が付かないのでしょうか?
このままでは、我が国の子供たちは、神をも畏れないとんでもない代物に育ってしまう事
でしょう。我が国の学校教育は、危機的というより末期的状況にあると言えましょう。
学校教育において一人一人の教師が、教育勅語の理念ならびに、神道の精神に立ち返り、
聖職者としての使命感に燃えて、次代を担う子供たちを慈しみ育てていこう、と言う情熱
を取り戻さない限り、教育の改革など永遠に不可能であります。

余談ですが、私の母方の祖父は、群馬県の、とある公立小学校の校長をしていました。
名前は原田孝義といいます。孝義は、教え子の被差別部落出身の若者が教員免許を持って
いるにもかかわらず、差別によって、教員に採用されなかったことから、自分が、彼らの
身元引受人となり、何人も教員にしました。もう五十年も前の話ですが、現代の教師たち
が祖父と同じ状況に立たされた場合、いったい何人の教師が同じ事をするでしょうか?
私は、そのような教師は、ほとんど存在しないと思います。そこまで我が国の教育者たち
は墜ちてしまったのです。教え子の人生の行く末を案ずることなど、今の教育者たちには
できるはずもありません。問題のある生徒には、なるべく関わらないようにしたり、時に
は怒り狂って、生徒に暴行を加えて大怪我を負わせたり、買春をしてみたり、民間出身の
校長を、いじめ抜いて自殺に追い込んだり、無断欠勤や授業を放棄したり・・・もうこの
辺で終わりにしましょう。書けば書くほど虚しくなります。03/07/11

※渕源(えんげん) 物事の本質を成すもの。本源。みなもと。
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