信仰なき生活は人を滅ぼす

一昨年の六月、大阪教育大学付属池田小学校において、8人の児童を殺害し、教師と児童
あわせて15人に重軽傷を負わせた、宅間被告に、先月28日求刑通り死刑が宣告されま
した。
判決要旨によれば「被告自身の生活態度の当然の帰結というべき経済的社会的行き詰まり
に理不尽な怒りを募らせ、その怒りの矛先を、これまで自分に不愉快な思いをさせ続けて
きた社会一般に向け、以前から空想していた無差別殺人を実行して、自分と同じ苦しみを
多くの人に味あわせたいなどと考えるようになった」ということですが、今回の事例は、
信仰を忘れた現代の日本人にとって、厳しい警鐘となったことは否定できません。
信仰なき生活は人を滅ぼすものです。
皆さんがわかるまで、何度でも言わせていただきます。
以前にも述べましたが、人類社会には平等など絶対に存在しません。
一神教は、すべての人間は平等だ。などと無邪気に説いていますが、彼らの社会は平等な
のでしょうか?うそを言ってはいけません。
神道は不平等の存在を肯定し、いわゆる不適者の存在は、神が人類社会に清浄と光明を求
めしめ給うてだてである。と説くものです。さらに、罪深き者にも善の高い者にも、不徳
の者にも有徳の者にも、恵みの光が常に等しく降り注いでいる。とも説いています。
そして、不適者や罪深き者や不徳の者は過ちを悔いて、清く明るく直く正しい道を歩み、
常に心身を祓い清めれば清浄の人生を保つことができる。とされています。
宅間被告がこの事に気付いていたならば、あのような凶行に及ぶことはなかったかも知れ
ません。
被告はかつて「エリートたちの卵を殺しまくって、(自分は)国家によって殺される」と述
べましたが、彼の人格は、いわゆる「勝ち組」に対する激しい憎悪と嫉みによって、破壊
されてしまったのかも知れません。
我が国の社会が、成功した人間を「勝ち組」と持ち上げ、失敗した人間を「負け組」と、
さげすむ事を止めない限り、第二第三の宅間被告が必ず現れることでしょう。

そもそも人生とは勝負事などでは決してありません。
欧米流の競争原理は、我が国にはそぐわないものです。私たち日本人は、和を尊び、共に
生きることに喜びを見出してきました。
強いものだけが生き残るとされる弱肉強食という考え方は、二元的価値観しか持ち合わせ
ていない、冷酷な一神教の愚かな教えに過ぎません。
神道においては、強きも弱きも共に、神によって生かされるべき尊い命なのです。
実際のところ、アフリカのサバンナには弱肉強食など存在しません。
肉食動物が草食動物を食料にして生きることは仕方のないことです。
大自然のいとなみは
神の摂理(みはかり)そのものであり、そこには勝者も敗者もありません。
みはかりの中に自然があり、自然に包まれて生き物は共に生きているのです。

そして、この生き物の中に私たち人類も含まれていることは言うまでもありません。
要領のいい人間、頭のいい人間、人を利用することに長けた人間、不器用な人間、愚鈍な
人間、いつも人に利用されて損ばかりしている人間等々、世の中には実にいろいろな人間
がいますが、人類社会は、これら人間の戦いの場などでは決してありません。
人は、勝った負けたと騒ぐことなく、たとえ逆境にあっても奮闘努力し困難に果敢に立ち
向かい、自分を見失わず、自分の人生をあるがままに生きることの、強さと賢さと美しさ
を知るべきです。
人は、自分で勝手に、自分の人生に見切りをつけてはいけません。
終わりを決めることができるのは、神々だけなのです。03/09/02
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