自由と自在

株式会社文藝春秋発行の「週刊文春」が、田中真紀子前外相の長女の、プライバシー権の
侵害を理由に東京地裁から出版禁止の仮処分命令を受け、文春側は即座に異議の申し立て
を行ないました。
識者の間からは今回の事例が、今後「表現の自由」ならびに「報道の自由」の制限を助長
しなければいいが。と言う声も聞こえてきます。
まあ、もっとも「週刊文春」と田中家とは伝統的に不仲なので「ああ、またか」と言った
ところでしょうが、この表現の自由や報道の自由の「自由」というものが実にやっかいな
ものなのです。

キリスト教世界においては、人間存在の根源的価値を「自由」であることとしています。
ルソーは、その著書「社会契約論」の冒頭で「人間は自由なものとして生まれた」と述べ
ましたが、全ての人間が社会において等しく自由である。という事は絶対に不可能です。
かつてホッブズは、各自が己の自由を守る為には「万人の万人に対する闘争」に陥る。と
指摘しましたが、350年後のキリスト教世界、特に米国社会では、いまだにそれが続い
ているのです。
キリスト教世界において、人間が自由であり続ける為には、戦い続けなければならないの
かも知れません。

そもそも「自由」という言葉には、英語では2つの単語が存在します。
そう、「Liberty」と「Freedom」です。
Libertyとは「束縛からの自由」を意味し、束縛から逃れる為には、戦わなくては
なりません。一方、Freedomは束縛から解放された結果もたらされた自由であり、
「自由な状態」を指します。そして自由な状態が脅かされる時には、やはり戦わなくては
なりません。
つまり、
英語の「自由」という概念には常に「闘争」が付きまとっているのです。
キリスト教世界において「自由」が最も尊い価値観であるとするならば、キリスト教徒た
ちは、それを守る為に永遠に戦い続けることでしょう。或る時は、同胞と。また或る時は
異教徒と。

ところで、神道の世界の「自由」とは、どのようなものなのでしょうか?
神道においても、人間は、あるがまま「自由」に生きることができる。とされていますが
己が自由に生きる為に、他人が自由に生きることを妨げる事は絶対に許されないのです。
そこには自己と他者との闘争は存在し得ないのです。
古(いにしへ)より日本人は互いを尊重し、共に生きることに喜びを見出してきました。
神道の「自由」の概念は、キリスト教のそれよりも、遥かに次元の高いものなのです。
それは
「自在」であります。「自在」とは自由であり、安らかで静かな様を言います。
自在に生きる人間は、他者にも自在であって欲しいと願い、闘争よりも平和な共生を選択
します。自在な人間にこそ、幸福は訪れるものです。
神道は、全ての人間に、いかなる困難な状況にあろうとも、己の可能性を信じ、夢を信じ
明日を信じて皆と仲良く自在に生きよ。と説くものです。
そこには、生まれや学歴や、社会的地位や財産なんぞには左右されない、澄みて清らかな
人間の姿が在ります。
全ての日本人が「自由」よりも「自在」であろうとしなければ、我が国の復活は在り得な
いのです。大変ですが、がんばりましょう。04/03/19
トップへ戻る