哀しき契約社会

今月10日、今世紀に入って初めて衆議院が解散されました。
28日公示、11月9日投票。とされた今回の選挙戦は、天下分け目の関が原、自民党と
民主党の一騎打ちと言ったところでしょうか?左翼勢力の存在感はますます希薄になりつ
つあります。まあ、もっとも、共産主義勢力には一国を統治する能力も、正統性も無い。
と言うことは、今までの歴史を見れば明らかではありますが。
ところで、この普通選挙という制度は議会制民主主義における、代議制の根幹を成すもの
であり、主権者たる国民の生命と財産を守るための極めて重要な手段ですが、これはブル
ジョア革命によって成立した、近代市民国家において初めて実現されたものであり、近代
自然法思想と社会契約論にその根拠を求めることができるものです。
そして、この社会契約論と神道の精神とは、実は、かなり隔たりがありまして、そもそも
日本人と日本の社会には、この社会契約という考え方は、なじまないものと言わざるを得
ません。

1588年、英国のウェストポートに生まれたトマス・ホッブズは、その著書「リヴァイ
アサン」において、全て人間は平等であり、独立した存在であるとし、自らの生存を確保
する為には他人の生命をも、脅かすことが可能であると述べました。
彼はこれを「自然権」とし、このような人間相互の熾烈な生存競争の世界を「自然状態」
と呼び、人間は自然状態において「万人の万人に対する闘争」に陥ってしまう。と指摘し
ました。
人間は、闘争と言う自然状態から脱却し、人々を平和へと導く為に、人間の理性によって
互いに「契約」を結び、社会を統治する為の政治体「コモンウェルス」を生み出すことに
なるわけですが、これを「社会契約論」と言います。
自分を守る為には「何でもあり」という自然権は、欧米人の強烈な個人主義の源であり、
社会契約論は欧米社会の日常生活やビジネスの現場のいたるところで見られる細部に渡る
病的と言っても良いほどの執拗な取り決めを招いたのです。

我が国の社会は、このような一神教世界とは異なり、契約によって成立したわけではあり
ません。また、神道には社会契約と言う概念自体存在しません。

そもそも契約とは、全く信じ合えることのできない者同士が、自分の目的を達成する為に、
仕方なしに行なう取り決めであり、実は互いを尊重し合っているわけではないのです。
欧米のように人が人を信じられない社会なんて、あまりにも哀しすぎるではありませんか。
両者はスキあらば相手を潰そうと常に狙っているのです。
ですから、一方の契約違反が発覚した場合、他方は更に過酷な要求を突き付けることにな
りがちです。契約社会である欧米において、紛争や訴訟が多いのはこの為です。
神道において、人間とは本来、聖なるものであり、相手を欺くことなど、できようはずが
ありません。そして、聖は清に通じ、社会現象の一切は清を本体とするものです。

生まれながらにして神道者である私たち日本人は、互いを信頼し尊重し合い、共に生きて
きました。我が国の社会には、相手に対する疑念に満ちた契約など必要はありません。
ところが最近、政党は従来の公約に変えて、ほとんど根拠の無い細かな数値目標を定めた
マニフェストなるものを発表していますが、これは、我が国の政治家が一神教世界の社会
契約論に毒された証拠としか言いようがありません。数字を挙げれば信頼感が増すと言う
ものでは決してありませんし、実際に達成できるとは誰も思っていません。政治家諸君、
どうしたら国民の信頼を取り戻すことができるのか?もっとよく考えなさい。03/10/16

※自然法 人間の倫理観を形づくる普遍的な規範。「自然法とは、理性によって確認され
     るプリセプト(教訓)あるいは、一般的規則である。」byホッブズ
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