名誉ある地位


日本国憲法前文に「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」という文があります。
先日、小泉首相がテロ対策特別措置法案の審議の際、これを引用されておりましたが、
実は、私はこの一文がどうしても好きになれないのです。
明治維新後、新政府は殖産興業、富国強兵政策を推し進め、貧しい下級武士のせがれが
唱えた「脱亜入欧」を旗印に、名誉ある地位、すなわち世界に冠たる一等国日本を目指して
爆走を続けました。
この脱亜入欧論、すなわち、おくれたアジアと進んだ西欧という概念は、後の日本人に
アジアの近隣諸国に対する卑しむべき優越感を植え付けたことは、言うまでもありません。 
台湾、朝鮮の併合、満州国建国、中国、東南アジア諸国への進駐等、日本とアジアの不幸
な歴史の原点がここにあります。
日清、日露戦争に勝利し、第一次世界大戦でも戦勝国となった日本は、名実共に国際社会
において名誉ある地位を占めることができました。めでたし。めでたし。
などと喜んでいる場合ではありません。その後、日本はさらなる名誉を求めて破滅への道
を辿ることになるのです。

神の摂理(みはかり)にそむくことは滅亡を意味します。
摂理とは天徳の現れであり、天徳とは、光であり、空気であり、又、大自然の営みの一切
の現象であります。摂理の中に自然があり、自然に包まれて私たち人類も含めた生物は、
生かされているのです。
浅ましき名誉欲に駆られた為政者たちの戦争遂行は、まさに摂理にそむく行為に他なり
ません。加えて、ヒロシマ、ナガサキへの原子爆弾の投下も摂理にそむく重大な罪であり
ます。いずれ米国は、八百万の神々の裁きにあうでしょう。いや、それは既に始まって
いるかも知れません。
このように、名誉というものは、人が自ら進んで求めては絶対にいけないものなのです。
あれだけ、悲惨な経験をしながら、何故いまだに名誉ある地位にこだわるのか?私には
理解できません。
日本は大国にならずとも、平和主義に徹し、清く明るく直く正しい道を歩めば、天の徳、
地の恩に満ち満ちた清浄の世界と、光明にあふれる生活とを享受することができるので
あります。

私が、ショー・ザ・フラッグと求められたならば、このように返答したことでしょう。
「それは、貴国の空襲により、焼失した。」と。01/10/26
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