不平等が人を育てる


神道においては、不平等の存在を必ずしも否定しない。と前段で述べましたが、ここでは
不平等の存在を、ありのままの事実として受け入れ、どうしたら不平等と正面から向き合
い、決して腐らず、自分を見失わず、自分らしく生きることができるか?と言うことにつ
いて述べたいと思います。
人間はたった一人では生きていけない生き物であります。
人は、太古の昔から規模の大小を問わず、常に集団で生活してきました。ところで人間に
は生まれながらにして、能力の差というものがあります。狩りが上手い者と下手な者、作
物を育てるのが上手い者と下手な者、石器や道具の細工が上手い者と下手な者、喧嘩が強
い者と弱い者、勇気がある者と臆病な者というように、集団には様々な構成員がいるわけ
で、優れた者が劣った者を指導し、あるいは育成し、集団全体の生活水準の向上を目指し
ました。こうしたプロセスを経て、集団の中に自然に序列が生じ、序列の頂点に立つ者が
その集団を支配するようになります。序列の下位の者は上位の者よりも、彼の種々の権利
が制限されるようになり、この権利の制限こそが不平等の源であります。
そうして時代を経るごとに、ある特定の地域に複数存在していた、このような集団が次第
に淘汰され統一され、部族を形成し始めます。さらに複数の部族が淘汰され統一され国家
が誕生しました。国家権力は、個々の国民を序列化し、さらにその序列、すなわち階級を
世襲のものとし、完全に固定化してしまいました。これが身分制度です。身分制度とは
不平等の極致であります。
ヨーロッパでは、封建時代から絶対主義の時代にかけては厳しい身分制の時代でしたが
近代市民革命が達成され、民主国家が誕生して、初めて人権の尊重と法の下の平等が認め
られたのです。こうしてヨーロッパで生まれた平等の概念が、大東亜戦争後、占領軍に
よって我が国に、もたらされたわけですが、現実は、その理念からはほど遠いといわざる
を得ません。国家権力が定めた制度としての平等は、日常生活において満足のいくもので
はありません。
これは前述したように、政府がいかなる政策を施しても、人々の間に自然に格差が生じ
不平等感が沸き起こるからです。バブル崩壊後、我が国を覆っている閉塞感には、日本人
が常に抱いている、政治的、経済的又は社会的関係における不平等感が大きく作用してい
るものと思われます。この不平等感を取り除かないかぎり、日本人は活力を取り戻すこと
ができないのではないでしょうか?

世の中に不平等というものは確かに存在しますが、それは、かつてのように固定化された
ものではありません。我が国にはもはや、制度としての不平等は存在しません。
私は不平等こそが、人間を奮起させる起爆剤であると考えます。
不平等との闘いの過程において、人は成長するのです。
万物には陰陽の別があり、たとえば、強と弱、善と悪というように相反するものが存在し
ていますが、弱あるいは悪の側にある人は、強と善に属する人に対して不平等感を感ぜず
にはいられません。しかし、がんばれば弱と悪を抜け出して強にも善にも立てるのです。
不平等に甘んじている自分の境遇を嘆き、悲しみ、なすすべもなく、そこに立ち尽くして
いるだけでは、状況は何も変わりません。
道は険しくとも、自分の可能性を信じ、夢をあきらめることなく、明日を信じて一層奮励
努力しなさい。02/09/05
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