この論文は、私も参加している黒潮塾という勉強会の講師であります「月刊日本」編集委員の
野間健氏が拓殖大学日本文化研究所発行の「日本文化」誌上に発表されたものであります。
そこには、今後、日本民族の向かうべき地平と拠って立つべき処が示されています。

大和しうるはし


横田早紀江さんの言葉

 「日本の国のため、このような犠牲になって、苦しみ、また亡くなったのかも知れない若者たちの心の内を思って下さい。この事が大きな政治の中の大変な問題であることを暴露した事は、本当に日本にとって大事な事でした。そのために、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと、私は信じています。」(平成十四年九月十七日)

 横田めぐみさんの母上、横田早紀江さんの発した言葉。それは、戦後のわれわれ日本人の虚妄と偽善を白日の下にさらし、日本人のめざめを促した一瞬だった。政治的な言葉でも、憎悪の念でもない、めぐみさんを想う、早紀江さんの母としての情、そしてすべての日本国民の同胞としてのやるせない思いを即せた、日本人そのものの気高く、崇高なこころのあらわれだった。悲しく、寂しい、そして美しい、日本のこころであった。

 

 「生命の絶対的な瞬間が歌として現れるといふことは、古代人の信条である。この生命とは何かと云へば、神のものである。だから生命の白熱の意識が切迫した瞬間には、必ず歌が生まれる。この事実は作るのでなく、生まれるのである。こゝに神詠といふ思想の根底があり、かくして生まれた歌の姿におのずから風雅があり、従つてその徳用もあるわけである。」
(保田與重郎「言霊私観」)

 
日本武尊が東方征伐の途上、
走水海をお渡りになろうとしたとき、渡りの神が荒波を立てて尊の船が進めなくなった。尊の后、弟橘媛命は「妾御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政遂げて覆奏したまふべし」と仰って菅畳を八重、皮畳を八重、絹畳を八重を波の上に敷いて、その上にお降りになり、入水された。荒波は自然と穏やかになり、王船は進むことができるようになった。そのとき弟橘媛命はこうお詠みになったと伝えられている。


さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中
に立ちて 問ひし君はも



昨年九月十七日以来、めぐみさんはわれわれ日本人の心の中で、弟橘媛命になった。強いられた運命の中で、一身を擲って、日本の迷妄を醒ました、美しく高貴なその精神こそは、神国日本のこころではないか。

 北朝鮮による拉致問題を、人権問題、国家テロリズムと形容することはたやすい。しかし、こうした借り物の言葉では言い表せない、神詠の表白、そこにしか戦後日本の空虚からの甦りの契機はありえない。横田早紀江さんの、神意としか思えない言霊の深さを、われわれは直き心で受けとめ、日本人としての本然を取り戻すよすがとしなければならない。

古の弟橘媛命の誠は生きているのだ。


三島の呪詛

 「朕ト爾等國民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、単ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。」
(昭和二十一年一月一日『新日本建設ニ関スル詔書』より)

 三島由紀夫はその著『英霊の聲』で、昭和陛下の二・二六事件に対する処置と、戦後の上述『詔書』に関し、「二・二六霊」と「特攻霊」をしてこう語らしめている。

  

・・・昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだった。
何と云はうか、人間としての義務
において、神であらせられるべきだった。
この二度だけは、陛下は人間であら
せられるその深度のきはみにおいて、正に、
神であらせられるべ
きだった。
それを二度とも陛下は逸したまうた。もつとも神であ
らせられるべき時に、
人間にましましたのだ。

一度は兄神たちの蹶起の時。一度はわれらの死のあと、國の敗れたあとの時である。

歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、 陛下が決然と神にましましたら、あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであろう。

この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を失はせ玉ひ、二度目は國の魂を失わせ玉うた。


 そして三島は、昭和天皇を呪詛するが如く「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」を執拗に繰り返した。

 アメリカ占領軍によってつくられた現行占領憲法を批判する声は強い。しかし、この占領憲法は、いわゆる「神格否定」の昭和二十一年元旦詔書を前提としてつくられたものであることは明らかである。にもかかわらず、畏れ多いが故にか、『詔書』自体を批判する声は三島以外絶えて聞くことがない。論理としては、戦後憲法否定の前に、これの基礎を成す元旦詔書を否定するべきなのだ。

 『詔書』が現占領憲法と同様、米占領軍によって起草され、日本政府に発表を強いたものであることは、現在明らかとなっている。昭和二十年十二月三十一日、詔書発表前日、吉田茂外相は「親愛なる元帥閣下、本職はここに天皇の新年にあたり発布する詔書の日本語訳をお届けいたします」と、マッカーサーにわざわざ「日本語訳」と強調してその写しを伝達している。詔書作成の経緯を見れば、憲法同様、原文は英語であったことは歴史的事実である。とはいえ、綸言汗の如し、「神格否定」、「架空ナル観念」は、戦後の日本国民のこころに大きな空洞を空け、虚脱と脱力をもたらしたことは否定できない。戦後の復興は、むしろ、このやり場のない寂しさを、経済建設に傾注しきったが故に成ったと云うことも出来ようか。

 永遠の皇孫である天皇を通して「神聖」と繋がっていた神国の民、日本国民は、突然その糸を切られ、闇市場裏に放り出された。外来のデモクラシーやコンスティチューションを、怪しいものとは知りながら身に纏わざるを得なかった。仮着を二世代、三世代と続ける中で、もはやそれと感じられない世代が社会の多数を占めるに至っている。

 
「こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだろう、と考えて
た私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。(中略)私はこれからの日本に大した希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする」(「私の中の二十五年」三島由紀夫)

 
日本への絶望、三島の呪詛は正鵠を得ていたのだろうか。


神意と国体

 「我々は人間である以前に日本人である」(保田與重郎)。

不思議なことに、日本人はその肇国の秋から、運命と使命が定められており、それは神意としかいいようのないものだった。

 

一、寶祚天壌無窮の神勅

豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是吾が子孫の王たるべきなり。宜しく爾皇孫就きて治せ、行矣。寶祚の隆えまさこと、当に天壌の與窮りなかるべきものぞ。

二、寶鏡同床共殿の神勅

吾が児、此の寶鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。與に床を同じくし、殿を共にし、以て斎鏡と為すべし。

三、斎庭の穂の神勅

吾が高天原所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつる。

 

 日本書紀に記された、天照大神のこの三大神勅は、日本肇国の理想を簡潔に述べ、日本人の生き方を定めた。神々が住む高天原と全く同じ国を、この地上につくれ、というのが神勅の内容で、日本の理想は以降微動だにしていない。即ち国体である。

 その核心は、「米づくりを生活の基礎とする永遠の循環と平和の暮らし」の実現を、神と人間が一体となって行うことにある。常に土地の拡大を必要とする牧畜や畑作は、それ自体攻撃的なものである。完全食で自足的な「米づくり」の生産生活は、共同作業と一処への定住を必要とする平和の循環そのものである。


 今でも近畿地方の農村に存在する「宮座」とは、一種の農耕儀礼・祭祀を行う神事組合である。
「私が一見したある宮座の数百年に亙る記録は、その本文としては、年毎に何の変化もない行事記録を記し、仲間の相続や出奔や官の賞罰さらに出征従軍といった、この世の大なる歴史と、個人の重大なることさへ、実に紙背に誌してたのである。その宮座の記録では、それは表に誌すことでなく、紙の裏に誌す出来事であった。」
(保田與重郎「鳥見のひかり」)

 
とあるように、永遠に循環する水田耕作によるくらしこそが、神意による日本人の生活の本道であり、それ以外の事柄は、どんな大きな事件でも、紙の裏に書かれる出来事でしかない。生産生活そのもの、民俗そのものが神意に叶う、高天原の地上での実現であり、そのくらしが国体なのだ。

 天皇の即位式を大嘗祭と呼ぶ。一種の収穫祭である。朝鮮(高麗)、カンボジア、タイなどで収穫儀礼を王者の儀礼として発達させた例はあるが、これがそのまま王の即位式でもある、という例はわが国の大嘗祭以外には絶無である。天皇は米づくりの神事と人事の間に立ちながら、無所有、無限定、無個性(無姓)の、永遠のとして田植えから稲刈りまでの稲の一生を一年としてしろしめす役割を果たされているのである。

 日本の国体は、建国の肇から変わらない、人類の理想的生活共同体の地上における具現なのだ。

 崇神天皇の御代、天照大神(寶鏡)と天皇との同床共殿が終わり、天照大神は伊勢の五十鈴川の川上に鎮座された。神と皇が別れて住まわれたことから、米づくりの祭祀よりが分離し、いわゆる権力、支配、所有が生まれ、国体と政体の異同が始まった。人類初源の神人合一の幸せな時代は終わる。しかし、「宮座」の如き堅固な民俗、習俗は現代にまで生き残り、神人合一の匂いをわが日本社会は濃厚に漂わせている。

 そのため、今日でも政体に関する観念は薄く、原理的に民俗に於いて政治は否定されている。一種の習俗的アナーキズムといえようか。神意に叶う国体がある限り、わが国で政治は本来無用なのだ。


「古い時代における太宰府の制は、一切の外交を朝廷よりはづし、太宰府にその全権が委ねられた。征夷大将軍の慣習にしても、この古代の風になれ従つたのである。奈良時代に於てすら、今日の政権といふ考え方から、その実力を考へるなら、太宰府の実力は兵力財
力又外交上の利権などに於て、奈良の都に勝るほどであった。「す国の遠のみかどに汝等しかくまかりなば、平けく吾は遊ばむ、手抱きて我はいまさむ」と節度使に賜つた天平の御製が、親政の眞随だったのである。この風儀はしろしめす君が直接に権力界にふれることを忌むとも考へられる。この傾向からのち幕府の制へとうつり、さらに封建諸侯の政所の風がこれをうつしてまねた」(保田「述史新論」)。

 
国体の本筋から見れば、政体の問題は二義的意味しか持たなかったのである。奈良−太宰府、京都−鎌倉、京都−江戸という祭・政、国体と政体の地理的分離は日本人の自然な聖俗意識だった。

 わが国は、世界諸民族が忘却し、もはや石の遺跡でしか偲ぶことのできない、神人合一の時代を、神典の中で、そして現実の水田耕作を行う農村や、社会のくらしの中で、今でもはっきり残している、世界の奇跡なのだ。それは人為ではなく、天上界との「幽契」による、秘された神意であり、日本と日本人の世界に於ける意味は、そこに存するのである。


言挙げと「幽契」(カクリヨノチギリ)

 昭和天皇の二・二六青年将校の討伐、戦後の神格否定と占領憲法ご裁可。その延長線上の平成今上陛下の平成元年「朝見の儀」における、「皆さんとともに日本国憲法を守り」というお言葉。三島由紀夫の呪詛の対象である。

 わが国体は、建国の際に形が定まっている。天皇御一人に個別の意志は存在し得ない。また国体を呪詛によって変えることは不可能なのだ。それは神意だからである。天皇は、永遠の皇孫であり、霊統である。

 三島の「このまま行ったら「日本」はなくなつてしまふのではないか」という憂いと呪詛は人為であり、天壌無窮の神意には至っていなかったのではないか。

しかし、神意は知ることができず、行動の後でしか「幽契」を感じることはできない。

 日本武尊は、伊吹山の荒神退治の際、山を眺めながら、「この山神は徒手で直に取りてむ」と仰り、さらに山道で巨大な白猪と遭遇し「この白猪なれるものは、その神の使者にこそあらめ。今殺らずとも、還らむときに殺りてむ」といわれた。「この白猪に化れる者は、その神の使者にはあらずて、その神の正身にぞありけむを、言挙げしたまえるによりて、惑されたまへるなり」と古事記が解釈したように、日本武尊はこの言挙げによって伊吹山で死に至る病を得る。それまでも、敵である神々に常に言挙げし、危難にさらされている。言挙げに復讐され、死を迎えることで初めて「幽契」は姿を現す。

 三島は、日本武尊と父景行天皇との関係を、「これがおそらく、政治における神的なデモーニッシュなものと、統治機能との、最初の分離であり、前者を規制し、前者に詩あるひは文化の役割を擔はせようとする統治の意志のあらはれであり、又、前者の立場からいへば、強いられた文化意志の最初のあらはれである」(日本文學小史)と述べている。やはり統治と詩の発生という「幽契」はあったのであり、日本武尊は死を以てそれを証明したのだ。

 
・・・この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる・・・・「豊饒の海」完。


 三島は遺作『豊饒の海 第四巻 天人五衰』の最期で、人為がすべて否定され、無化された空間に辿り着いた。それは神意の世界であり、もはや死を以てしか「幽契」の存在を闡明にし得ない場所だった。『英霊の聲』(昭和四十一年六月発表)の呪詛は三島の言挙げであり、それは死を以て贖わなくてはならないことを三島はよく知っていた。


 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。(「檄」昭和四十五年十一月二十五日)


 『英霊の聲』での呪詛から四年、三島は一死を以て「幽契」を顕現させる挙に出たのである。そして確かに「幽契」はあった。なぜなら三島の自裁は、すべての日本人に神意というものを想い起こさせたからだ。  

 昭和先帝陛下の「幽契」は何だったのだろうか。

 誠実な立憲君主であらせようとされた先帝陛下の「神格否定」こそは、神人分離の時代の掉尾を飾る無意識の顕現だったといえまいか。

 先帝陛下と三島の「幽契」顕現は、神人合一の上古への復古を予感させる。神州不滅は逆証されたのだ。


還都の奇略

 先帝陛下のご崩御以降、冷戦構造が崩壊し、世界は動乱期に入った。平成の御代に入ると畏れ多いことながら、禍々しき事件が次々に起こり、政体はもとより、国体の衰微がもたらす、日本と日本人の病の深まりが明らかとなっている。

 そうした秋、戦後日本の惨状を、一身に担い、犠牲を強いられている横田めぐみさんの悲しく、しかし美しいこころのあり様が、自由、民主主義、人権、などといった小賢しい観念論を一閃し、日本人の胸奥の最古層を揺さぶり起こした。

 今は古(いにしえ)であり、古は今である。弟橘媛命は、神人合一の、わが日本の常民が堅く守ってきた神話を呼び覚ました。古の暮らしの理想を復古させればいいのである。またそうせねば、日本と世界は人倫の正義と理想なき、唯物論と拝金主義の循環の中で、奈落に落ちて行くだけである。

 昭和の御代で「幽契」は終わり、言挙げでない、型示しの「明契」としてわが国体を世界に顕わすべき時代となったのだ。まさに神意そのものである。

 明治維新の「神武創業に還る」理想は、文明開化と列強との戦いに阻まれて、型として実現できなかった。「蓋し国の六合(中心)」と神武天皇が呼んだ、神国創業の地、大和・飛鳥に、天皇陛下がお還りいただくという奇略こそは、神意に叶う、明るく素直な神州清潔の民の直観である。

 現代の日本に、米づくりに基づく神人合一の理想社会を現出させることは不可能である。しかし、世界が混迷を極める中、永遠の循環と平和をもたらす水田農耕祭祀を、ひたすら行う皇孫御一人がいらっしゃることこそが、わが国体の世界における運命であり、使命である。それには、外つ国の銅臭と、汚濁にまみれた東京をお離れになり、真の復古維新、神々がおわします大和にご帰還になる、楽しい奇略が必要ではないだろうか。

 世界は、政治的、経済的理由でもない、ただ建国の神意に基づいて日本の天皇が百数十年ぶりに還都される盛事に驚愕し、世界を救う日本文明の深遠さに今更ながらうたれるであろう。


倭は 國のまほろば

たたなずく 青垣

山隠れる 倭しうるはし (日本武尊)


野間 健 「月刊日本」編集委員



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