顕世と幽世

先月23日に起きた、新潟県の中越地方の地震は、未だに余震が続いています。
被災者の皆様には、心から御見舞い申し上げます。
今年は、自然災害が、これまでになく猛威を振るった年でした。
被災地の復興や補償の為に、政府は補正予算を組まなくてはならないそうですが、まずは
シナへのODAを廃止にして、その財源に充てるべきでしょう。

天変地異は、神の摂理(みはかり)であり神意の顕われであります。
しかし天変地異によって、善良な何の落ち度も無い人が甚大な被害を被ることに対しては
不合理さを感ぜずにはいられません。
実は、これは古より多くの人が抱いてきた疑問なのです。
何故、善人が損をして悪人が得をする。などというおかしな事が在り得るのか?
今まで世界の様々な宗教が、この難問に答えようとしてきましたが、まだ結論には到って
いません。

我が国においては、江戸後期の国学者が、この問題に取り組みました。
本居宣長は、その著書「くず花」で次のように述べています。
「善人は福(さか)え悪人は禍(まが)るは、これ善神の御しわざ。又悪人も福え善人も
禍ることあるは、これ悪神のしわざ」

悪人が幸福になり、善人が不幸になるのは悪神のしわざである。と言うわけです。
この悪神とは、
禍津日神(まがつひの神)と言い、伊邪那岐神が黄泉国から、命からがら
逃げ帰ってきて日向の小門の阿波岐原で禊(みそぎ)を行った時に成り出でた神です。
また「直毘霊(なおびのたま)」では
「そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所
為(みしわざ)にして」
と述べていますが、どうも要領を得ません。
さすがの本居宣長も、明確な解答は出せなかったようです。

これに対して、平田篤胤は
顕世(うつしよ)幽世(かくりよ)の概念において、説明を
試みています。
顕世とは、全てが顕(あらわ)になる、今私たちが生きている現実世界のことです。
幽世とは、目には見えぬ異界であり、人が死後、生活をする場。とされています。
かつて、天照大御神と須佐之男命が幽契(かくれたるちぎり)を結び、顕世は天照大御神
の子孫が、幽世は須佐之男命の子孫が、それぞれ治めることとしました。
ですから、顕世は皇御孫之命(すめみまのみこと)たる天皇が治め、幽世は大国主神が治
めているのです。
篤胤は
「幽世に入れば、尊きは自ずから尊く、卑しきは自ずから卑し。人の本世は顕世に
在らず、幽世なれば也」
と述べています。
これは、どういう事かと言いますと、顕世における幸不幸は神の御所為であり、まったく
予測不可能で、善人悪人を問わず起こり得るものなのです。
顕世には、
不幸な善人と幸福な悪人というものが確かに存在していますが、幽世において
は、それは絶対に在り得ません。善は尊きものであり、悪は卑しきものなのです。
両者は神によって厳格に分けられています。
したがって、顕世における幸不幸に一喜一憂することなく、常に清く明るく直く正しい道
を歩んできた人は、本来の生活の場である幽世に死んでから入った時に神によって正しい
評価を受けることができるのです。がんばりましょう。04/11/09
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