共に生きる喜び

神道の精神には、神々と人間が、そして生まれながらに異なる資質を持つ人間と人間が、
「共に生きる」と言うことが大前提として掲げられています。
天孫降臨以来、我が国においては、神々は日本民族を守護し給い、人間はそれによく応え
清く明るく直く正しい道を歩むことを旨としてきました。
神々と人間の共生の姿は、農作業、とりわけ「米作り」と収穫の祭りに最もよく顕われて
います。
人々は、老いも若きも、男も女も、共に汗を流し力を合わせて、荒地を開墾し土壌を整え
水を引き、苗を植え、一日たりとも休むことなく働き続けました。
神々は、人間を温かく見守り、四季の巡りと風雨の潤いを与え給うたのです。
このようにしてもたらされた豊作を祝い、祭りが行われました。
祭りは、神々と人間の交歓の場であると同時に、交流の場でもありました。
人間は豊作を神々に感謝し、神々は人間の努力を称え、共に喜び合い、御馳走を食べて、
酒を酌み交わし、歌い踊り、互いの絆の深さを実感したのです。
ところが、古(いにしへ)より連綿と続いてきた神々と人間の共生は、大東亜戦争後の、
GHQ(米国)による「神道指令」によって、否定され破壊されてしまったのです。
これによって、八百万の神々は歴史の彼方へ追いやられ、日本の社会は、人間同士の競争
と闘争の場と化してしまいました。

キリスト教を信仰する米国人は、自分が生まれながらにして背負っている罪(原罪)を、
あがない、神に許しを請うことこそが、人生の大きな目的と思い込んでいます。
彼らは、原罪をあがなう為には努力をして自分を高めなければならないと考えています。
米国人にとって「自分を高める」と言うことは、すなわち、出世をして、お金をたくさん
稼いで慈善事業に寄付をすることに他なりません。
ビル・ゲイツやスティーブン・スピルバーグが熱心に寄付をするのは、その為です。
米国の社会は、皆が自分を高めようと必死になり、過酷な競争が繰り広げられる、厳しい
弱肉強食の世界に成り下がってしまったのです。合衆国の建国の理念は死んだのです。
そこにはもはや「共に生きる」という概念は、これっぽっちも存在しません。
米国の占領政策によって我が国の社会は、こうしたゆがんだ競争原理にすっかり毒されて
しまったのです。
殊にバブル崩壊後、日本企業は生き残りを懸けて、欧米流の冷酷な成果主義や能力主義に
基づいて社員の選別を始めた結果、勤労者の労働の意欲は薄れ、心の病が増え、自殺者が
激増し、将来に対して何の希望も見出せないでいる日本人が増えてしまいました。

最近、能力において自分より劣った人間や社会的な弱者の人権が軽んじられたり、殺人や
虐待などの、凶悪で痛ましい事件が頻発しているのも、この事と無関係ではありません。
今こそ、全ての日本人は神道の精神に立ち返り、神々と人間、人間と人間が互いを尊重し
共に生きる喜びに溢れた、古き善き時代の日本を現代に蘇らせるべく、行動を起こさなけ
ればなりません。04/02/04

※原罪 アダムとイブが、神の命令に背いて知恵の木の実(林檎)を食べてしまった事を
    指す。それによって二人は楽園を追放され、限りある命となってしまった。
    これに対して、神道においては、人間に知恵が付くことは、罪であるはずはなく
    それはむしろ、神の喜びである。
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