■   長 崎 偉 人 伝   ■



大浦慶 上野彦馬

高島秋帆とお台場 井手 敦郎
高島秋帆
寛政10年8月15日(1798年)−慶応2年1月14日(1866年)
長崎町年寄を勤める高島四郎兵衛茂紀(しげのり)の3男。
名は舜臣(きみおみ)、字は茂敦(しげよし)、号は秋帆。 通称は四郎太夫、のち喜平。
文化11(1814)年に長崎町年寄のち会所調役頭取、講武所砲術師範役。高島流砲術の創始者。洋式兵学者。砲術家。
高島秋帆旧宅跡碑 高島秋帆旧宅の門 高島秋帆旧宅跡
砲術練習場跡 砲痕跡 長崎市皓台寺 高島家墓地
天保9(1838)年に、当時の大村町(現・万才町の家庭裁判所付近)にあった高島邸が大火で焼失したので秋帆の父で町年寄の高島四郎兵衛茂紀が文化3(1806)年にこの場所に建てた雨声楼(うせいろう)と呼ばれる木造2階建ての別邸に移り住んだのだという。国の史跡指定後、原爆に遭って大破し、現在は庭園のごく一部と石垣や塀、階段のみが、かつての名残りをとどめている。
高島秋帆旧宅跡 長崎市東小島町5 JR長崎駅から徒歩すぐの長崎駅前電停→長崎市電正覚寺行きで15分、終点下車、徒歩5分
秋帆生誕地の大村町本宅(現・万才町)で近年発掘された屋敷跡の一部には、現在、長崎地方裁判所の建物が建ち、一階フロアの一隅には、その時に発掘された遺物が展示されている。
私は仕事柄、年に何度か東京に出向きます。どちらの方向から羽田空港へ進入し、着陸するかにもよるのでしょうが、時として着陸の直前にレインボーブリッジやお台場を見ることができます。よく見ると、レインボーブリッジのお台場側たもとにはフジテレビの社屋や大観覧車も見えます。さらによく見ると、レインボーブリッジのほぼ真下に小さな四角い島がいくつか見えます。これが本来の台場(砲台)で、幕末に幕府の命を受け、高島秋帆が設計施工し完成させたものです。羽田空港に着陸する時にレインボーブリッジが見えると、私は無意識にこの「本来の台場」を捜し、幕末の混乱期に思いをはせたりしています。
高島秋帆は、長崎の町年寄の家柄に生まれ、本人も町年寄に就任しています。その傍ら、父から荻野流、天山流砲術を学んだが、長足の進歩を遂げつつある洋式砲術とは隔絶した差のあることを知り、文政6(1823)年シーボルトと同時に出島に来た商館長スチュルレルから西洋の進んだ軍事技術や軍隊という組織の運用のあり方を習得しています。更に、職権を利用し出島駐在のオランダ武官を通じて実際に大砲を輸入したりして研究を進め、天保5(1834)年頃にはこれを基に高島流砲術、洋式銃陣を教授するようになりました。迫り来る西洋列強の脅威といったものを誰よりも早く察知し、危機感を持つに至る秋帆は、アヘン戦争により、清国が完敗したことを知り国防の必要性を訴える意見書を幕府に提出します。これが有名な天保上書ですが、認められるところとなり、江戸郊外の徳丸が原で西洋式の軍事演習を命じられ、見事成功しています。これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣の江川太郎左衛門(坦庵)・下曾根金三郎に伝授し長崎に帰ることとなります。昭和44(1969)年、この土地は秋帆の名を取って高島平(板橋区)と呼ばれるようになりました。この様に、長崎人である秋帆が幕末の江戸に大きな足跡を残しているのですが、あまり知られていないことが残念です。一方、日本初の女医として知られるおイネの父シーボルトは、来日後、高島家の計らいで市内診療所を開設し、ここでシーボルトはお滝さんとの運命的な出会いをします。当時秋帆は20歳後半の好奇心旺盛な青年で、シーボルトと親交を結ばないはずがなく、互いに知識を吸収しあったはずです。しかし、残念なことにシーボルトは帰国直前に国外持ち出し禁止の伊能忠敬作製の地図(複製)などが発見され、大事件へと発展します(いわゆるシーボルト事件)。このため、シーボルトと親交があった日本人の多くが連座し刑場の露と消えていきました。当然秋帆にも嫌疑がかかったはずですが、そこは地元行政官のトップ(町年寄りとはそれくらい偉い役職です)、の地位を利用して自分とシーボルトの関係を示す証拠を全て消し去ったのではないかと推察します。結果、「秋帆親子はシーボルト事件に与らず。」との長崎奉行のお墨付きを得ます。
さて、徳丸が原での西洋式の軍事演習までは順風満帆だった秋帆ですが、その後、蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行の鳥居耀蔵(ようぞう)のワナにはまり、天保13(1842)年謀反の疑いをかけられ、10年の長きにわたり無実の罪で牢に繋がれることとなります。嘉永6(1853)年ペリーの来航により国防の必要性を痛感した幕府が西洋砲術、兵法の第一人者であった高島秋帆に目をつけ、牢から出し砲台の建設を命じたのでした。江川太郎左衛門の手付となり開国論を起草、それが翌安政元(1854)年の日米和親条約に大きな影響を及ぼしたといわれています。安政2(1855)年には前述の品川砲台を完成させ普請役に任ぜられ、鉄砲方手付教授方頭取にも就任しています。さらに、安政4(1857)年富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め、武具奉行格として後進の指導と武備の充実に貢献し、現職にあって年69歳で病死しています。
つぎに龍馬との関係ですが、龍馬が長崎で亀山社中を発足させた時、前述のとおり秋帆は江戸で幕命により活躍中でしたから両者が長崎で会う機会はなかったはずです。しかし、秋帆が江戸で親交があった著名人の一人に佐久間象山がいます。龍馬は千葉道場に通う傍ら、この佐久間象山の門弟でもありましたし、象山の妻が勝海舟の妹であることも有名な話です。もし現代風に佐久間象山が結婚披露パーティーを開いたら、高島秋帆と坂本龍馬はともに招待され、会場で顔を合わせる可能性があった、それぐらい近い関係にあった、といえるのではないでしょうか。そんなことを考えていたら、飛行機は羽田空港に着陸したようです。皆さんも東京へ行く機会があれば、レインボーブリッジ下にある高島秋帆が作った小さな人工島、台場を捜してみてください。東京の空の玄関口に長崎ゆかりのものを見つけると、何か縁遠かった東京もぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。



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