■   長崎の龍馬に関する史跡紹介    ■



坂本龍馬の銅像 史跡料亭「花月」 大浦 慶

写真の開祖 上野 彦馬 馬渡 善裕
上野 彦馬
天保9(1838)年8月27日(墓碑面では天保8年)−明治37(1904)年5月22日
写真の開祖として幕末の志士坂本龍馬や内外の有名人の貴重な写真を撮影。
「舎密局必携」刊行・天体観測・西南の役へ従軍し写真を撮るなど活躍。
長崎市浜の町アーケードからアルコア通りを北方向に進むと右手に医療法人「是真会」が見える。その向かい側に上野彦馬生誕地とされる看板がある。銀屋町16番地である。さらに、この銀屋町通りを西方向に進むと上野彦馬を顕彰する石像がある。坂本龍馬と並んだ像である。近くにめがね橋もある。石像から中島川を上流に進んで行くと上野彦馬宅跡(上野撮影局)の碑が見えてくる。ちなみに坂本龍馬が拠点とした亀山社中は上野撮影局から個人差はあるが徒歩で10分程の距離である。
上野彦馬生誕地(長崎市銀屋町) 説明文を拡大 上野彦馬生誕地の石像
上野彦馬宅跡碑(長崎市伊勢町) 碑文を拡大
上野彦馬は、天保9(1838)年8月27日に俊之丞の四男として長崎銀屋町で生まれた。幼少の頃、松下文平塾に通い、四書五経の素読を受け書を習った。父俊之丞の親友であった八幡町の町役人木下逸雲(1799-1866年)は、彦馬の利発そうな眼を見て将来きっと成功するであろうと確信していた。嘉永4(1851)年8月17日彦馬14歳の時に父俊之丞が62歳の生涯を閉じた。父俊之丞は、寛政2(1790)年3月3日長崎銀屋町16番地に生まれ、長崎奉行の御用時計師幸野家五代幸野吉郎八督融から時計製法のほか、象眼、彫金の細工の法を学び、蘭館の医師フォン・シーボルトなどに舎密学(せいみがく=化学)を学び、蘭通詞中山作三郎や吉雄幸載、楢林栄建、楢林宗建など蘭学者について蘭語、蘭学を学んだ。俊之丞の家業は、時計のほか製薬や火薬のもとになる硝石、そして更紗を製造した。天保10年頃から新大工町の中島川畔に別邸と硝石製錬所を設け、薩摩をはじめ各藩の煙硝御用達を勤めていた。俊之丞の業績はあげればきりがないほど多彩で、科学者らしく常に新しいものの発明発見をてがけ、死ぬまで前向きな姿勢を崩さなかった。進歩的、開拓者的な血は、息子の彦馬に引き継がれていくのである。また、父俊之丞は、日本に初めて写真機械を輸入した人である。その頃の写真機械というのは、フランスのダゲール(1787-1851年)が発明したダゲレオタイプ・カメラ(銀板写真)というもので、この機械は今日の写真機とはおよそかけはなれていて、箱の大きさだけでも60センチ四方はあり、重さも4キロぐらいあるとてつもなく大きいものである。俊之丞がダゲールの発明したダゲレオタイプ・カメラを入手し、天保12(1841)年に島津斉興に献じ、その子斉彬を写したということから、その日6月1日が「写真の日」となっているくらいだが、島津斉彬(1809-1851年)は、天保7(1836)年2月から弘化3(1846)年7月までは江戸詰で、その間薩摩に帰ってないことなどから誤りであることが定説となっている。奈良県天理市の幸野仁一時計店に残されている俊之丞自筆の手控えによると天保14(1843)年に一度輸入したが持ち帰り、そして再び嘉永元(1848)年にはいったと読みとれることから俊之丞がダゲレオタイプ・カメラを入手しスケッチしたのは、天保14年か嘉永元年であることが推測される。
さて、家督を相続した彦馬であったが、家業を継ぐには洋学が必要であったため、後見役として上野家の面倒を見ていた木下逸雲のはからいで豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓の私塾、咸宜園へ入門する。嘉永6(1853)年4月24日16歳の時である。広瀬淡窓は、天明2(1782)年4月11日日田豆田に生まれ、幼少の頃から四書五経を学び、12歳の頃は、1日に百の詩を詠じるほどの才子であった。ただ、病弱であったため飲食を節して身を養い、名利をすてて心を養うことを自戒とし、ひたすら学にはげみ学者としての盛名は全国に知られた。その門弟は3081人におよび、高野長英、大村益次郎、清浦奎吾など多くの人材を世に送り出している。淡窓の教育法は、課業、試業、消権(独見)の三つに分かれていて、課業は、素読(意味を教わらずに、ただ読むことだけを習う)、購読(意味を説明して聞かせる)、論読(塾生のひとりひとりに書物の一節ずつを読ませる)、論講(講義を順番でする)、会読(当番の者が購読、講釈をし、他の者がそれに質問して是非を議論し、勝った者が当番の席につく)の五種。試業は、試会(線香を焚いてその二本が燃えるまでの間に詩をつくる)、文の会(同じ時間内に文章をつくる)、句読切り(同じ時間内に四百字ばかりの漢文の白文に返り点、句読点を施す)、書会(書道の試験)の四種。この五種の課業と四種の試業で及第点をとると消権という口述試問を通過しなければならない。生徒はこの教育法を積み重ねて無級から一級下、一級上、二級下、二級上・・というように進級していくのである。彦馬は入門して1年半後の安政2(1855)年の11月には六級下にまで進んでいる。
彦馬が長崎を離れている間に天下の情勢は慌しい動きを見せていた。長崎では、安政2(1855)年10月、幕府は第一期海軍伝習所を開き、蘭館医バン・デン・ブルグを伝習所医官に兼任させ、医学、化学、物理学、測量、数学、石炭坑法、蒸気船操縦法、製鉄造法などを講義させた。この伝習所は安政6(1859)年までの4年そこそこしか存在しなかったが、近代日本の開幕であったことは確かであろう。海軍伝習所には、33歳の勝海舟を伝習生監とし、大通詞品川藤兵衛、小通詞西慶太郎、同じく本木昌造、役医師木村逸斎、町医師吉雄圭斎、筑前藩古川俊平、津藩堀江鍬次郎など幕臣や諸藩から集まった若い俊秀176名がいた。伝習所の伝習掛だった本木昌造は我が国印刷術の祖となった人である。彦馬は長崎に帰った安政3(1856)年頃から、木下逸雲の示唆で蘭通詞名村八右衛門について蘭語を学ぶことになる。安政4(1857)年には、ブルグの後任としてポンペ・ファン・メーデルフォルト(1829-1908年)が海軍伝習所医官として、ヤッパン号(後の咸臨丸)で出島に上陸。ポンペ29歳の時である。この来日が彦馬にとって運命的な出会いとなる。ポンペは安政4(1857)年9月26日に長崎奉行所西役所の海軍伝習所に当てられた一室で医学伝習の講義を始めるようになる。最初の学生は、江戸から派遣された将軍の侍医の息子松本良順をはじめ、司馬凌海、佐藤尚中ら各藩から集まった12名であった。開講後1ヶ月半のうち受講希望者が増えたため西役所に程近い大村町11番地の高島秋帆邸の右隅の一棟に医学伝習所を移したが、臨床教育に不適であったことから文久元(1861)年7月1日長崎村小島に養生所を設立し松本良順を教頭として診療を開始するようになる。彦馬がポンペの医学伝習所へ入門したのは、安政4年の暮れか5年の初め、ポンペが講義を始めてまもなくの頃である。名村八右衛門の推薦があったものと考えられる。家業を継ぐため舎密学の勉強を志してまもなく、ショメールの百科事典のなかにホトガラフィーという語を発見する。そして、生涯を写真にうちこむ決定的な影響を与えたのは、津藩から派遣されて兵学、砲術、海防の勉学にきていた海軍伝習所の堀江鍬次郎(1831-1866年)であった。この時知ったホトガラフィーは、発明後まもない新鋭機コロジオン湿板法のことで、ポンペに尋ねてみても写真術の原理はわかっても技術指導まではできなかった。彦馬はポンペをはじめ、松本良順や化学の先輩堀江鍬次郎、佐賀藩の伝習生中村嘉助らに薬品の調剤方法について相談しつつ、しだいに写真研究に打ち込んでゆくようになる。そのうち、堀江鍬次郎と中村嘉助の二人が、それぞれの藩主に働きかけて舎密試験所をつくり、ポンペから化学の教えを乞うことになる。彦馬は写真術への取り組みに闘志を燃やすが、簡単な図解や薬品の調合方法を原書の説明で実験するのであるから生易しいものではない。写真研究をはじめてから忍耐強い苦心の末、自製した写真機で興福寺の山門を写すことになる。ぼんやりと山門らしい形が写っていたものの、写真といえるしろものではなかったが感激は大きかった。その後も松本良順をはじめ、人物の撮影を試みるが写すほうも写されるほうも難行苦行であった。このような中、幸運にも彦馬の写真開眼のきっかけを作ったフランス人ロッシュが来日する。ロッシュは国学者中島広足(1792-1864年)を写したことで、日本人を写した最初の外国人として知られているが、世界各国の風俗風景を写す目的で長崎に上陸していらい精力的に写して回った。彦馬が出島のポンペ邸でロッシュの撮影した写真を見て、絵より正確にものの姿を写すことへの驚異と芸術の領域にまで高める工夫に全身が感動で震えた。彦馬はロッシュに技術指導を受けながら、初めて見る外国製写真機械に身じろぎ出来なかった。レンズが四角い木箱に固定してあっても箱が二重になっていて、レンズのついた内箱が自由に前後に移動できピントを合わせられるのである。このような写真機を手に入れる方法がないか堀江鍬次郎に相談する。夢のような希望である。ところが、堀江鍬次郎が江戸屋敷の藩主藤堂高猷(たかゆき)から、百五十両という大金をえて写真機を求めよ、という沙汰をもらったのである。鍬次郎はのちに高猷の子の守役として家庭教師の役を勤めるほど信任をえていたのである。ロッシュの紹介で出島に来ていた蘭人ボードウィンを介してフランスから新式機械一式を入手することができた。ボードウィンというのは、文久2(1862)年9月10日ポンペが帰国する後任として来日した精得館医師ボードウィンの三人兄弟の末弟である。長兄より早く来日しオランダ商事会社の駐在員として活躍していた。写真機を注文してから半年程たってから待望の写真機が届いた。ロッシュのものより性能がよく最新式の写真機である。
堀江鍬次郎が江戸屋敷の藤堂高猷から新機械を持って出府せよ、という命令を受けたのは、文久元(1861)年の早春であった。写真では彦馬ほど自信のない鍬次郎は彦馬と一緒に江戸へ行くことになる。初めて見る舶来の不思議な機械に高猷は目を輝かせたであろう。東中奥の縁側の一部が撮影所となり、高猷が進んでモデルになった。江戸滞在中の彦馬は、藤堂家の来訪客を写すばかりでなく、人にも教えるほど次第に自信を持ってきた。加賀藩家老本多氏家臣の高山一之は江戸で彦馬に写真術を学んだ数少ない一人である。高山は慶応年間にも長崎へ赴き彦馬に師事し写真の新法を学んだ。金沢上堤町に写場を開き加賀藩知事前田慶寧やその子利嗣公の肖像写真を撮っている。慌しい江戸の生活を送っているうちに、藤堂高猷の江戸在勤の期日が満ちて帰国することになった。藩主に従って帰国する鍬次郎から彦馬に津で藩校有造館の教師をしてもらいたいという殿様の意向が伝えれ、文久元(1861)年9月13日に江戸を発つことになる。津に入ってからは有造館洋学所の講壇に立ち蘭学を教えていたが、適当な化学の教科書がないことに気づき、鍬次郎の協力を得て「舎密(せいみ)局必携」を上梓した。文久2(1862)年正月刊である。四ヶ月というスピードで書き上げたこの本は、写真家にとっては貴重な手引書になり、津だけでなく江戸や京都や大阪などの本屋が競って発行を引き受けた。彦馬わずか25歳の時である。藤堂33万余石の大藩力の援助の賜物であろう。
上野彦馬が長崎へ帰ったのは、文久2年の秋であった。松本良順に帰郷の挨拶をし、帰途京都で広瀬元恭に会った話などをした。広瀬元恭は初対面の白面の青年に書生っぽい扱いをしていたが、彦馬が「舎密局必携」の著者であることを知ると、掌をかえすような急変ぶりを示したのだった。広瀬元恭は、甲斐出身、15歳で江戸に出て坪井誠軒について蘭学を修め、10年余りして京都で開業、頼三樹三郎や吉田松陰ら志士とも親交があった。堀江鍬次郎などは、兵学の先輩として彼の著書を読んでいた。慶応になって津公が幕命で京都を護ったが、砲塁を八幡山崎に築いた時、勝海舟とともにその造営監督の任に当たった。その広瀬が「舎密局必携」に敬意を表したのだから彦馬の実力は相等なものであったことが解かる。上野彦馬は以前にもまして写真研究に打ち込むようになる。ただ、諏訪神社やオランダ坂や出島などの風景を写してまわるものの人物を写すとなると高いモデル料を出して写させてもらうというあんばい。しかも写真の研究と実験には金がかかる。そのうち、礼金は払わなくてもモデルになった人が酒や魚を持ってくる程度に変化してきたが、まだお金を払うのは失礼だという観念だったのである。父俊之丞が死して10年あまりの上野家の生活は決して楽ではない。遺産を食い潰すばかりであった。そうした中、文久2(1862)年の暮れに写真館開業の看板を掲げる。キリシタンバテレンの魔法と怖れる人たちに営業として写真が成り立つなど思いもよらぬことであった。わずかにトーマス・グラバーや精得館の教師ボードウィンなど外人から写料をもらう程度であった。特権階級にしかふれることの出来なかった写真が次第に全国に普及していったのと同時に写真の迷信も益々全国に広がっていった。彦馬の蘭語の師名村八右衛門の子、名村泰然の従兄は写真に写ってから病気になり、死ぬまぎわに「写真に祟られたー」と絶叫したという。また、薩摩の島津斉彬が家臣市来四郎右衛門に命じて家臣の二人を試しに写させようとした時、指名された二人は、「人の魂を吸い取るという異国渡来の不気味な機械などに、日本魂が吸い取られるとは祖先に対して申訳ない。さりとて君命ともなればこれを如何ともなすことができぬ・・・」と書き置きして切腹したという笑えぬ悲劇もある。当時の人々の写真に対する畏怖感がよくうかがえる。彦馬が開業した年に関東の下岡蓮杖も横浜野毛で開業している。蓮杖40歳の時である。西の彦馬、東の蓮杖はともに写真の開祖といわれている。写真館の看板を掲げたものの開店休業である。写場といっても庭園の露天撮影である。彦馬の写真の腕が評判になるのは、蘭人や唐人など外国人の間であった。入港するとかれらは異国の記念にと写りにくる。だが、彼らも最初のうちは謝礼にガラス器やパイプや象牙の細工品を置いていく程度であった。もう道楽や余技ではない。生計を立てるには写料を決める必要がある。名刺判一人写し金二分、二人写しならその倍、三人写し三倍と値段を決めることになった。二分金とは現在の貨幣価値に直すと約2万円に相当するだろうか。名刺判1枚の写真が2万円とはちょっと想像を絶するが、実際に銀貨を溶かして薬品をつくるのだから原価が高くなるのも無理はない。元治元(1864)年、彦馬は27歳になった。この年の写真界の記録は、新潟新発田(しばた)生まれの足袋職人だった木津孝吉が函館船見町に写真館を開いている。社会情勢は蛤御門の変や第一次長州征伐など激動の時代。彦馬はそんな社会の動きに目をつぶったように写真研究に没入していた。しかし、一方で丸山通いは続いていた。特に筑後屋の遊女梅香枝(うめがえ)とはただの客と遊女の関係ではなくなるのである。彦馬の結婚は慶応2(1866)年29歳の時である。写真の営業も軌道にのってきたこともあり人のすすめでムラ(牟羅)と結婚する。楠本慎助の長女で時に17歳。梅香枝はこの結婚を悲観して投身自殺をする。彦馬が梅香枝のもとへかよいつめていた頃、江戸の勝海舟をはじめ、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎、長州の高杉晋作、桂小五郎、井上聞多、伊藤俊介、佐賀の大隈重信など、尊王倒幕を画策する血気さかんな志士、剣客たちが上野撮影局の写客になった。写真研究の成果が実績をあげ、営業も軌道にのりかけてくると彦馬の周囲にはいつのまにか人が集まってくるようになり弟子を養成する立場になっていく。内田九一をはじめ、亀谷徳次郎、古川俊平、富重利平といった人々である。
慶応2年には彦馬は長崎における歴史上の事件に関係する。奉行高橋美作守の呼び出しに応じてイギリス水兵の屍体を撮影したことである。7月6日の夕刻、上陸したばかりの英兵が酒に酔って丸山の遊廓引田屋の前で遊女に戯れていた。悲鳴をあげ逃れようともがくが悪ふざけは一向に治まらない。ちょうどその時通りかかった黒田藩士の若侍7、8人のうち先輩格の金子伴吉が一瞬銀閃を浴びせたのだった。いわゆるイカルス号事件である。英国公使パークスは、海援隊のしわざと決めつけ幕府に火急の談判を持ち込んだ。そのため、外国奉行平山図書頭らが土佐まで派遣されたりした。そのうち明治新政府になり、大隈重信の奔走で犯人は金子伴吉であることがわかる。国際裁判の証拠写真を撮影したのは、日本人写真師として上野彦馬が最初である。だが、この異人屍体撮影事件があってから屍体を写すとは何事という風評がたち、一時的ではあったが写客が途絶えることになる。明治になってから一般に湿板写真が流行し営業写真師は、函館、東京、横浜、大阪、西宮と全国各地に誕生し、全国を巡業するなど急速に広がっていった。明治4(1871)年には大阪刊行の「全国写真師見立番付」に、行司下岡蓮杖、横山松三郎、勧進元上野彦馬、内田九一、東大関守田来三、西大関上野幸馬と位置付けされ関西での彦馬の名声ぶりが理解できる。
明治7(1874)年12月9日は、上野彦馬の生涯でも記憶に残る日となった。金星が太陽面をかすめて通過するという天文学上貴重な現象が起こった日である。上野彦馬はこの現象の観測のためにやってきたアメリカ隊の依頼を受けて観測写真の撮影に協力した。彦馬37歳の時である。日本へはアメリカ、フランス、メキシコの観測隊がきたが、長崎で観測したのはアメリカ隊とフランス隊であった。アメリカ隊は天文学者のジョージ・ダビッドソンを隊長とし観測場所を大平山(別名星取山)に定め観測にあたったが、この日は天候が悪く観測が完全な成功でなかったようである。その時の観測写真が今のところ1枚も発見されない由ではないだろうか。
明治10(1877)年になった。上野彦馬40歳。2月に始まった西南戦争に従軍して、その戦跡写真を写すよう長崎県令北島秀朝から依頼を受ける。北島は征討参軍海軍大将川村純義(1841-1904年)の命によるものであった。依頼を受けた彦馬は、弟子の野口丈一と薛信一を助手とし、暗幕や四つ切判の湿板写真機・原板入の箱などを運ぶ人夫8人を連れて従軍した。一行は田原坂の激戦跡などを切株で足を怪我しながら写してまわった。今残っているのは、民家の土蔵の壁が弾痕であばたのようになっていたり、砲弾で松の幹が切り削がれ山肌がえぐられたりした惨状をリアルに写した写真である。ただ、兵士の死体が一つも写ってないのは、官軍といい賊軍といっても殺し合いに正義も不正義もない。殺戮行為そのものは悪であるといった彦馬の戦争感がうかがえる。1ヶ月の従軍を終えると、県令に595円61銭の請求をした。写真207枚代、人夫賃代などである。請求を受けた熊本総督本営参謀はその額にびっくりしたらしく北島長崎県令へ電報で内訳の照会をしたりした。この写真は長く陸軍省にあったが、戦後は陸地測量部から国土地理院を経て、現在は東京西麻布のペンタックス・ギャラリーに保存されている。
上野彦馬が営業写真師としてしだいに忙しくなるのは、西南戦争以後である。明治10年6月には、アメリカ合衆国の前大統領グラント将軍を撮影したことや、同年9月に行われた第一回内国博覧会に出品した彦馬の写真が入賞したことも、世間に彼の知名度を広げる役目を果たした。また、明治13(1880)年には、後に朝日新聞の社長村山龍平(当時31歳)も彦馬の写場を訪れている。村山は10年後の第一回貴衆両院選挙のあと当選した両院議員の顔写真を東京日日に載せる。亜鉛写真版の最初である。また、当選議員の写真を新聞に掲載した初めである。上野彦馬の全盛時代は、明治14(1881)年頃から始まる。明治14年の4月に岩崎弥太郎が後藤象二郎から買収した高島炭坑が発展、長崎の町はしだいに活気を帯び人の出入りも激しくなると、しぜん日本人客も増えるようになったが、なんといっても外国船が入港した日など撮影局の玄関前から伊勢町の大神宮の付近まで外人客を乗せた人力車が列を作って待つというほどであった。明治15(1882)年、上野彦馬は旧宅を取り壊して上野撮影局を新築する。和洋折衷の二階建、延50坪の白壁の練塀をめぐらせた大邸宅であった。スタジオだけでも間口三間(約6メートル)、奥行六間(約12メートル)、パリにでもありそうな古いカシの木でつくった椅子や肘なし椅子、石膏製の柱、ボール紙製の岩などが背景の小道具に配置してあった。スタジオの天井はギヤマンを張りめぐらしていたから、長崎の人は「ビードロの家」と呼んでいた。明治20年代になると上野彦馬の1年間の撮影収入は、1万ないし1万5千円もあった。県庁の役人が月収10円そこそこの時代である。ちょっと想像を絶する。もっとも、金銭に快淡な彦馬は蓄財に無関心であった。無一文でもいっこう苦にならないかわり金があればあったで湯水のように使うので、生涯を通じて豪奢な生活をしたのもわかる。明治23(1890)年、53歳の上野彦馬は、ウラジオストックへ視察旅行に出かけ、帰ると門弟の渡瀬定太郎を支店長としてペキンスカヤ大通りへ写真館支店を出した。翌24年の夏には、さらに上海と香港へ支店を広げる。鈴木忠視と上野才造をそれぞれ支店長に起用した。外国まで進出しながら国内では長崎以外に手を延ばさなかったのは、多くの弟子が全国にばらまかれていたからであろう。それに長崎上海間は東京より近かった。
明治24(1891)年5月11日、ロシアの皇太子アレクサンドロビッチ(後のニコライ二世)が、滋賀県の大津で護衛の巡査津田三蔵に斬りつけられる事件が起こった。皇太子は、父アレクサンダー三世からシベリア鉄道の起工式をあげるための命令でインド及び極東巡遊の途に上り、長崎へ入港。長崎から鹿児島にまわり神戸に上陸し、京都から大津へと観光を続けたさいの奇禍であった。その長崎滞在中に、上野彦馬の写客となったのである。この大津事件は、裁判の見本のようにいわれて、あまりに有名である。ときの大審院長児島惟華謙(1837-1908年)は、閣議において死刑と内決し、元老伊藤博文、松方首相、西郷内相らが裁判官に圧力をかけたが、屈せず、刑法にその条文がないゆえを持って、ふつうの殺人罪として無期徒刑に処し、司法権の独立をまもったのだった。このニコライ暗殺未遂事件が長崎に聞こえると上野撮影局はニコライの写真を求めて焼増がブームを呼び、応じきれぬほど全国から注文が殺到した。さらに、明治26(1893)年、明治天皇、昭憲皇太后の写真を400組複写し、九州全域の学校に奉安する。電灯はこの年ついたばかりで、昼間は日光、夜は電灯で焼付けを行った。明治天皇御夫妻の写真が全九州の学校に飾られることは、上野彦馬の面目と声価をいっそう高揚させることになった。相変わらず上野彦馬の身辺は多忙を極めたが、写真研究は死ぬまで怠らなかった。明治36(1903)年満65歳の上野彦馬はついに病を得た。年の暮れ12月22日に次男秀次郎とその家族を撮影したのが仕事の最後になった。市内五島町の今村龍之輔医師の診断では「胆管閉塞及胆嚢水腫」という病名であった。翌37年に県立病院(後の長崎大学医学部付属病院)へ入院し大手術を受けた。死を覚悟してか家族の反対を押して葬式駕籠に揺られていった。彦馬の病状は徐々に悪化の一途をたどっているようであった。入院して1ヶ月経過した頃、彦馬の訴えで自宅療養することになる。明治37(1904)年5月22日午後4時に上野彦馬は自宅で息を引きとった。67歳であった。ときあたかも窓の外は日露戦争大勝利の号外の鈴がけたたましく鳴り響く最中であった。死の数日前、見舞いの弟子たちを枕元に並ばせて、めいめい得意なかくし芸をやらせるという茶目ぶりを発揮したが、最期の意識がなくなる直前のうわ言には、「どうしてもカーボンを完成させんば・・そうだ、そうだ、パットをそげん動かせばよか・・カーボンは変色の心配がなかけん、安全たい・・」とつぶやいていた。華やかな数々の話題をふりまいた我が国最初のプロカメラマンの死であった。墓は、皓台寺の裏山、長崎港を見下ろす風頭山頂にあり、ムラ夫人、愛妾お蝶とともに仲よく眠っている。そこから見上げると、平成元年5月21日に建立された坂本龍馬の銅像がそびえたっている。
上野彦馬の墓入口 上野彦馬の墓(風頭山頂) 上野彦馬胸像(長崎市立山町)
昭和9年に上野彦馬撮影所跡に銅像が建てられたが戦災により破壊され、昭和26年に長崎市立山町(長崎県立図書館)に再建された。
参考文献・資料 上野一郎他監修「写真の開祖上野彦馬」
八幡政男著「幕末のプロカメラマン」



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