■   長崎の龍馬に関する史跡紹介    ■



坂本龍馬の銅像 大浦 慶 上野彦馬

史跡料亭「花月」 加藤 貴行
史跡料亭「花月」の玄関
江戸時代、長崎の丸山といえば江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれた不夜城でした。寛永十九年(1642)、長崎奉行所の命により丸山町と寄合町に遊廓が集められて官許の遊里となり、総称して「丸山」と呼ばれていました。花月(当時は引田屋)の創業もこの年です。花月は丸山随一の遊廓引田屋の庭園にあった亭で花月楼とも呼ばれていました。丸山は江戸から幕末、明治維新まで長崎を舞台に活躍した国際人の社交場であり、今日で言うところの高級文化サロンでもありました。ドイツ人シーボルトが当時の引田屋の遊女・其扇(楠本滝)とのロマンスを実らせたのはよく知られています。また中国清代の画家で我が国の花鳥画に大きな影響を与えた沈南蘋も訪れ、その絵画を残しています。文人墨客も数多く訪れ、なかでも頼山陽は三ヶ月にわたって逗留し、花月を「養花山館」と名づけ篆刻も残しています。また文
政八年(1825)には文人墨客や諸藩の文士、来舶唐人らを集め「長崎書画清譚会」が開かれ、毎年春秋に催されています。これが日本における美術展の始まりです。
      日本で最初の洋間「春雨の間」             「竜の間」龍馬が残したといわれる刀傷
幕末には維新の志士たちの出入りも多く、大広間の床柱にある刀痕は坂本龍馬が残したものといわれています。さらに引田屋の裏口付近で英国人水夫暗殺されたイカルス号事件で、丁度その夜花月で遊んでいた海援隊の菅野覚兵衛・佐々木栄の二名に嫌疑がかけられたために龍馬は奉行所に苦情書を提出、その下書きを掛軸として亭内の資料館に展示しています。
                 イカルス号事件で龍馬が奉行所に提出した苦情書の下書き
明治十二年、丸山の大火で家屋の四分の三を焼失しましたが、消失を免れた部分に移転して営業を再開、現在も当時のままの姿を残しています。昭和三十五年三月二十二日に土地建物すべてが長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業しています。
史跡料亭花月のホームページは  http://www.ryoutei-kagetsu.co.jp/



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