■   長崎の龍馬に関する史跡紹介    ■



坂本龍馬の銅像 史跡料亭「花月」 上野彦馬

茶貿易の開拓者 大浦 慶 馬渡 善裕
大浦 慶
文政11年6月19日(1828年)−明治17年4月13日(1884年)
大浦家は17世紀以来200年にわたり長崎の油屋町で油商を営む旧家。
幕末から明治初めにかけて日本茶の輸出を試みて成功、貿易商として活躍。
長崎市浜の町アーケードを東方向へ進むと油屋町の橋本ビルが見えてくる。その脇に「大浦けい居宅跡」と刻んだ石柱が立てられている。史料によれば屋敷は間口約24間とあるからほぼこのビルの間口に相当する。敷地は約426坪で土蔵が三つ並んでいたという。慶は57歳で亡くなるまでこの「油屋町壱番戸」で暮した。慶の死後、明治19(1886)年には松尾浅吉が所有。その後、ある時期には旅館「宝屋」となり、明治36(1903)年1月21日には夏目漱石が投宿している。明治43(1910)年橋本辰二郎の所有となり、その後、旅館「清風荘」と呼ばれた。昭和43(1968)年橋本ビルを建てるとき、庭の石灯篭や庭木や屋敷の一部を現在の橋本邸に移している。大浦慶旧宅跡地からさらに東へ進むと高平町の高台(昔は高野平と呼んだ)には大浦家墓所がある。
大浦けい居宅跡碑 碑文を拡大 大浦慶の墓 墓の側面
慶は文政11(1828)年6月19日油商を営む太平次夫妻の娘として生まれる。その後、賀古市郎右衛門次男の大五郎(1818年-1837年)が婿養子として大浦家に入る。しかし、慶9歳の時亡くなる。その死は深い衝撃を与えたに違いない。慶が生涯独身であったことは、亡き婚約者への追慕の念の故であると考えられる。そうだとすれば、勝気な男まさりのために婿を追い出したなどと揶揄的に言いふらすむきがあったが、彼女はまことに奥ゆかしく貞淑な女性としての一面を持っていたのである。大五郎の死後、油の専売の特権は幕末の社会変動の中で揺らぎはじめ、財政的にも苦しさが増していた。加えて天保14(1843)年10月24日夜に大火の難に遭う。出来鍛冶屋町より出火して、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼け、その他いくつもの寺が焼失した。油屋町の大浦家も被災は免れなかったであろう。慶が16歳の頃である。彼女は大浦家再興のため全力をあげねばならなかった。
嘉永6(1853)年出島在留のオランダ人テキストルに談判し、嬉野茶を見本として英・米・アラビアの三ヵ国へ送るよう委託した。その製茶は上中下の等級に分けてそれぞれ3斥ずつ9斥を1斥ずつ袋に入れて9袋とし、3袋1セットで三ヵ国へ送ったわけである。安政3(1856)年英商オールトが長崎へ来航。その際、米国向けに巨額な注文を受け、肥前国嬉野・彼杵大村、筑後国柳川・福島、豊後国、肥後国八代・人吉、薩摩国仙台、日向国など九州一円の茶の産地を駆け回りあるいは人を遣わして1万斥の茶を集めた。当時の茶の生産量は少なく、1村数斥、1郡数百斥を得るに過ぎなかったため苦労したであろう。安政4(1857)年に最初の1万斥を輸出したことで子供の頃からの悲願であった大浦家再興の夢は実現の一歩を踏み出したのである。慶30歳の時であった。製茶貿易は順調に発展し莫大な富をもたらした。当時、世界市場において茶は重要な高額商品であり、幕末に日本へやってきた外商たちは喜んで日本緑茶を買い求めた。オールトは大浦海岸の居留地に大規模な製茶工場を建てて、産地から集まった緑茶を再製して輸出している。安政6(1859)年6月2日長崎・横浜・函館の三港が開港し、以後自由貿易の時代が始まる。この後1861年にアメリカで南北戦争が起こると、茶輸出は一時停滞するが、1865年の戦争終結と共に需要が飛躍的に増大し、1866年には長崎港からの輸出はピークに達した。茶貿易に成功した大浦慶の名は、幕末の長崎にあって一躍知られるようになった。この頃、志士と呼ばれる人々が彼女の屋敷に出入りし、坂本龍馬・陸奥宗光・大隈重信・松方正義らとも交流があったと言い伝えられている。1860年代の終わりが近づくにつれて開港と共に長崎港の特権的な立場は失われてゆき、茶の大産地静岡茶を横浜港から輸出する動きが急速に伸びて徐々に衰退の兆しを見せ始めていた。
明治4(1871)年慶44歳の時、遠山事件と呼ばれる詐欺事件が起こった。翌1872年に裁判となり、足かけ2年にわたって、慶の上に大きな心痛と苦難をもたらした事件である。慶は長崎における茶貿易の衰退を見極め、再び自己の商売を立て直す必要をひしひしと感じ、茶に代わる取扱い商品を模索したり、取引先や販路の開拓に迫られていたのではないだろうか。そういう時期に、1871年6月熊本藩士遠山一也(当時36歳)が、品川藤十郎の通弁で英商オールトへ熊本産の煙草15万斥を売込む取引をまとめ、手附金3千両を受取る際の保証人として慶の名を貸してほしいと頼んできた。慶は一旦は断ったが、遠山は自分が熊本藩から派遣された如く装い、同藩の福田屋喜五郎の名を勝手に用いて連署人として偽の印を押した証書を作るなど種々の術策を使って慶の目を欺こうとした。中でも万一契約違反のときは熊本の支配頭が責任を持ち慶には少しも迷惑をかけないという一札は、当時として重要な意味を持つものであった。さらに、通弁を務めた品川藤十郎も、しきりに慶に連判することを勧めた。蘭語・英語に堪能で県の役職にもあった品川の存在は慶の信用を深めるのに効果が大きかった。ついに、慶はその依頼に応じ、オールト商会に出向いて約定書に連判した。慶の頭の中には、これから熊本藩との取引関係を築いていこうという心づもりもあったのかも知れない。ところが約束の期限の9月末になっても遠山は長崎へ1斥の煙草も送ってこない。心配した慶はあれこれ手を打つが効果がない。ついにオールト商会から手附金の返還を求められるが、熊本藩との交渉で12月末に至ってようやく、遠山の家禄5ヵ年分として約352両の支払いを受け、オールト商会へ納めることができたのみであった。こうして翌明治5(1872)年1月慶はオールト商会から遠山・福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、彼女自身も遠山・福田屋二人を相手取って出訴に及ぶのである。同年7月から8月にかけて判決が出され、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが、慶も保証人として1500両程の多額の賠償責任を負わされることになった。しかし、県役所は品川藤十郎の共犯の事実と証拠をつかんでいながら、それを隠蔽しようとした。県の役職にある者の犯罪として、県当局へ責任が及ぶのをおそれたものと考えられる。不当な判決をうけ、慶は品川藤十郎の背信に気づき、彼を告訴する口上書を提出した。同年8月23日付の口上書は、自分の信頼を裏切った品川に対する慶のやるせない怒りと無念の思いが込められていて、公正な裁判を願う真情が読む者の胸を打つが、県役所はこの訴えを無視して取り上げなかった。この後9月に慶は、オールト商会へ月62両余を20ヶ月にわたって償還すると約束し家屋敷を抵当として差し出す旨の証書を役所に提出している。こうして遠山事件をきっかけに大浦家は没落を余儀なくされてゆくのである。
明治17(1884)年4月5日、明治政府は大浦慶に対し、茶貿易の先駆者として功績を認め、功労賞と金20円を贈った。当時の県令石田英吉は、岩山農務局長あてに大浦慶が既に病重く危篤状態である故に、ぜひ生前のうちにその功を賞してほしいと要請している。その要請は受け入れられ受賞の報せが4月5日に電報で届けられた。翌6日に県令の使者が慶宅へ出向いて受賞を知らせた。そのわずか1週間後の4月13日に57年の生涯を閉じたのであった。ここで当時県令であった石田英吉についてふれておきたい。石田英吉は天保10(1839)年11月8日安芸郡中山村中ノ川に医師伊吹泰次の長男として生まれる。幼少の頃、高松順蔵(坂本龍馬の姉千鶴の夫)の私塾で高松太郎らと学ぶ。文久元(1861)年には父の影響により医者を志し緒方洪庵の門下生となる。学問の傍ら千屋熊太郎らとの交流により文久3(1863)年には土佐を脱藩して京へ入り、吉村虎太郎らと合流し天誅組に加わるが幕府との戦により長州へ敗走。元治元(1864)年には忠勇隊の一員として京市中へ進軍するが中岡慎太郎らと共に再び三田尻に敗走。慶応2(1866)年に高杉晋作率いる奇兵隊に加わる。下関海峡戦では坂本龍馬の意向を受けてユニオン号に乗り込み、砲手方として小倉藩門司陣地を砲撃するなど活躍する。その後、坂本龍馬から誘われて高松太郎らと共に亀山社中に参加。慶応3(1867)年4月に亀山社中から海援隊となり陸奥宗光と貿易や海軍の事務に尽力するが、慶応3年11月15日海援隊隊長坂本龍馬が近江屋で暗殺されたことで結束力に亀裂が生じるようになり慶応4(1868)年閏4月27日海援隊は解散する。明治維新後の英吉は新政府へ出仕し、明治2(1869)年には長崎県少参事、明治8(1875)年5月には秋田県権令、明治16(1883)年3月長崎県令、明治21(1888)年11月には千葉県知事に就任。明治23(1890)年に陸奥宗光が農商務大臣に就任した際には次官を務め、貴族院議員にも選出。明治25(1892)年11月には高知県知事となり、その後農商務次官、貴族院議員などを歴任して男爵を授けられ華族に列せられ明治34(1901)年4月8日京都で没している。長崎県令当時に大浦慶の功績を讃え明治政府からの功労に尽力されたことは、坂本龍馬をはじめ海援隊士へ支援を惜しまなかったと言い伝えれている慶に対する感謝の気持ちからなのかも知れない。
大浦慶にとって「商法の道」とは、人間の信義であり道義であって、その道をはずれて商いが成りたつものではなかった。「商法の道」を以って筋を通す信念こそ慶の長崎商人としての誇りであり心意気であった。政治・経済の活動には、常に自己責任がつきまとうものである。今を生きる我々は、先人である慶の心意気・姿勢をもっと学ぶべきではないだろうか。



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