朝になって目を覚ましたら、鏡に映る自分の名前を確認する。それを習慣にした。ここでは、それを呼んでくれる人がいないから、確認しなくては、また忘れてしまうのではないかと思ったからだ。
見るもの、会う人にラベルを貼って、区分けする作業を始めた。研究員、警備員、戦闘員、作業員、ロボット、サイボーグ。
俺の頭は、長い間、それを分ける作業を怠ってきたから、ただそれを判断するだけでも、随分大変だった。考え事をする時間は格段に増えたけれど、俺の頭はなかなかうまく働かなかったから、研究員を一人脅して、薬の成分を調べさせた。
今更、悪い噂が一つ二つ増えても構うまいと思ったのだったと思う。この時ばかりは、自分に対する噂も呼び名も有り難かった。答えは驚く早さで返り、俺はそれら全てを捨てることにした。
それを見て、002がやたらと嬉しそうな顔をしていた。再改造前に、俺が薬を飲むのを嫌がっていた彼だから、それが今になって聞き入れられて嬉しいのかもしれない。
彼はこの頃、俺があまり反応を返さなくても、わりと頻繁に傍にいるようになって、007の演説も、時折一緒に聞いては、それに口を挟んでみたり、何かと理由を付けては俺の周りをちょろちょろしている。ちらりと聞かされた話によると、最近ではなくて、以前からずっとそうだったという話だったが。
「今、8号が改造中なんだって話だよ。深海活動ができるようにされたサイボーグなんだってさ。」
彼は、何がそんなに楽しいんだろうか、と思う程に、終止嬉しそうにしながら俺に向かって話しかける。もちろん、この話題はさすがの彼も少し落ち込んだ様子で、俺は再改造前に7号までの改造が行われようとしている時の彼の様子を思い出した。あの時とは少し違い、彼は随分落ち着いていて、どこかで安心をしたけれど。
「どれくらいで終わるのかな…」
「しばらくかかるだろう。」
答えを返すと、彼は頷いて、それから笑った。
「最近また、話してくれるようになったよな。なんか、安心する。」
親鳥に懐く雛というのは、こういうものだろうかと思ったが、順番から言えば、彼の方が親鳥でもおかしくない。年令を考えれば、そうも言ってはいられないのは確かで、俺が自分より後にやってきた、年上の007には何となく安心するのと同じだろうと思うが。
「泣き言が言えるから?」
問いかけると、彼は驚いたように目を見開いて俺を見返し、それがら嬉しそうに笑った後、ふと何かを考えるようにして、ため息をついて顔をうつむけた。
どうやら、俺が以前の事を覚えていたことが嬉しいらしいとは、わかったのだが、その後のため息の意味はよくわからなかった。以前の俺だったら、こんなことを考えなかったな、と思った。
「どうしたんだ?」
「やぁ、御同業。」
問いかけと同時に、声をかけて表われた007に、俺から右側の席を手で示すと、彼は頷いて椅子を引いた。
以前はそうではなかったのだが、時間が飛んでからは、サイボーグも勝手にこの施設内の食堂で食事をすることが許されるようになった。それでも、研究員などのサイボーグ以外の人間達がいる中で、呑気に食事をするのは気が重く、俺はサイボーグの誰かがいないならば、ここへ足を踏み入れることはないが。
「8号の事は聞き及んでいるかね?」
「今、002から聞いたところだ。」
饒舌な科学者が傍からいなくなったことで、俺に流れてくる情報は殆どゼロになった。代わりに、002たちサイボーグが時々情報をくれるようになったが、それはあまり詳しい話ではなくなった。研究員を脅してやれば、多分簡単に情報は入ると思うのだが、あまり頻繁に行動を起こしては、目立っていけない。
「明日には改造が終わるそうだ。回数を重ねて、手慣れてきたと言うところか。」
「また、忍び込んだのか?」
彼が、その能力を駆使して、施設内の諸々の情報を手に入れているのだという話は、最近になってやっと教えられたことだった。
以前の俺ならば、教えられたその情報を漏らしかねないからと、俺には知らせられなかったことが多々あるそうだ。それは正しい判断だったと思う。俺にその気がなかったとしても、彼等は容易くそれを実行できたことは、間違いないことだと俺も知っている。
「この目で確かめられることは、確かめておいた方がいいと言われてな。」
007と俺が話しはじめると、002はどこかふて腐れたような顔で立ち上がった。
「どうしたね?」
「呼び出し。」
007の問いかけに、ぶっきらぼうにそう答えて、002はテーブルを離れていった。
「……何か、したか?」
002が突然機嫌を悪くするのはよくあることで、俺はその度にこの007に相談に行っているのだが、どうやらそれも002には気に入らない可能性があるとかで、それは言わないようにと言われている。
「………いや…吾輩が悪かった。」
苦々しい表情でそう言い、007はため息をつきながら、運んできたトレイの上のサンドイッチを手にとった。
「ところで、お前さん。最近の戦闘訓練の結果にばらつきがあるとかで、議論のネタになっていたぞ。」
「ああ、最近、色々試しているから。」
戦車を潰す場合、どこに着弾させれば中の人間は逃げられるかだとか、ロボットの群れの場合、どの辺りを中心に狙うと効果的だとか、003などに聞かれれば、顔をしかめられるに違いないようなことを思案している。お陰で、データは着実に集まっている。もちろん、誰にも言ってはいない。彼等は、自分が兵器であることを嫌っているから。
「それは、また、やる気だな。」
彼は少し驚いたようにそう言い、少し戸惑うような表情を見せた。
「……前に、俺は誰にとっての死神かとあんたは言ったな。」
それでも、その話を振ると、彼は静かに頷いた。
「正義の味方はがらじゃないから、悪人にとって。なんて事は言わないが、とりあえず決めた。」
「…なんと?」
「俺と、俺の仲間から、自由を奪う全てが、俺の敵だって事にする。」
彼等が、ここから逃げ出すという計画を示したのは、本当に最近の事だ。奪われた自由を取り戻すために。ならば、正義も悪も関係ないだろう。俺にはあまり、生きている価値があるとも思えないが、彼等を守ることができるのならば、少しはましな価値がつくかもしれない。
だから、そう決めた。死神と呼ばれようと、自分が何の為に作られていようと、そんなものはどうでもいい。俺が俺であると意志を残されているのならば、全ては俺が決めればいいことなのだろう。
ならば、邪魔をするものは、叩き潰す。
俺には、その程度の感覚が似合っている気がする。
目の前に立ち塞がる敵を倒す姿を見て、俺を『死神』と呼ぶと言うのならば、俺は別に死神でもいいと思う。こんなにも、選り好みする死神も珍しいだろうが、いても悪くはないだろう。
「……」
彼は、何も言葉を返さず、それでも深い息をついて頷いた。彼が、何を思ってその息をついたのか、実は俺はさっぱりわからない。安堵なのか、呆れなのか。それでも、それは非難ではなかった。
「あんたがここへ連れてこられたのは、あんたにとっては不幸かもしれないが、俺にとっては、僥倖だったと思うよ。」
そう言って立ち上がると、彼は驚きに目を見開き、続いて複雑そうに表情を暗くして苦笑を浮かべた。
「お前さんが話のわかる人間だったことは、吾輩にとっての僥倖だったと思うよ。」
ため息まじりのその声は、それでも俺を否定しはしなかった。それがきっと、俺が彼に感じる安心の理由なのだろうと思う。
もしあの時、俺に語られたのが、他の誰かの言葉だったら、きっと俺は聞かなかったろうと思う。でも彼は、戸惑いもせずに、俺を死神と呼び、俺の前に様々なカギを落としていった。彼一人が考え出したことではないのだと、後から聞かされたけれど、たとえそうだとしても、彼の口から出た言葉でないのならば、きっと、また違う意味を持って俺に届いたことだろう。
だから、彼でよかったのだ。彼が、ここにいるこの現実は、神に感謝してもいい。
死神の感謝を、神が受け入れるかどうかは知らないが。
『死神』完結。突き抜けたハインリヒ。
彼は、彼なりにその呼び名に意味を持たせていることと思う。という辺りの私の主張。彼は、戦うことも、自分が兵器であることも、認めていると思うので、こんな感じです。戦闘担当の意識もあると思うし。意志ある兵器であるならば、敵を判断しなくてはならない。その判断基準が、彼にははっきりと作られていると思います。彼は正義の味方じゃないけど、戦う相手はわかっている人だと思います。
密かに彼を、ボンバーマンとか、クレイジーボマーとか呼んでいるのは、私だけじゃないと思うが、どうなんだろうか…