次の朝、高く昇った太陽に起こされたジェットは、一つのびをしてベッドを降りた。
「?」
廊下が騒がしく感じて首を傾げ、ジェットがドアを開けた途端、こめかみに固い物が押し付けられた。その感触を知っていたジェットは、ドアノブを握ったままの姿勢で、視線だけそちらへ向けた。
「ジェット?」
驚きを含んだ低めの声が聞こえ、押し付けられていたものが下げられるのを確認してジェットは首をそちらへ向けた。
「……ハインリヒ、それ…」
今さっき、自分のこめかみに押し付けられていたのは、銃口だった。だが、使用人である彼は、特にそれ以上の詫びも言わず、胸元のホルスターへそれをしまい、にこりともせずに胸ポケットから携帯端末を取り出した。
「旦那様、2階にいらっしゃいました。」
どうやら、昨夜あまりに落ち着かなくて、空き部屋に潜り込んだ事で、捜索活動をさせてしまったらしいと、ジェットはこの騒がしさの理由に気付いた。しかし、それにしても、人形の世話係なんて言う呑気そうな仕事をしている人間が、小型ではあったけれど、銃なんて物を所持しているとは驚きだった。しかも、迷わず頭を狙ってくれた事に、ジェットは少し彼に対する評価を変えた。
「どうしてここに?」
昨日一日で、なんとか謙った言葉遣いをしないようにと言い続けたのが効を成してか、ハインリヒはそう問い掛けてきた。
「……上の部屋、落ち着かないから。」
その態度が嬉しい反面で、その理由の情けなさに気まずい気分でジェットが答えると、彼はし暫くその言葉を噛み締めている様子で、それからやっと頷いた。
「あの、人を馬鹿にした部屋。確かに。」
使用人とも思えないその物言いに、ジェットは少々面喰らった。ジェットは自分に対して謙るのは嫌だと言ったが、もしかして、彼は元からそういう言葉遣いをしていない人なのではないだろうかと思った。もしくは、彼がその部屋の住人だった人間が嫌いであったか、この家自体が好きでないから、その気持ちが現われての事だろうか。
「入った事ある?」
「何度か綺羅と行かされたからな。」
大旦那様の大事な人形と、その世話係。多分、彼がいなくては、人形はその部屋には行かないのだろう。そう考えると、彼の立場は、単なる使用人とは少し違う。彼は別にどうしてもこの家で生活していなくてはいけないわけではなく、人形なんてどうでもいいと思えば、さっさと出ていってしまって構わないわけだ。困るのは、彼に出て行かれた雇い主の方で、可哀想なのは人形。だから、彼にはあまり小うるさい事を言えなかったのではないだろうか。
だが、思い出せば、彼は最初はきちんとジェットに整えられた言葉を使ったし、今も誰かへの連絡には、固い言葉遣いをしていた。という事は、先程のあれは思わず出た本音というところだろうか。
「で、ここで寝てたと?」
不思議そうに問いかける彼も、今さっき部屋から出て来ましたという様子で、隣は彼の部屋だったようだとジェットは思った。記憶を辿れば、その部屋は使っているとかで、中は見なかった。悶々としていた理由の一つが、すぐそこにいたとは笑える話だと思いつつジェットは頷いた。
「おかしいかな。」
「いや、真っ当な感覚じゃないかと思う。」
彼はそう言いつつもおかしそうに笑い、階段を駆け降りてくる足音に気付いてそちらへ目を向ける。
「これから、綺羅の世話?」
「ああ。暇になったら、来てやってくれ。」
問いかければ彼は振り返ってそう答えてから、背を向けた。それは、人形に会いに来いと言われた言葉に違いないのだが、まるで、彼に会いに来いと言われたかのような気分で、ジェットは幸せな気分を味わい、そしてまた、肩を落とした。気の迷いであったはずのその感情は、どうやら迷いではない方向へ落ち着きつつあるらしかった。
「旦那様、次からは、書き置きなり残していただけるように、お願い致します。」
階段を走ってきたらしい執事の息は少し上がっていて、ジェットは他にも自分のせいで屋敷中を駆け回るはめになった人々がいるかと思うと、少し申し訳なく思った。
「…ああ。そうするよ。」
「では、朝食が整っておりますから、どうぞ、こちらへ。」
執事はそう言ってジェットの前に立って歩き始め、ジェットはハインリヒの後ろ姿をちらりと見てから、執事に問い掛けた。
「世話係が、寝る時は離れてていいのか?」
「子供を寝かし付けた後の両親が、テレビを見る事は誰も咎めたりはしないでしょう?」
執事はそう言ってそれを容認し、ジェットもそれに同意した。寝てる子供が起きた時には、きっとどうにかして彼を呼ぶ手段があるのだろう。ならば、彼が自分の落ち着く部屋に帰るのだって、許されるはずだ。
「それに、綺羅は、夜に起きる事は殆どないようですからね。」
執事は言って階段を上がり、ジェットはそれに続こうとして首を傾げた。
「食堂って、下じゃなかった?」
「朝食は、寝室で。というのが、旦那様のご方針でしたので…」
「………そう。じゃ、明日からはさっきの部屋に運んで。」
呆れた話だ。と思いつつ、あの広い食堂を朝から整えろと言うのも迷惑な話かと思い直して、ジェットはそう答えた。
「先程の部屋ですか?」
「そう。俺、あそこを寝室にするから。」
はっきりとジェットが答えると、執事は戸惑いの表情を浮かべつつ、それでも黙って頷いた。
「では、部屋を整えさせておきます。」
「よろしく。」
執事が執事らしい慎みを持ってくれている事に感謝して、ジェットはにこりと笑った。
お披露目の日取りが決まりました。と執事は言い、ジェットにその茶会の準備をするようにと、指示をした。ジェットはそれに戸惑いつつ、相談に行くとて、ハインリヒの元を訪ねた。
「茶会?ああ、あれか。」
人形の服を整えてやっていた彼は、ジェットの問い掛けに頷いた。
「綺羅、向こうで遊んでおいで。」
にこりと笑いかけてそう言ったハインリヒに、綺羅は満面の笑みで頷いて、窓際へ駈けていった。
「綺羅を出しておけば、ある程度の満足は得られるだろう。あれは、珍しくよく笑う人形らしいから。」
ハインリヒはそう言って、ジェットの持ってきた紙束を手に取った。
「食事のメニューなんて、わかんねぇよ。」
「昨日の夕食のあれ。とか言ってやれば、執事が取り計らってくれる。俺のところに来ないで、執事に相談したらどうだ?」
呆れたようにハインリヒは言い、ジェットはここに来る理由が欲しかったんだと、腹の中で答えた。
「前の茶会の時は、庭に花を敷き詰めろとか言ってたな。女性陣は楽しそうにしてたが、ああいう人達はきらびやかな物とか好きだからな。」
「他には?」
彼は人形の世話係として茶会にはきちんと出席しているらしく、あれこれと人気らしいケーキのメニューなどを説明し、ジェットはそれを紙に書きなぐってちらりと人形へ目をやった。
「あれって、愛情で育つってホント?」
「大人になるって話は聞かされたな。そうなると大変だから、気をつけるように言われた。」
せっかくの目玉がなくなってしまったら、確かにそれは痛手だろう。驚くような値段を払った物なわけだし、できれば最後まであの形で置いておきたいものだろう。
「人形が育とうとするんだそうだ。自分が人形である事が納得できなくなるんだとさ。」
「可愛がられてるだけじゃ嫌だって?」
「愛情の種類に依るんだと言われたぞ。若い男が買うと育ち易いとかも言われたな。」
「……ふぅん…」
確かに、自分だけ見てくれる可愛い女の子になら、真剣に愛情を注ぐ奴もいるかもしれないなと、ジェットは思った。自分みたいに、可愛くもない男に惚れた馬鹿もいるわけだし。それよりはずっと真っ当な気もしてくると言うものだ。
「ハインリヒは、どうなの?」
彼が笑いかけるのは、綺羅に限られる。自分にも笑いかけてくれる事もあるけれど、笑顔の種類が違うとジェットは思う。
「綺羅は懐いてくれて可愛いが、あれは人形だとしか思えないな……」
その言葉は、少々意外だった。彼は、綺羅をとても大切にしているように見えるし、綺羅も相当彼に懐いている。見ていて、親子のようだと思うのだから、娘のようだ、くらいは言うかと思っていた。
「そうなの?」
「俺の天使。とか言う持ち主もいるらしいけど。やっぱり、人形は人形だろう。」
俺の天使。という表現には驚いたが、そう呼ぶような人間に育てられたら、人形でも育とうとするかもしれないと、ジェットは思った。何かをしてあげたいと思えば、人形でいてはどうにもならないのだ。ならば大人になる。そういうことなのだろう。
「でも、あれが妹だったら、ちょっと楽しいかな。」
ジェットがそう言うと、彼は少し驚いたような表情を浮かべて笑った。
「いつまでも、妹ではいてくれないよ。」
それは、彼の実感なのだろうかと思って、ジェットはこちらを見ている綺羅に手を振った。
茶会は、それは派手な衣装を身に纏った人々が参加して行われた。ジェットは、それまでに必死に覚えた客人の名前と顔を思い出しながら挨拶をして回り、世の金持ちは暇を持て余しているのだな、と、しみじみ思った。
そんなきらびやかな客人たちの間を、ハインリヒと綺羅は揃って挨拶して回っていた。流石に茶会の目玉だけあってか、綺羅を呼び、ハインリヒに声をかける人々は多かった。
「………触んな、ババア……」
その様子をちらちらと見ながら、ジェットは小さく呟き、隣に立つ執事が、驚いたようにジェットの名前を呼んで注意を促した。
「旦那様、お言葉にはお気をつけ下さい。」
黙って頷き、ジェットはこれまでに叩き込まれた言葉遣いを、頭の中で繰り返した。大体、その客がハインリヒの腕を掴んだのも気に入らないが、それに対して、あの滅多に笑わない彼が、見事な笑顔で対応している事が、ジェットには、何より気に入らなかった。茶会の席に出てきてからずっと、ハインリヒはそれはもう、ジェットが見た事もないような笑顔でもって、対応し続けている。それが、端から見ても明らかな営業スマイルならばまだしも、綺羅に向けるあの柔らかい笑顔に近いだけに、何とも理不尽なものを感じずにはいられなかった。
「旦那様、笑顔ですよ。」
執事の注意に頷いて、ジェットはそこから目を反らした。このまま見ていると、叫んで駆け寄りそうな気分になるのは、目に見えていた。
何とか無事に茶会を終えた次の日、ジェットはいつものように執事から一日の予定を聞かされ、いつものように、椅子を立ち上がった。
「ハインリヒのとこ行ってくる。」
「お怪我なさいませんよう。」
何時もは聞かない言葉を向けられて、ジェットは首を傾げて執事を見返したが、執事はそれ以上は何も言わずに笑みを浮かべてジェットを送り出した。
その執事の様子に首を傾げつつ、ジェットはいつものようにその部屋を訪れた。
「……ハインリヒ?」
いつもなら、綺羅の髪を整えてやっている時間だがと、見慣れた景色のない事に首を傾げてジェットが部屋へ入ると、小さな足音が近付いてきて、綺羅が姿を見せた。
「おはよう。綺羅。」
ジェットが声をかけると綺羅はにこりと笑って頷いてから、おもむろにブラシを差し出した。
「ハインリヒは?」
問いかければ、綺羅はソファを指差し、ジェットはそこにハインリヒが寝そべっているのを確認した。
「………どうしたんだ?」
彼はぐったりとしたまま、天井を見上げていたが、着ているものは、昨日と変わっていなかった。そう言えば、昨日は隣の部屋の明かりが一度もつかなかったと、ジェットは思い出し、彼があれからずっとあそこでああしているのかと、驚いた。
綺羅は首を横に振り、ジェットにブラシを見せて自分の髪を示す。
「うまくなくても怒るなよ。」
ジェットはそう言ってブラシを受け取り、綺羅を椅子に座らせると、ハインリヒがしているように、その金色の髪を整えてやる。
「ハインリヒ、昨日からあんなか?」
問いかけると綺羅はしっかり頷き、ジェットはソファに寝そべっている彼が、少しもこちらに気付いていない事をいぶかしみつつ、疲れているのだろうと思う事にした。
綺麗に髪を整え終わると、綺羅は満足したように笑い、窓際の定位置へ駈けていった。ジェットはブラシを置くと、ソファに足を向けた。
「ハインリヒ、大丈夫か?」
眠っているのかも知れないと思い、小さな声で問い掛けながら、ジェットはソファの彼を覗き込んで息を飲んだ。
「……ハインリヒ?」
彼は、目を開けて天井を見ていたが、まるで死んだかのような虚ろな目をしており、更に何ごとかを小さな声で呟いていた。その様子に不安を感じだジェットが顔の前で手を振っても、彼はそれに反応を示さず、せめて何を言っているのかを聞き取ろうとしたジェットは、彼の呟いている言葉が、自分の知らない言葉である事にため息をついた。
執事は、怪我をするなと言ったが、それは、この状況を知っていての事なのだろうかと、ジェットは首を傾げた。だが、こんな状態の彼が、どうしたら怪我を招くと言うのかとも思った。しかしこのまま彼を眺めていても多分彼が自分に気付く事はないと言うのは、ジェットにもわかる事で、ジェットは仕方なく、窓際の綺羅の元へ足を運んだ。
「綺羅、今日は、俺と散歩に行こうか。」
問いかけると綺羅はにっこり笑って頷き、立ち上がると壁際のクローゼットから、つばの広い帽子を持ってきた。それで、自分の提案が受け入れられたのだと理解して、ジェットはそれを綺羅に冠らせて、その手を引いてテラスから続く階段を降りていく。
「ハインリヒ、昼には戻るかな?」
問いかけると綺羅は首を横に振り、ジェットは小さくため息をついた。
「昨日の、茶会のせい?」
いつもの彼らしからぬ状況であったのは確かだけれど、あんな状況になるとも思えず、ジェットが問いかけると、綺羅は深く頷いて、少しため息をついた。
「……そっか…」
ジェットは綺羅と同じように小さくため息をつき、二人は少し沈んだ表情で、庭を揃って歩いていった。
そして、帰ってきた部屋は、何が起きたのだろうかと戸惑う程に汚れていた。
「ハインリヒ?」
まさか、泥棒でも?と思ったジェットは、ハインリヒが立ち上がって綺羅のミルクの用意をしている事に気付いた。だが、その様子はいつものきびきびした彼とはまるで違い、亡霊のように力なく、棚からカップを取り出そうとして、ポットを取り落とすような状況だった。
「ハインリヒ、俺がやるから、座ってて。怪我するから。」
執事の言っていたのはこれかと、やっと合点が言って、ジェットは慌てて彼の腕を掴んでそれを止めた。綺羅が自分の温めたミルクを飲んでくれるかどうかはわからないが、この状況ならば、綺羅だって我慢してくれない事もないだろう。いつもならばハインリヒと行く散歩だって、自分と一緒で我慢してくれたのだから、そうに違いない。
「……ジェット?」
やっと、自分を認識したらしい彼にほっと息をつきその腕を引いて彼をソファに連れていくと、ジェットは走って行って綺羅のベットから毛布を引き剥がし、ソファに戻ると、横になっているハインリヒに掛けてやった。
「今日は俺が綺羅を見てるから、寝てていいよ。片づけもしとくから。」
ハインリヒは暫く不思議そうにジェットを眺めていたが、小さく頷いて目を閉じた。それを確認してほっと息をついたジェットは、綺羅が傍でそれを眺めているのに驚いた。
「ごめんな。綺羅の毛布勝手に使って。」
謝ると、綺羅は首を横に振って、優しい手付きでハインリヒの頭を撫でた。人形としか思えないとハインリヒは言ったけれど、綺羅がこうして彼を気遣うようになる程には、彼も綺羅を大切に思っているのだろうと、ジェットは思った。そして、綺羅が彼の傍に座って、ぽんぽん、と優しく肩を叩いてやっているのを見て、彼女にそうしてやっていたハインリヒが想像できて、ジェットは思わず笑みを浮かべ、そして、綺羅のためにミルクを温めようと、部屋の隅へ足を向けた。
ハインリヒは、夕方になり空が暗くなってやっと、目を開けた。その間に、綺羅はジェットの温めたミルクを飲み、昼寝をした。ジェットは綺羅が寝ている間に部屋の中を片付け、執事に新しいカップやポットを用意するように頼みに行き、執事は既に用意されていたらしいそれらの品を差し出した。そこで確認したところ、茶会の後は、あの部屋で相当数の物が壊れる事になっていたとの事で、今回は被害が少なかったという話だった。
「……すまない……」
ハインリヒは、小さくそう言って頭を下げ、ジェットは首を横に振った。
「俺も昨日は疲れたし、ハインリヒもずっと客の相手してたんだから、仕方ないよ。」
それだけにしては、様子は相当おかしかったと思いジェットは聞かない方がいいのかと迷いつつ、問い掛けた。
「本当は、ああいうのは苦手なのか?」
反動で一日使い物にならなくなる程、あの時の彼は相当無理をしていたに違いないとは、ジェットにもわかる事だった。しかも、彼が小さく呟いていた言葉はまるで人を呪うかのように暗いものであった。執事に聞いたところ、その言葉は彼のお国言葉ではないかとの事で、調べたところ、それはあまり品のいい言葉ではなかった。そこから考えつくのは、彼の育ちがあまりこの家と近くない事と、彼があの席とあの場にいる人々が相当嫌いなのだろうという事だけだ。
「……好きじゃない。」
でも、彼はその立場上、あの席にはいなくてはならない人で、いるからには無愛想にしているわけにもいかない。それで、彼は見事なまでに嘘くさくない笑顔を貼付けて、あの場で必死になっていたという事だ。傍目には、欠片もその雰囲気は感じられないけれど。
「この家も、本当は嫌い?」
彼は暫く困ったようにジェットの顔を見ていたが、小さくため息をついて頷いた。
「俺は、こういう世界には馴染みがないところで育ったし、ああいうのは、見てると腹が立つ。」
ジェットも、それは感じた事だった。これまで安い金で働いて、狭い家で暮らしていた人間から見て、あの茶会一度で浪費される金の額や、無造作に捨てられていくものは、なんとも理不尽に感じた。ジェットはこの家に来る寸前は働いて金を貰える立場にあったけれど、仕事がなくて食べる物にも困った事もあった。そんな生活をしている人間の事なんて、きっと知らないのだろうと思うと、彼等に呪いの言葉だって吐きたくなるというものだ。
「でも、綺羅を買わせて、ここに雇われたのだって、ああいう世界があってこその事だ。」
自分だって多分、こちら側の生活にいるのだ。そのジレンマから、彼は一日掛けてなんとか立ち直るのだろう。ジェットはそう考えて、ため息をついた。
「自分が一番、みっともないような気がする。」
ハインリヒはそう言って泣きそうな顔で笑い、綺羅はそれを見て、彼の手を握った。その様子を見て、ジェットはこの状況を何とかできないかと思い、綺羅が縋るように自分を見ている事に気付いた。
「そう言えば、綺羅はミルクを飲んだのか?」
「飲んだよ。何度もやり直しさせられて、ミルクが随分減っちゃったけど。」
ジェットがそう言うと、ハインリヒは少し驚いたように綺羅を見遣り、綺羅はそれに答えるように、にっこりと笑ってみせた。それは、茶会の席で誰にでも見せた笑顔とは違って、綺羅が彼にだけ見せる、彼を安心させようとするような笑顔だった。
今日は電気がついている事を確認して、ジェットはベッドの上で転がって天井を見上げた。
ここでの生活は、何の不自由もない。着る物も食べる物も沢山あって、する事と言えば、執事が提示する家の中の細々した事の判断に、首を縦に振ったり横に振ったりするだけだ。でも、どれも執事の提案は尤もな事ばかりで、ジェットがそれに首を横に振る事は殆どない。ここは、そういう場所だ。ジェットはそれに選ばれて、働かなくてもいい生活を手に入れた。だけれど、本当は、どこか落ち着かない。違和感が残るのだ。
それはもちろん、それまでの生活とはまるで違うのだから仕方のない事だけれど、この生活をこの先ずっと、死ぬまで続けていていいものかと思う。と言うよりも、この先ずっと、この生活で自分は生きていけるだろうか。と疑問に思う。
ハインリヒは、ずっとそう思ってここにいて、あんな風に壊れてしまったようになる。自分がここに居続ける事は置いても、ハインリヒは、ここから出してあげるべきではないかと思う。そうなれば、当然綺羅も一緒に着いていく事になるだろう。ならば、ただここから出ていくだけでは、この先の生活が成り立たないに違いない。ここに来る前、彼が何をして生活していたのか、ジェットは知らない。だけれど、その仕事にすぐに戻れるとはとても思えなかった。それに、自分が彼と離れたくない。ジェットはそう思って苦笑を浮かべた。客に声を掛けられるだけでもイライラしていたのに、自分の目の届かない場所で、彼が他の誰かといる事を考えると、どうにも落ち着かなかった。
ジェットは、息を吐くと、反動をつけて起き上がった。そしてそのまま部屋を出て、隣のドアを叩いた。
「ハインリヒ、起きてる?」
声をかけると、暫くしてドアが開き、ハインリヒが不思議そうに顔を見せた。
「どうしたんだ?」
「お願いがあるんだけど。」
そう言うと、ハインリヒは首を傾げてジェットを部屋の中へ招き入れた。
「俺、ここを出て行こうと思うんだ。」
促される前に、ジェットはそう切り出し、ハインリヒは何を言われているのかわからないような表情で、ジェットを見返した。
「出て行くって…」
「俺さ、やっぱり、この生活は合わないと思うんだ。それで、もし良かったら、ハインリヒも、一緒に来てほしいんだけど。」
彼をここから出してあげたい。だけれど、自分の傍からいなくなるのも嫌だ。だったらもう、これ以外に道なんてないと、ジェットは思った。それに、ハインリヒを出したいから自分も行くなんて言うのでは、押し付けがましいではないか。
「……綺羅は?」
「一緒に。」
即答で答えると、ハインリヒは困ったような顔をして、ジェットを眺めた。
「この家は、どうする?」
「執事が、万事うまくやってくれるだろうよ。」
そう答えて返事を待つと、ハインリヒは苦笑を浮かべて問い掛けた。
「どこへ行くんだ?」
「どこか、知らない所に。そういうのは、嫌?」
断られてしまうのだろうかと、不安になってそう問いかけると、ハインリヒは首を横に振った。
「じゃぁ、俺と一緒に来てくれる?」
問い掛けて、それでも縋るような気持ちで手を差し伸べると、ハインリヒは笑ってその手をとった。
「ホントに?」
「綺羅も一緒に、だぞ?」
「もちろん。じゃぁ、急ごう。」
ジェットは言って自分が今しも寝ようと言う姿である事にはたと気付いた。
「じゃ、準備して、綺羅の部屋に。」
ハインリヒもパジャマ姿で、それでは逃亡に向かないのは明らかだった。ジェットの言葉にハインリヒは頷き、ジェットはその部屋を後にした。
ハインリヒが、あんなにあっさり頷いてくれるとは思わなかった。でもそれは、それだけ彼がここでの生活に悩んでいたという証だ。もしくは、まだ完全に立ち直っていないのか。だけれど、それでも彼が自分の手をとってくれた事は、ジェットにとって嬉しいことだった。ハインリヒにとって自分がここから抜け出すための手段に過ぎないとしても、今はまだそれでもいいと思う。でもいつか、彼が自分だから傍にいるのだと思ってくれるようになるといいと思った。
「綺羅、これからは、今までみたいに、新しい服もあまり買ってあげられないだろうし、部屋も狭くなると思うけれど、それでも、俺と来るか?」
起こされた綺羅は、ハインリヒの言葉を聞いてじっと彼の顔を見つめ、それからその隣に立つジェットを眺め、にこりと笑って頷きベッドを滑り降りると、その下に手を差し入れて、そこからトランクを引っ張り出した。
「綺羅?」
綺羅は不思議そうに問いかけるハインリヒに、トランクの蓋を開けてみせた。
「準備万端だな。綺羅。」
そこには、綺羅のお気に入りのカップとミルクの瓶や、服や下着が一式詰め込まれていた。
ジェットは綺羅の頭を撫でてやり、ハインリヒはクローゼットから綺羅のお気に入りの帽子とドレスを取り出し、彼女の着替えを手伝った。
「ジェット、細々した物でも詰めてくれ。」
ぽん、と放り出されたバッグは、ハインリヒが持っていたもので、ジェットは笑って頷くと綺羅のお気に入りの人形やら、彼女の身だしなみを整える品々を自分が持ってきた空のバッグへ放り込んだ。
「俺ら、綺羅の事しか考えてねぇみたいだな。」
ハインリヒの用意したバッグには、財布程度の物しか入っておらず、ジェットの持ってきたバッグはからっぽだった。ハインリヒはジェットの言葉を聞いて振り返り、そのバッグを見て笑った。
「一番心配な事だからな。」
自分達の服はどんなに適当なものだって我慢できるけれど、綺羅はそうじゃないからだ。大切にしてあげなくてはいけない人形だと思っているから。
「さて、行きますか。」
綺羅の着替えが終わった事を確認して、ジェットはそう声を掛け、ハインリヒは綺羅のトランクにそれまで綺羅の着ていた夜着を詰め込むと、それを持って立ち上がった。
綺羅は当然のように二人の手を取って、軽い足取りでテラスへ向かう。そんな綺羅の様子に、ハインリヒとジェットは顔を見合わせて笑った。
「ピクニックにでも行くような気分だな。」
「それも、いいんじゃないか?」
これから行く所は、きっと楽しい所だから。そんな気分で出かけるのが、一番いい事のような気がした。
なんで、嫌なのにここに来たの?
条件をクリアされたから
条件って?
ハインリヒ?
床に膝ついて、靴の裏舐めたら、行くって
ホントに?
ああ
金持ちって、気が知れねぇ……