最初は脳波通信で話をしているのかなと思ってた。
それくらい、何でもない風に動きが通じているから。
それがちょっと羨ましかった。
僕と彼らの間に流れてる40年って時間がさせるのかなって思うと、なんだか寂しくも感じた。
僕らが暮らしているギルモア博士の家には、普段は家主のギルモア博士と、僕とフランソワーズ、イワンがいるだけだけど、時々他のメンバーが訪れる。
そうなると、家はとても賑やかで華やかになる。僕はそれが好きだけど、そこにいるのが彼らだと、ちょっと複雑だ。
今もそう。リビングのソファで本を読んでいたハインリヒとテレビを見ていたジェットのところにフランソワーズがやってきた。
彼女はこの家の家事の一切を取り仕切ってくれて、僕らとイワンは仲の良い家族みたいなものだと思う。
街を歩いていたって、若い夫婦とその子供って扱いを皆がしてくれるくらい、僕らの関係は幸せなものだと思う。
でも、彼らがいる時の彼女は、僕といる彼女とはちょっと違う。
二人は同じソファに少し間を空けて座ってる。近くもなく、遠くもなく。でも、僕と彼らが隣り合うよりはずっと近い。そんな距離。
フランソワーズがそこに脚を向けると、彼らはその姿を見ないうちにそっとその間を空ける。
ハインリヒの手がソファのクッションをそこに置いて、ジェットがテーブルの上の雑誌をちょっと脇へ寄せる。
フランソワーズは当たり前のように彼らの間にちょっと弾むように腰を下ろす。
その表情はいつもよりずっと可愛らしくて、その扱いに満足しているって笑顔だ。
フランソワーズを間に挟むと、そのソファは彼らには小さいだろうに、肩が触れ合うことも構わない。
ハインリヒは読んでいた本をテーブルに置いて、ジェットはテレビのチャンネルを変える。フランソワーズはジェットが脇へ寄せた雑誌を手に取って、二人に何か話掛けているのか、彼女の両脇から二人がそれを覗き込んでいる。
何かを話している様子にも見えるのに、彼らの声は聞こえない。でも、その雑誌について話しているように、彼らの指が揺れるのがわかる。
その内にジェットが立ち上がって、彼らはちょっとジェットを見るけれど、ジェットの指がちょっと揺れるとすぐに視線が元に戻る。
ジェットがいなくなると、フランソワーズの膝の上にあった雑誌はハインリヒの方へ寄って、二人は額を寄せ合って何か楽しそうに笑ってる。
僕といる時には見せない、ちょっとはしゃいだ様子にも見えるフランソワーズの笑顔と、いつもは不機嫌そうに下を向いてる口角が、緩やかに上を向いた楽しそうなハインリヒの笑顔。
仲の良い兄妹みたいだ。って思う。だから、別にハインリヒに嫉妬したりなんかはしないけれど、やっぱりちょっと羨ましくはなる。
暫くしてジェットが戻ってくると、その手にはマグカップが3つ。器用に片手に二つ、片手に一つ。危なげなく運んで来たそれを、二人は手を伸ばして受け取って、また同じように肩を並べてソファに座る。
一口それに口を付けて、ついとハインリヒが立ち上がる。今度はジェットとフランソワーズが彼を見上げて、彼はジェットと同じように指を揺らしてそこを離れる。
そうするとジェットが少し不服そうに口元を歪めて、フランソワーズが笑ってジェットの肩に自分の肩をぶつける。何を拗ねてるの、って嗜めるお姉さんのようだ。ジェットは笑ってフランソワーズにやり返し、二人は声を出さずに楽しそうに笑う。
そんなところにハインリヒが戻って来て、二人の頭を撫でる。
そうして、手に持っていた箱をテーブルの上に置いて、蓋を開ける。
真っ先に手を出したジェットはその箱からクッキーを一枚取り出して、ぽいと口に放り込み、フランソワーズもそれに倣う。
その箱は、ハインリヒがここに帰ってくる時に必ず持ってくる物で、彼の気に入りの品なんだろうと思う。
シンプルで飾り気のない、本当にどこにでもありそうな、何でもないクッキーだ。似たような物なら日本のスーパーにだって売っていると思うそれをここで食べるのは、今それを食べてる三人だけ。他の皆は味気ないって顔をしてあまり食べない。
でも、彼らは本当に嬉しそうにそれを食べる。だから、余計に皆は食べないんだ。あれは、彼らの中の特別なものなんだろうって思って。
ハインリヒが持って来たクッキーをつまみながら、ジェットの用意したコーヒーを飲んで、三人で一つの雑誌を見る。その間、彼らは声を出さずに指を動かしてる。
多分、彼らはああやって指で何か話をしているんだって、僕が気付いたのはほんの最近のことだ。フランソワーズがイワンにそれをするのを見た時。それから、ハインリヒがジェットにそうするのを見た時。
手招きの代わりに指を動かすのと同じ事だって、何故か僕はその時まで気付かなかった。それは、いつも彼らの表情ばかり見ていたからだってすぐに気付いた。
彼らは彼らだけで築いて来た時間がある。一番最後にやって来た僕にはどうしたって入り込めない時間だ。
僕も、彼らと同じ頃に出会っていたら、あのソファに中に一緒に座れたんだろうか。あんな風に笑うフランソワーズと一緒に笑えたんだろうか。
そんな風に思ってしまって、どうしてもその指の動きに気付かなかったんだ。
彼らが何を話しているかはわからないけど、多分、普段声に出して話している事とそんなに変わらない事を話しているんだと思う。
時々ジェットは不機嫌そうに口を尖らせ、フランソワーズが信じられないと言いたそうに目を見張ってみたり、ハインリヒが何かにショックを受けたように頭を振ったりする。
でも、彼らは一声も上げず、右手の5本の指を動かしながら、そのお喋りの時間を楽しんでいるんだ。
僕はそれを庭の一角からそっと眺める。僕の知らない彼らの繋がりを、ただ羨ましく思うしかないままで。
「こんなところで昼寝か?」
暑くないのか? とちょっと信じられない物を見るような顔をしたハインリヒが声を掛けに来てくれた。
フランソワーズはジェットをお供に庭の物干から洗濯物を取り込んでいるところだった。僕はいつの間にか寝てしまっていたらしい。
眠りにつく前は、ここは日陰だったんだけれど、すっかり陽が移動してしまっていたらしい。
「なんだかぼんやりしてた」
ハインリヒはもういつもの彼で、でもちょっと機嫌が良さそうだ。彼の向こうではジェットが腕一杯の洗濯物を抱えて、こっちに手伝いを求める声を上げている。
そこには、声を出さずに会話する彼らの特別な空気はもうない。
「ハインリヒ、君が持ってくるあのクッキーって、何か特別なものなのかい?」
もっと上手い聞き方もあるだろうに。って言ってから僕は思ったけれど、口から出てしまった物は引っ込まない。
ハインリヒは困ったように指を顎に当てて何かを考えていたけれど、上手い答えが見つからないようだった。
「過去への感傷ってやつだな」
特に美味い物でもないしな。と彼はあっさり言って、僕はそれに驚いてしまった。
「だけど、君たち、いつも美味しそうに食べてるじゃないか」
そう言った僕をハインリヒは不思議そうに眺め、何事かに気付いたように後ろを振り返る。
「フランソワーズ!」
名前を呼ばれて顔をこちらに向けた彼女に向けて、ハインリヒは指を振った。途端にジェットが笑い声を上げて、フランソワーズが真っ赤になってこっちに走ってくる。
ハインリヒは僕を振り返って、おかしそうに笑う。
「お姫様はお前一筋だから安心しろ」
「ハインリヒ、馬鹿な事を言わないで!」
ハインリヒの声にフランソワーズの声が重なって、怒っている彼女と入れ違いになるようにハインリヒはジェットの方へ走っていく。
そうして僕の前には顔を赤くしたフランソワーズが立っていて、僕はなんだか酷く恥ずかしくなる。
「ハインリヒは、なんて言ったの?」
僕は彼らが話す特別な言葉を理解出来ない。でも、彼が伝えたのはきっと悪い事じゃなくて、多分何かからかいのようなものだったんだと思う。
そうでなくちゃ、フランソワーズがよく乾いた綺麗なシーツを放り投げるようにして駆けてくるなんて事はないだろうし、ジェットが笑ってるわけもない。
「なんでもないの」
「……そう」
僕にはやっぱり入り込めないのかな。と思っていると、フランソワーズは恥ずかしそうに僕の手を取る。
「フランソワーズ?」
「あのね、ジョー。明日、一緒に出掛けない?」
素敵な庭園があるらしいのよ。とフランソワーズは頬を染めて言う。
「薔薇の花がとても綺麗に咲いているそうなの」
彼女の向こうでハインリヒとジェットは洗濯物を抱えて家の中へ入って行き、僕と二人だけになったフランソワーズはこうして声を出して優しい声で話をしてくれる。
「いいね」
僕はなんだか間違った考えをしていたのかもしれない。
確かに彼らといるフランソワーズは僕の前にいる彼女とは違う。でも、僕の前にいる彼女も彼らから見たら自分達の前では見られないフランソワーズなんだ。
「さっきの、気にしないでね。酷い事を言ったんじゃないのよ」
でも、彼女が真っ赤になって駆けてくるような、何か聞いたら僕だって真っ赤になるかもしれない事を、彼は僕の前で彼女に伝えたんだろう。
「うん」
気にはなるけど、今はもういいや。と僕は思った。
「お茶を飲みたいな」
「紅茶をいれるわ」
彼らと一緒にいる間、フランソワーズも彼らも、ずっと昔の彼らに戻るんだろう。でもきっと、それは僕らを拒否するものじゃないんだ。
僕が勇気を出して、そこに入っていったら、彼らはきっと僕に場所を空けてくれる。
そうして、彼らがああして肩を寄せ合って声を出さずに過ごして来た、ずっと前の事を、楽しい事として僕に話してくれるに違いない。
全く羨ましくないわけじゃない。でも、それでもいいやと僕は思った。