「昨日、フランソワーズがジョーとのデートの相談に乗ってほしいって言ってたぜ」
隣に座ってテレビを見ているジェットがそう話掛けてくるのを見て、ハインリヒは意識を本から彼の手元へ移動させる。
「何故俺たちに?」
「この前に行った庭の話したら、羨ましがってたからじゃないかな」
ギルモア邸に同時に滞在している日は、居間の3人掛けのソファに二人で座り、お互いに好きなように過ごすのは、二人にとって特別なような当然のような、ごく当たり前の行動だった。
ソファの端と端程には離れず、肩が当たらない程度、手を伸ばせば触れる位置に座る事が、彼らと周囲の妥協点を探った結果の位置だ。慎み深く、周囲に不快感を与えない距離とハインリヒはその距離を言う。
仲間達は多分、自分達が隣り合って座っていても何も言わないと二人は知っているが、だからと言って彼らが全く何も気にしないわけではない事もわかっている。だからこそ、気遣いは必要な筈だ。
その二人の間に開いた距離の間に手を重ねて、指で言葉を伝える。庭で寛いでいる仲間からは見えない位置でそうして話をするのをジェットが好んでいるのをハインリヒは知っている。
脳波通信では伝わりすぎる言葉を、声で伝えるのと同じだけの遠さで伝える為にそれを考えついたのもジェットだった。最初はほんの僅かの意思疎通しかできない簡単なハンドサインだった。
当時は脳波通信の内容も彼らの日常と同じように科学者達に筒抜けだった。だから、彼らにわからないように、私的な話をしたいと言い出したジェットにその方法を提案したのはイワンで、少しずつ言葉を増やしていったのも今では良い思い出の一つだ。
とは言っても、今のように言葉として意思疎通を図る為には苦労があった。何せ、彼らは使う言葉が違っていたから、アルファベットを指で示して文章を作っても、そこから再翻訳を掛けなければ正しく意味が通じない。翻訳機能は最初はまだあまり精度が良くはなく、食い違いは多々あった。
けれど、少なくともその言葉は彼らだけに通じる秘密の言語で、それが互いの結びつきを太くしていった事は間違いない。木偶人形のように科学者達に言われるままに動くしかなかった自分達にとって、それはとても大切な事だったのだ。
「他にも良い庭園はないかって、色々雑誌を見てた」
テーブルの上に目をやれば、フランソワーズが買って来たらしき女性向けの雑誌が数冊置かれている。人の物を勝手に見るのも失礼かと手を出した事のないハインリヒとは違い、ジェットはそれを見た事があるようだ。
「この季節なら、確かにデートにはうってつけだな」
新緑の頃から季節が進んで、様々な花の咲く頃だ。今一つ進展があるように見えない二人の関係を遠目に眺めている立場の二人としては、なんとか一歩でも彼に近付こうとするフランソワーズを応援する気は満々だ。
「ジョーのやつも、もう少し強引に行こうと思わないのかねぇ」
フランソワーズは仲間の贔屓目を差し引いたとしても美しい女性だ。街を歩いていても彼女に目を向ける人々は多い。それを隣で見ていたら、もう少し強気に彼女を手に入れようと行動するものではないのだろうかと、ジェットもハインリヒも思っている。
しかしながら、あの弱気な我らがリーダー殿は、『そんな彼女を僕の横に止めておくなんて…』と後ろ向きになってしまうのである。どうしてあんなに好意を示してくれる女性の手を握って愛の言葉を伝える事も出来ないのだろう。と二人は常々疑問に思っている。
「日本人の特性ってやつなんだろ」
全く理解出来ないが。とハインリヒは小さく息を吐き、背後からの足音に気付いて重ねていた手を離し、脇に依ってクッションを用意する。
話題の主はいつもより機嫌良く昼の片付けを終えたようで、自分の為に開けられた位置へポンと腰を下ろす。
「お邪魔だったかしら?」
「いえいえ、お姫様のお越しをお待ちしてましたとも」
からかうように目元で笑ってフランソワーズは言い、ジェットはテレビのリモコンを操作しながらそう返す。
「デートの行き先を探しているって?」
「そう。せっかくあなた達がいるんだから、二人で出掛けて来たっていいでしょ?」
フランソワーズはテーブルの上の雑誌を膝の上に開き、両脇から二人がそれを覗き込む。
ソファに座って肩を寄せ合って、休日の過ごし方を考えるなんて、昔はちっとも想像出来なかったとフランソワーズはその肩の感触に思う。
「留守にしたっていいじゃないか。イワンなら一人でも大丈夫だろ」
赤ん坊であって赤ん坊でないのがイワンだ。一日フランソワーズがいないところで、何か大きな問題が起きるとも思えない。
「赤ちゃんを一人置いて出掛けるなんて無理よ。気になって落ち着かないわ」
一日ならばギルモア一人で面倒は見られるのはわかっていても、今どうしているかと気になってしまうのは、これまでの経験上フランソワーズは知っている。その点、誰かがここにいてくれれば、自分もすっかりそれを忘れて楽しめる。せっかくジョーと二人でいるのに、気も漫ろなのは避けたいと思う。
「そういうものかね」
「そういうものよ」
ハインリヒのどことなく納得いかない様子にフランソワーズはツンと言い返し、ジェットは何か飲み物でも持って来ようと思い立って立ち上がる。
「どうしたの?」
「コーヒーいれてくる」
話をしているのに片手にコーヒーの一つもないのがなんとなく落ち着かない。こういう時、飲み物を用意するのは自分の役割である事が多かった。あの島の閉鎖された研究施設の中で、味も香りも粗悪なコーヒーでも、それを手に話をしていれば、どことなく人らしい日常があるように思えた。今こうして自分達は自由に好きな場所に行けるようになったのに、時々あの狭い部屋を思い出す。
今はもう、あまり悪い記憶を思い出さない。彼らと初めて会った時の事や話した事、初めて触れた手や触れる程近くで見た作り物の目の光。彼らと話した未来の事。そんなものばかり思い出す自分は随分楽観的だなとジェットは思う。
「ジョーは薔薇を見て楽しいと思うかしら?」
示されたページを眺めて、ハインリヒはくすりと笑う。
「君が隣にいるんだから、薔薇でも何でも構わないんじゃないか?」
「生憎、ジェットと違って、ジョーはそんな風に考えてくれる人じゃないのよ」
そう返されて、ハインリヒはフランソワーズを見返して首を振る。
「流石に、あいつもそこまでじゃ…」
「そうかしら」
フランソワーズから見れば、ジェットがハインリヒと庭園の花を眺めながら静かに歩いている様子の方が想像がつかない。
先日ジェットにデートに行って来たと自慢げに言われて、どこへと聞けば古い洋館の建つ庭だったと返事が返った。その庭をハインリヒはいたく気に入ったようで、終始機嫌が良かったので、探した苦労が報われたとジェットは言った。
ジョーもこんな風だったら良かったのに。と少しだけフランソワーズは思った。ジョーの楽しめる場所を考えて、彼と楽しい時間を過ごせたら幸せだと思っているけれど、時には自分の為に行き先を考えて、自分の事を考えてくれてもいいのにと思ってしまう。
「そうは言ったって、ジョーは君に好意を持っているんだから、君が喜んでいれば嬉しいだろうさ」
不公平だわ。とフランソワーズはこんな時に思う。ハインリヒの意見はこれまでの自分の経験に基づいて出されている。
例えばそれは、ただの人だった頃の恋人といた自分の気持ちや、ジェットと二人で出掛けた時の相手の様子だ。ハインリヒは、自分が大切に思う人に大切に思われる事を知っている。自分が注ぐのと同じだけの愛情を返してもらえる事を知っている。親や兄弟からではなくて、恋人からのものとして。
フランソワーズだって、そんな経験がないというわけではない。けれど、ことジョーとの関係に於いて、その愛情のやり取りが同量かどうかがわからない。私が嬉しいならば相手も嬉しいなんて、そんな風に考えられない。
「お待たせ」
なんだか気の重い空気になって来たところへジェットが戻って来て、二人はそっと息を吐く。
ハインリヒの好みとジェットの好みが摺り合わせられて見つかった位置にある味のコーヒーは、仲間達にも概ね好評だ。昔飲んだ物とは比べ物にならない香りがマグカップから漂っている。
それぞれ自分のカップを受け取って、落ち着く為に口を付けて、ハインリヒはカップを置いて立ち上がる。
「クッキーを持って来たの忘れてた」
もう何日もここにいるのにとフランソワーズとジェットは顔を見合わせて笑う。
「相変わらず、お断りが出来ないのね」
「それが奴のいいところなんだよ」
ちょっと腹立たしいけれど、と不満げな顔をするジェットに、何よ自慢げに、と肩をぶつければ、羨ましいのかよとやり返されて、フランソワーズはクスクスと笑ってハインリヒに見せていたページをジェットにも示す。
「薔薇園? いいんじゃねぇの?」
君の方が綺麗だ。とかはあいつには言えないだろうけど。とジェットは庭の片隅でこちらを見ているジョーの姿をちらりと見やる。
結局のところ奴は、自分にフランソワーズの好意が向いている事を知っているから、彼女の気に入るように行動することの必要性を感じていないのではないだろうか。あれで女性に優しくもてるのは皆の知るところで、その点を見てフランソワーズが不安を感じている事も知っている。
そういうところは腹立たしいな。と思う。こっちは好きだと言わせる為にどれだけ苦労したと思ってんだ。とちらちらとこちらを伺っているらしき姿に嫌がらせの一つもしたくなる。
「ジョーは楽しいと思う?」
「つまらないってことはないだろ」
見頃の花を見て楽しくならない人間の方が少ないのではないかとジェットは思う。花見だとかで楽しげな姿も見た事はある。それが薔薇だから駄目とか言われる事はないだろう。
ちょっとフランソワーズへ身を寄せると、ジョーが身じろぎするのが見える。どうやら、気にはなっているらしい。ならばここに来ればいいのに。そう思うけれど、彼は自分達といるフランソワーズの元へ来た事はない。若干の嫌がらせになっているならいいか。ジェットはそう思う。
「おかえりなさい」
そうこうしている内に小さな箱を持ったハインリヒが戻って来て、それをテーブルへ置く。
箱の中身は何の変哲もないクッキーだ。甘くもなく、少しぱさっとしたどちらかと言えば美味しくないに近いそれは、ハインリヒの隣人からの差し入れの品だ。
「相変わらず?」
「相変わらずだな」
箱を開けて中の一枚を口に運ぶ。昔々、味気のないコーヒーと一緒に食べたクッキーと同じ、何でもない物。多分、これをくれる隣人も喜んで食べてくれる人がいない事を知っているだろう。このクッキーがこの居間のテーブルに置いてあっても、この家の他の住人達は食べようとはしない。
これより美味しい物はいくらでも溢れていて、少しの金を出せば手に入れられるからだ。それでも、ハインリヒはこれを食べるし、自分達もなんとなく捨てる事が出来ないで食べてしまう。
自分達は自由になって、世界は随分形を変えて、甘いものも美味しい物も沢山手に入るのに、昔々の古いレシピ通りにしかクッキーを焼けない人が持たせてくれる物だから、昔だってそんなに悪い事ばかりじゃなかったよと、コーヒー無しには食べられないそれを黙々と食べる。
「それでも持たせてくれるのよね」
これを作るのを止めて、これに使った材料の一部を一つ前の材料に増やしたなら、これより美味しく出来上がるだろう。そうしたらもう少し喜んで食べてくれる人が増えるかもしれない。けれど、彼女はそんな事を考えない。小さな頃、限りある材料の中で、彼女にその作り方を教えてくれた人の言葉を守って、物足りないクッキーを焼く。そのレシピを継いでくれる人は彼女にはなくて、それを食べてくれるのは本当は口の悪いお隣の物静かな男だけだ。
「今度一緒に作ってみたら?」
「俺が?」
「あんたのクッキー美味いし、いいんじゃないの?」
何気なく言った言葉に、二人が目を見開いたのに気付いて、ジェットは失言に気付く。
「お前、言うなってあれだけ!」
「何よ、そんな話聞いた事ないわ!」
ハインリヒは料理が出来る。それは皆知っている。一人暮らしをしているのだから、その程度は出来て当然だ。けれど、彼が菓子を作る事はジェットだけが知る事実だ。
「あ、外、洗濯物取り込まないと」
言い訳も出来ずに話を無理矢理逸らして、ジェットはソファから立ち上がって庭に出る。
「ジェット!」
背中を声が追いかけて来たけれど、聞かない振りで庭の物干し台に急ぐ。
「あれ、あいつ起こしてやらないと」
庭の木の下、すっかり日向になってしまったそこで、ジョーが寝ているのを指で示せば、舌打ち一つでハインリヒがそちらへ向う。
どこか納得出来ない様子で追って来たフランソワーズと二人でよく乾いた洗濯物を取り込む。
「なんであいつ、あんなとこで寝てるんだろうな」
こっちを見ていたのに、結局一度も寄って来ないまま、しかもすっかり寝入ってしまっているなんて、おかしな奴だと思うけれど、彼がこちらに来ない理由も何となくはわかる。
そうやって疎外感を感じて、もう少しフランソワーズを大事にしたらいい。もっとこっちに嫉妬でもして、それでフランソワーズが喜ぶような行動に出るなら万々歳だが、それはなかなか難しい事だろうなとは思う。
「あなた達が来ていると、外に出ている事が多いのよね…」
何故かしら。そう言ったフランソワーズにジェットは驚く。ジョーが鈍い鈍いと思っていたが、意外にフランソワーズも鈍いらしい。彼がずっとこちらを伺っていた事も、もしかして気付いていないのだろうか。
渡されるシャツやシーツを受け取っていると、ハインリヒがフランソワーズを呼ぶ声が聞こえた。
『王子様が拗ねてるぞ!』
声の主を振り返ったフランソワーズに向けて、ハインリヒが寄越した言葉はその隣のジョーにわかるわけもないのに、フランソワーズは真っ赤になって持っていたシーツを放り出しそちらへ走っていく。
入れ違いに走って来たハインリヒを笑いながら迎えると、珍しく彼も笑っていて、半分取り上げられた洗濯物を抱えて家に入る。
「あれで案外フランソワーズも鈍いんだな」
「ジョーがあんなだから、まさかと思ってたんだろ」
あれじゃ、進展のしようがないな。とハインリヒは呆れたような声で言うけれど、あの二人の様子を微笑ましく思っているに違いない。
「あんたがあそこまでじゃなくてよかったよ」
ちょっと屈んでキスをして、ありがとうと礼を言えば、ハインリヒはハッと笑い飛ばす。
「ここまでわかりやすい人間相手に、鈍いも何もあるか」
「その割には、お返事遅かったけど?」
「信用が薄いからだ」
「左様で」
どっちの信用かは黙っておこう。ジェットは笑ってちらりと庭を振り返る。
「まぁ、なるようになるか…」
恋とはままならぬ物なのです。ジェットは誰かに聞かされた言葉を思い出して、くすりと笑うのだった。
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