はたけカカシの名前は、里の中では有名であったにもかかわらず、イルカはその噂すら知らなかった。ナルトの担当になるということで、気になって火影に話を聞きに行ってから、同僚に問いかければ、あっさりと様々な噂を教えてくれた。
 その噂では、彼は随分冷たい人間らしいという印象があったのだが、ナルトの話や当人と話している時には、それを感じたことはあまりなかった。それが、彼の本質なのか、そうと装っているのかまでわかる程、イルカはカカシと付き合いがあるわけではなかった。ただ、自分といるカカシが、本質であればいいと思うのは、イルカの正直な気持ちだった。
 大根を切り分けて鍋に放り込み、イルカは手を拭いて居間へ戻った。
「今から用意を始めるんじゃ、遅くなりますよ?」
「いいですよ。それまで、ミカンでも食べてましょう。」
 既に寛ぎに入っているカカシを見て、イルカは頷いて食べかけのミカンを手に取った。
「この時間まで用意してないなんて、イルカ先生、俺を待ってたとか?」
「このままミカンで済ませようかどうか迷ってたんですよ。」
「………あんたらしいですねぇ」
 笑いながらカカシは言い、イルカは唇を引き結んだ。
「拗ねない、拗ねない。」
 なだめるように頬を引っ張るカカシに、イルカは苦笑を浮かべた。
「ナルトが、今日は雪が降るだろうかって、しきりに気にしてました。」
「ああ……今日は随分と寒いですからね。」
 イルカもどこかそれを待ち望んでいるような顔で、そう呟く。
「雪が積ったら、雪合戦するんですか?」
「子どもがしたいって言ったら、します。」
 俺はしたいですけどね。と笑って言い、イルカはそれでもそう答えた。
「自主性を尊重するって?」
「したくないことしても楽しくないでしょ?遊びくらい、楽しくしなくちゃ。」
 勉強ならば、したくなくても無理にでもさせるけれど、遊ぶその時くらいは、したいことをしなくちゃ意味がない。
「雪だるまが作りたいって言えば、雪だるまを作るし、雪合戦がしたいって言えば、雪合戦をするし。したい。って言い出せるくらいのやる気がないと、寒いだけですしね。」
 イルカはそう説明して、ミカンを口に放り込んだ。
「教師は、押し付けをしちゃいけないんだそうです。勉強も遊びも、本人のやる気に任せるのが正しいんだって、言われたことがあります。」
「勉強も?」
 やれやれと、急き立てるのが教師の仕事ではないのだろうかと、カカシは思う。
 カカシは、先生と呼ばれはするが、実のところは先生とも言い切れない。部下と上司という立場が正しいが、彼らを教え補助する立場もある。教えるという点では『先生』に他ならないが、自分が『先生』であるとも言い切る事ができなかった。嘗ては、自分も上司を『先生』と読んでいたにもかかわらず。
「やりたいとか、やらなくちゃいけないとか、決意の方向性は違ってもいいから、やる気にさせるのが役目なんだと言われました。」
 イルカは、やれやれと言われると、やりたくなくなる子どももいますからね。と笑った。多分彼にはそういった経験があるのだろう。イルカを見ていると、そんな子どもの頃が想像できる。
「でも、言っちゃうんですよねぇ。」
 はぁ、と、一つため息をついて苦笑し、イルカはミカンの皮をたたんだ。
「カカシ先生が雪合戦をしたのは、いつが最後ですか?」
 したことがあるか?などと問いかけないのが、イルカだな。と、カカシは思う。
 里の中忍たちの中には、カカシの事を、人ではないかのように扱う者がいた。確かに、『写輪眼のカカシ』などと呼ばれて、伝説的忍者扱いをされていては、化け物だとか、自分とは違う生き物だとか言われてもおかしくはないのだが、かと言って、子どもの時分から化け物扱いされていたわけでもなく、普通の子どもがするような遊びは、とりあえず体験しているはずだ。ただ、幼い頃に中忍になったおかげで、普通の子どもがしないような遊びまでするようになったのは確かではあるが。
「……随分前だと思います。五歳か六歳か。そんな頃ですね。」
 中忍になってからの生活で、雪を見て遊んだ記憶はない。足跡が残ると、雪を忌々しく思った記憶の方が強かった。
「ああ、勿体無いですね。」
 イルカはそう言って、ミカンを手に取り、軽く揉んだ。
「楽しいのに。」
 そう呟くイルカは、本心からそう言っており、その言葉が向かう先が、里で名高い上忍であることなど、考えてもいないらしいと、カカシは苦笑を浮かべる。
「あ、でも、カカシ先生、その頃はもう中忍でしたね。」
 それじゃ、仕方ないか…と、イルカは小さく呟き、ミカンの皮を剥いて房を分ける。イルカはミカンの房を全部分けてから、口に運ぶクセがある。カカシは、皮を剥いて二つに割ったら、端からかじり取って食べる。分けて置いておくと、横から食べられる恐れがある為ついたクセだった。なんとなく意地悪をしたくなり、カカシはイルカが置いたミカンの房を手を伸ばして口に放り込んでいく。それを見て、イルカが慌てて声をあげる。
「カカシ先生。それは俺のですよ。」
「剥いてくれてるのかと思って。」
 笑って言えば、目の前にミカンをよこされる。
「子どもみたいなこと言ってるんじゃありませんよ。」
 呆れたような、怒ったような顔でイルカは言い、自分の作業を続けている。イルカは、あのミカンが横から奪われるような生活をして来なかったのだな、と、そんなことを考え、だから呑気なんだと、そんな風に思う。食べることに関しての競争に縁のない人なのだとしみじみ思った。
「…あ、イルカ先生、台所。」
 鍋の蓋がガタガタと音を立てているのに気付き、カカシはそちらを指差してイルカに注意を促す。イルカもそれに気付き、慌てたようにこたつを抜け出していく。その背中を見ながら、カカシはバラバラにされたミカンをもそもそと口に運び、テレビのチャンネルを切り替えた。
「カカシ先生、大根に味が染みてないと嫌ですか?」
「味がついてればいいです。」
 もともと、イルカの食べさせてくれる夕飯に、深く味を求めたことはない。料理屋で食べるのでない限り、カカシは味がどうこう言う人間ではなかった。うまい物が食べたいのならば、食べさせてくれるところへ行く。カカシがイルカに求めているのは、うまい飯ではなかった。
「おでんって、結構面倒ですか?」
 戻ってきたイルカに問いかけると、イルカは首を横に振った。
「時間かけると美味しい食べ物ですけど、面倒じゃないですよ。」
 戻って来るついでにミカンを抱えて戻ってきたイルカは、卓の上に自分が剥いたはずのミカンがないことに目を見張り、恨めしそうにカカシに視線を向けた。
「剥いて。」
 イルカはこたつに入って、カカシの前にミカンを置く。拗ねた子どもの言い分に、カカシは思わず吹出して、ミカンを手に取った。
「イルカ先生が、置いて行くからですよ。」
 カカシならば、口にくわえて移動する。その為にも、ミカンの房はバラバラにしたりなんてしないのだ。カカシのかつての同居人は、相手が子どもであろうと、食べる物に関して遠慮をする人間ではなかった上に、面倒が嫌いな人だったのだ。奪われたミカンや栗は数知れない。
「人のものを横から取っちゃダメです。」
「食べ物は、早い者勝ちなんですよ。」
 だから唾を付けて所有権を主張するのだ。イルカが剥いたミカンは、イルカの物だと言う人もいるかもしれないが、カカシにとってそれは、誰の物でもないミカンだった。
「………」
 イルカは膨れて、カカシが皮を剥いたミカンを奪い取る。
 あぐ。と、ミカンにかぶりついてイルカは持ってきたミカンを一つ手に取り、皮を剥きはじめる。
「イルカ先生。俺のは?」
 ミカンを口にくわえたまま、イルカはミカンの房を外していく。どうやら、彼にも食べ物の確保の仕方が分かったらしいと、そんなことを思いながら様子を眺めていると、イルカはミカンをカカシの方に押しやった。それから、口にくわえていたミカンを二つに割って、カカシがするように食べはじめる。
「……どっちが食べ易いですか?」
 思案顔のイルカに問いかけると、イルカは暫くして頷いた。
「手間がなくて、こっちの方がいいです。」
 上機嫌になって答えるその顔を見ながら、カカシはイルカの剥いたミカンを食べる。人が剥いてくれたミカンは、格別に美味しいと、カカシは思う。それが、イルカの剥いてくれた物ならば尚更に美味しく感じた。
「イルカ先生は、なんでああするんです?」
「……母がしてくれたから……」
 聞き逃す程小さく、イルカはそう呟いてこたつを抜け出していった。
 母親がそうしていたから、ミカンはそうして食べるものだと思っていたのと、母親がそうしてくれたのを思い出しながら食べていたのと、いろんな感情が混ざりあっての行動なのだろうが、時々見えるイルカの幼い子どもの部分は、両親からの影響が強過ぎるとカカシは思う。
 イルカが両親を失ってから十二年もたつのだ。いい加減にもっと気になるものを作ればいいとカカシは思っていた。その一つが、ほんの取るに足らないことでも、覆ったのならば、なかなかにいい事だとカカシは思う。
 ナルトの担当と決まった時、カカシは『イルカ先生』の存在など知りもしなかった。ナルトの語るイルカ先生を聞き、どんな人かと興味が湧いたのは確かだ。だが、周りの人間に問いかけても、「知らない」の一言で済まされ、火影にまで問いかけてやっと分かった。話をしてみて、更に興味が湧いた。
 初めてだったのだ。自分に向かって、平然と笑って挨拶をした人間は。媚びる事もなければ、恐れる事もなく、ただそこにいる人間に向かって、他の誰とも変わらない対応をした。そこで腹を立てる程、カカシは馬鹿ではなく、むしろ、それが心地よかった。自分はまだまだ、普通の人間としてやっていけそうだと、そんな安心を感じたものだ。
 だから、カカシはこうしてイルカの元を訪れるようになった。イルカは最初は緊張していたようだったが、しばらくしてその行動に慣れたようだった。そして、最近は少しだけではあるが、拗ねてみたりするようになった。
 まるで、お互いに子どもの頃をやり直しているかのようだ。と、時々思う事もある。それでもカカシには、現状がとても心地よかった。
「カカシ先生、机の上、片付けてください。」
 台所から声がかかり、カカシは散らばっているミカンの皮を集め、湯飲み二つと共に台所へ運んだ。最初は全部自分でしていたイルカだが、カカシがやろうとする事を拒否するのもどうかと思ったのか、最近では時分から頼む事もするようになった。
「もう、できたんですか?」
「カカシ先生、味がついてればいいって言ったじゃないですか。」
 味がついているのと、味が染みているのは違うらしいと、カカシはそこでやっと知った。おでんなんて作った事はない。その二つにどれほどの違いがあるかなんて、食べる前には想像もできなかった。
「まずくはないと思いますけど。」
 それは、美味しくもないという意味を含みませんか?と心の中で問いかけながら、カカシはおとなしくこたつへ引き返そうとし、イルカに鍋敷きを差し出された。
「小皿とお箸持って行ってください。」
「はーい。」
 素直に返事をして、カカシは棚から言われた物を取り出し、こたつへ戻る。暖房機具のない台所は寒く、ほんの僅かの時間でも、こたつが懐かしくなった。
 卓の上に鍋敷きを置き、小皿と箸を置くと、イルカが鍋を抱えてやってくる。
「あ、旨そう。」
 見た目にはきちんとおでんだと呟くと、イルカがため息をついた。
「おでんじゃなかったら、何になるって言うんですか…」
 その言葉に笑みを返して、カカシは箸を取った。
「大根、下の方に沈んでますから。」
「……イルカ先生、これ、じゃがいも?」
 言われた通りに底を探ったカカシが取り上げたのは、黄色のじゃがいもだった。
「入れません?」
 きょとん、とした顔で問いかけられ、カカシは自分が食べた事のあるおでんを思い起こした。だが、そのどこにも、じゃがいもの存在は浮かんで来なかった。
「入れないと思いますけど…」
「そうですか?」
 不思議そうな顔をしたイルカが箸で摘んでいる物を見て、カカシは更に言葉をなくした。
「……それ…」
「ソーセージ、あまってたから。」
 わりといけるんじゃないかなぁと、呟いて笑うイルカに、カカシは小さく頷いた。
 イルカに料理の腕なんて求めていない。だけど、ソーセージはどうかと思う。じゃがいもは許す。でも、それは、おでんに入れる物じゃないと思う。と、カカシは腹の中で呟き、じゃがいもを口に運んだ。
「…あ…旨い……」
「でしょう?」
 嬉しそうに笑ったイルカに、カカシは苦笑を浮かべて頷いた。
 料理の腕なんて求めていないけれど、気分良く食事ができるのならば、それ以上の食卓なんてないのだと、ここに来て思い出したのだ。
 イルカといると良い。幸せそうにおでんを口に運ぶイルカを見ながら、カカシはぼんやりそう思った。

 
 
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