「ティティアの泉…ねぇ……」
手元の紙の上に滑らせていた視線を窓の外へ移動させ、彼は小さく息を吐いた。
神殿に上がってから十三年。その間殆ど外へ出る事を許されなかったが、昨年、新しい仕事を与えられてからは、度々こうして各地へ派遣されるようになった。
そして、今日もまた、前回の派遣から1カ月と置かず、新しい派遣任務が与えられたのだ。
神官の派遣任務は、各地で『聖地』と呼ばれるようになった場所の調査を任せられる事が多い。
今回の任務もそれで、ティティアと呼ばれる街の程近くにある森の中の泉の水が、様々な病気に効くと評判を呼んでいるらしいと言う。
神殿が『聖地』を認定せずとも、人々はそれをそう呼ぶ。神殿は、その『聖地』の存在の理由を調べて利用するのである。人々からの喜捨で存続する神殿は、その喜捨を集める理由をいつでも求めている。
『聖地』と同じように、人々は神殿に救いを求めて足を運ぶ。神殿は精神的な助け以外は殆ど人々に与える事はないが、それでも人々はやってきては金を置いていく。ならば、それに実利のあるものが存在すれば、人々はもっと金を置いていく事だろうと考えて、神殿は、新たな聖地をいち早く発見するために、現存する聖地を調べるのだ。
ある日突然あらわれる『聖地』には、何らかのきっかけがあるはずだと考えて。
「たまには、ゆっくりさせろっての…」
テーブルに任務指示の紙を放り投げて、彼はそのままベッドに倒れ込んだ。
別に、派遣任務が嫌いなわけではない。最近は外での生活にも慣れて、色々と面倒な規制の多い神殿での生活が、あまり有り難くないと思うような事も増えた。それでも、更にそれ以上の緊張を強いられる派遣任務は、あまり続けて出掛けたくないものでもあった。
ごろりと体の向きを返ると、金色の左だけ長い前髪がパサリと音を立てて枕に広がる。派遣任務を与えられるきっかけになった徴が出てから、そちらだけは長く伸ばすようになったものだ。
「………護衛がいるよなぁ……」
与えられた資金を見ると、あまり腕のいい護衛は雇えそうにないが、流石に一人で出掛けるには遠い地だ。多少腕は落ちても、剣の使える人間を雇おうと思う。
前回の任務では、色々と障害が多く、怪我はなかったものの、一つ間違えば、大惨事になっていたかもしれない状況もあった。それなのに、自分には護衛一人おらず、与えられた金も少なく、神殿にそんなに金がないわけがないと、任務を与えた神官長を少々恨めしく思ったものだった。
ぼんやりと枕を抱えていた彼の耳に、ドアを叩く音が聞こえた。
「サンジ様、神官長様のお呼びです。」
外からの声にため息を一つ吐いて、彼はベッドを降りた。
神官長からの呼び出しは、任務の指示が出た夜に必ず行なわれるもので、サンジとしてはその面倒でつまらない儀式がなくならないものかと、常々思っているのだが、慣例は延々と続いていくものだった。
椅子の背に掛けてあったマントを羽織って、フードを目深に冠ると、サンジは部屋を出た。
「こちらへ。」
迷うはずもない部屋への先導も、サンジと同じく砂色のマントを羽織り、フードを深く冠って顔を見えないようにしている。これも神殿のしきたりの一つで、訪問者への対応に出る以外では、神官達は皆、顔を隠すのだ。
サンジは、そのしきたりを知っているが、その理由を知らない。神殿には、そんなしきたりが山のように存在していた。
そのわけを聞いても、きっと誰も答えられない。そんな事が沢山あるのが、今の神殿の実情だ。金儲けに走ったこの神殿から、サンジはもう出ていけない事が決定している。
小さく舌打ちすると、前を歩く背中が小さく揺れた。それが更に自分を苛立たせるのを、サンジはどうしようもなく放り出すしかなかった。
人を雇えるという話のその店を訪れたサンジは、そこに溢れる人々を眺めて、小さく息を吐いて、じっくりとその人々の衣装を検分し始めた。
長剣を腰に差した者や、大剣を背に背負っている者たちは、それぞれの剣や防具などに、幾つかの宝石を嵌め込んでいる。その宝石は、護符としての存在を認められているもので、女性が身を飾るものと、ここに溢れる人々が身に着けているものとは、少々役目が違う。
例えば、サファイアは魔除けの意味を持ち、琥珀と並んで旅人には好まれる護符であるし、金運上昇を意味する虎目石などは、商人に人気があると同時に、盗賊にも好まれるものだ。。
その宝石の護符の意味を含んで、目の色に様々な能力を見るのが、この世界の常識であり、サンジが神殿に上がる事が許されたのも、その目の色が青かったからだ。
そして、琥珀色の瞳を持って生まれた子供は、退魔能力を持つと言われ、余程裕福な家に生まれたのではない限り、そう言った能力を必要とする職業を生業とする人々に売られる事が多い。
「……おぉ……?」
人々の群れの中に、一際目立つ姿を見つけて、サンジはそれに注意を向けた。
緑色の短い髪から、金色のピアスが三つついた耳が見えているその人物は、多分、サンジとそれ程年齢は変わらないだろうと思えた。だが、何より目を引いたのは、彼の隠されていない左目の色と、その胸元にかけられている大きな琥珀の飾りだった。
琥珀には、魔除けの意味があり、旅人に好まれる石ではあるが、剣を持った人間がそれを人から見える場所に持っていたならば、それは、退魔能力を持った剣士である事を意味する。人里から離れた場所を旅する際に、最も頼りにされる職業剣士だ。
普通、そんな職業についている者は、こんな雑多な人々の集まる場にはおらず、退魔士の組合に籍を置いて仕事を受けるものだと聞くが、ここにいるからには雇えるのだろうと、サンジはそちらへ足を向けた。
これまでの任務で気付いたのだが、『聖地』と呼ばれる場所の周りには、魔物が多い地域が必ずあるのだ。ならば、今回もその確率が高いだろうと踏んで、サンジは先に退魔士の組合へ足を運ぼうかと思ったのだが、神殿は商売敵とも言える退魔士を嫌っている。雇ったはいいが、ばれたら面倒な事になりそうだと、結局サンジは組合に出かけられなかった。
それが、ここで見つけられたのだから、雇わない手はない。それに、組合に籍も置いていないのであれば、きっと値段も安いに違いないと踏んでの事だった。
「なぁ、あんたも、仕事探してる?」
テーブルの一つに座っていた彼の前に立って、そう声を掛けると、布で覆われていない琥珀色の目がサンジを見上げた。
「……ああ。」
暫くの間、サンジをじっと見ていたその人物は、何に満足したのか、にやりと笑みを浮かべて頷いた。
「俺は、サンジ。護衛を探してるんだ。ティティアまで。どう?」
名前を先に名乗るのは礼儀だ。だけれど、それ以上の情報を差し出すわけにもいかず、本題を切り出せば、浮かんでいた笑みが消えた。
「……ティティアの泉か?」
聖地詣でか、と問われて、サンジは頷いた。神官の仕事で聖地の調査に行くなどというのは、外には漏らせない事で、サンジがこれまで一人で任務を続けてきたのも、それが理由だった。
「金は?」
問われて、サンジは腰に下げた財布を外してテーブルの上に乗せた。
「これで、行程に必要な金と、あんたの賃金を出さなくちゃならない。」
彼はそれを手元に引き寄せて中を確認し、驚いたような、呆れたような表情を浮かべた。
「この財布は、俺に預らせてくれるわけか?」
自分の賃金を高くする為に、諸々の節約をする事も任せるのか、と問い掛けられていると理解して、サンジは首を縦に振った。その場合、最悪、金の持ち逃げをされないとも限らないのだが、この場合は、そう答える他に手はない。サンジは彼を雇うと決めて、彼は条件を出してきたのだから。
「護衛、と言ったが、わざわざ、危険地域に踏み入るつもりがあるのか?」
「わざわざ、ってことはねぇが、そうなる可能性がないわけじゃないと思ってる。」
神殿には、魔物の分布図などという大層な物はないが、退魔士にはそういった物があると聞いている。それはもちろん、彼等の職業上、あって当然のものであるし、退魔士組合は旅人用に、簡単な冊子を発行もしている。サンジは、一人で任務に出掛ける事が決まった折に、勧められてそれを買ったが、なかなか役に立つ物だった。
「歩いての旅か?」
「その金だからな。」
馬を用意するのも、馬車に乗るのも、金を使わねばならない。ならば、そこに金を使っているわけにいかないのが実情だ。それはそのまま、彼への報酬の減額を意味する。
「………」
もう一度財布の中身を眺めた彼は、小さくため息をついてから、その財布をサンジに押し返した。
断られたかと、更なる条件を出そうとしたサンジの目の前に、骨張った手が差し出された。
「え…?」
「ロロノア・ゾロだ。」
契約の締結を意味するその行動に、サンジは久しぶりに、神への感謝を口にした。
☆ ☆ ☆ ☆
例えば、うちに金があったら、こんな事にはならなかったかと言えば、やはりそういうわけでもなくて、掃いて捨てるほどの金があったとしても、俺がこうして生まれてしまったからには、結局こうして売られるしかないのだと、俺は思った。
この国は、持って生まれた色でもって、その人間の特性を量るところがある。
例えば、青い目にはサファイアの青、緑の目には翡翠の緑を見て、神聖な力を持つと言って、神殿で神官や巫女になる者と決める。
だから、親達は生まれてきた子供の目の色に一喜一憂する。貧しい家であれば尚更だ。子供を売って、少しでも自分達の暮らしが良くなれば、万々歳だ。子供だって、貧しい家で飢えて暮らすよりも、不自由のない神殿などに売られていった方が、ずっと幸せな事だと、子供を売った親達は言うのだ。
売られた子供が皆、その意見に賛成するとは思わないが、とりあえず俺は、それに納得して今こうしている。だって仕方がないだろう。抵抗して捨てられるよりは、親が嬉しさと悲しさの入り混じった涙を流してくれた方がずっとましだ。
金色の髪と青い目に生まれついた俺は、六歳の頃に神殿からやってきた派遣神官に見つけられて、神殿に上がる事になった。
もっと近くに神殿があったとしたら、もっと早くに神殿へやられていたかもしれないが、生憎か幸いか、うちは神殿から遠い場所にある小さな村の貧しい家で、神殿へ出かけていく時間と金があれば、小さな畑を耕しているほうがいいという生活だった。だから、派遣神官がやってきた時、両親は俺を外に出して、彼らの目に付くように仕向けたのだ。そして、俺は目出度く神殿へと売られることになった。自分がいくらで売れたものかは知らないが、両親が喜んだのは間違いない。更に、俺が無事に神官になれれば、また家へ金が入ると言われ、しっかり努めるようにと言われたものだ。
素直にそれに頷きながら、俺はただ一つの事だけを考えていた。
これでもう、飢える事などなくなったのだ。と。
「サンジ、行くよ。」
「はい。」
先に立つ神官の呼び声にそう答えて、俺は駆け足でそれに追いついた。
「お別れは、ちゃんとしてきたかい?」
「はい。」
もう二度と、この村には帰ってこない。たとえ無事に神官になれたとしても、二度と帰ってこないと心に誓った。俺は、神官になって、神殿で飢える事のない生活をするのだ。
「その服も、なかなか似合っているよ。」
神官は、ボロボロの服を着ていた俺に、新しい服をくれた。彼らの着ている服と似た形の砂色のマントは、ふわりと柔らかな肌触りの布で出来ていて、それを着た俺を、嬉しそうな顔で送り出した両親の顔を、早く忘れたいと思った。
「これ、貰っていいんですか?」
「ああ。神殿に着けば、もう少し動きやすい服があるからね。」
綺麗な服も、食べるものもある場所ならば、ここよりずっといい場所に違いないと、俺は思った。
村には、一つの説があった。
琥珀が採れるから、琥珀の子供が生まれない。
どちらがより得なことなのか、村の人間の誰もがよくはわかっていなかったことだろうと思う。
琥珀は、悪い物を遠ざけると言って、魔よけに使われるため、需要が高い。それにあやかって、琥珀色の目の人間には、退魔能力があると言われている。だから、琥珀色の目の子供が生まれると、子供は大体退魔士に買われていく。何故か琥珀の退魔士たちは新しい子供が生まれることを聞きつけて、子供を引き取りにやって来るのだと言われている。
琥珀の退魔士と言えば、退魔能力者として最高の地位にあり、信頼も高くその収入も高い。幼い頃から徹底して教育を行い、高い能力を維持するのだと言われている為、その可能性のある子供となれば、相当の値になると言われていた。
琥珀の子供はそんな理由で高い値のつくいい売り物だが、数は相当少ない。だから、琥珀が採れるから子供が生まれないと言うのは多分間違いなのだが、そうではなかろうかと思った村人が多いのは事実だった。
そんな村に、俺は生まれてきた。
最初は、村人達は驚き、それを歓迎したらしい。子供もいれば、併せてこの村は安泰だと。
だが、その年から琥珀の採取量が減ってきた。琥珀は次から次へと沸いて出るものではなく、採りつくしてしまえばそれまでだから、採取量の減少と俺の誕生に直接の関係があるかどうかなどはわからないし、全く関係がないと考える方が自然だったが、年々少なくなる採取量に、村人達は途方にくれた。
噂では、子供が生まれればすぐに琥珀の退魔士がやってくるという話だというのに、退魔士は四年経っても現れない。琥珀は採れなくなり、村の収入は減る。これはもう、子供を売ってしまうしかない。
そう村人達が考えた頃に、その退魔士はやってきたのだ。
黒い髪の、鋭い目をした男だった。琥珀色の右目ははっきり見えたが、左目は黒い布で覆い隠されていて見えなかった。それでも、それが間違いなく琥珀の退魔士だとわかった。そして、その背中に背負われた大剣で、それが退魔士の中でも花形と言われる、琥珀の退魔剣士だとわかった。
男は俺を見据え、俺はその先に立って、家への道を歩いた。自分が遠からず売られるのはわかっていたから、売られる相手は選びたいと思ったのだ。退魔剣士は、世の子供の憧れの職業だ。誰でもなれるわけではないが、俺は少なくとも可能性だけは持っていたのだ。選ぶのは当然だった。
俺の連れてきた男を見て、両親は驚き、動揺し、俺は村長を呼びに行き、話し合いの結果が出るのを家の外で待った。
先に出てきたのは、黒い男の方だった。すぐに村長が出てきて、二人は並んで歩いていった。それを見送って、家に入った俺を両親は傍へ呼んだ。
あの男が俺を引き取ること、すぐにもここを出ること。両親はそれを告げると、俺に旅の支度をするように言った。
と言って、俺に持って出るものなど殆どなかった。数枚の服と、初めて自分で採った小さな琥珀の欠片を入れた小袋。それだけを入れた布の袋を背負って部屋を出ると、父親が俺の首に、大きな琥珀の首飾りを掛けてくれた。
中に蜂の閉じ込められた、俺の拳くらいあるその琥珀は、父の自慢の一品で、母が編んだ革紐で括られたそれは、身を飾る品ではなくて、護符の役目を持つ首飾りだった。
両親の心配そうな顔に見送られて、俺は村長の家へ行き、そこで待っていた男の後について、そこを出た。見送ってくれた村長は、満面の笑みを浮かべていて、俺は、随分な金が手に入ることになったのだろうな、と思った。村では全ての財産が共同のものであったから、俺が売られる金は村の金だ。
両親は俺を心配してくれたが、村長はそうではない事に、俺は少しだけ引っかかりを感じた。
「ロロノア。」
足を止めて後ろを振り返った俺に、男は低くて静かな声でそう呼びかけた。
「時が来れば、ここへ来ることも出来る。」
退魔剣士になれれば、ここへ戻ってきてもいいのだと言われたのはわかったが、俺は少し複雑だった。
両親には喜んでもらいたいが、他の村人達を思うと、何とも言いがたい気持ちだった。
「剣の心得は?」
「ない。」
棒切れを持って友達と遊んだことはあるが、村のどこにも、剣と呼ばれるようなものはなかった。
「そうか。」
男はそう言って先に歩き出し、俺は慌ててその後を追いかけた。今は、自分が賭けたこの男について行くしかないのだから。