愛と海のあるところ



海には、優しい人間が沢山いて、とても綺麗なんだと、くいなは言った。
いつか、一緒に行こうと約束をした。
ここは、とても厳しいところで、俺達に優しい人間なんていなかったから。
それなのに、くいなは人間達に連れていかれてしまった。
必死に追い掛けて、俺は、沢山の人間を殺した。
人間達は、俺を怯えた目で見て、大きな声で悲鳴を上げた。
けれど、くいなはもう何も言ってくれなかった。
俺達は、人間とだって、一緒に暮らしたいと思っていたのに




「海は、もっと先か?」
 問い掛けてきた声に驚いて振り返ると、頭からすっぽりとマントを被った青年らしき人物がそこにいた。
「海?」
 問い返すと、彼はゆっくりと深く頷いた。
「まだまだ先だよ。」
 そう答えると、彼は頷いて、そこを離れようとする。
「ちょっと待ちな。」
 よく見れば、彼は何も物を持っていないようだった。砂漠を歩く者ならば、少なくとも水袋は持っているはずなのに、それを持っている様子すらなかった。
「なんだ?」
「お前、水と食料は? 一晩で歩ききれる距離じゃねぇんだぜ?」
 問いかけると、彼は首を横に振った。
「お前、どこから来たんだよ。」
 もしや、近くの集落から逃げてきたか、商隊からはぐれたクチかと問いかければ、彼はゆっくりと西の方を指差した。
「ここまで、飲まず食わずで?」
「……ああ。」
 何か不思議な事でもあるのか、とでも言うかのように、首を傾げる様子からして、近くの村の住人だろうと思った。
「一人で海を見に行く気か?」
「二人だ。」
 そう言って、彼は胸元をぎゅっと握りしめる。
 わけありなのだ、と知れる行動だった。だから、このまま行かせるわけにはいかないと思った。
「水も食料も無しで、たどり着ける場所じゃねぇよ。」
「…でも…」
 行くのだ、と、マントの下の唇が噛み締められる。
「俺もこれから、海まで戻るところだ。道案内してやるよ。」
 これが、砂漠の盗賊の手引きだったら目も当てられないと思わないでもなかったが、それならばそれで構わないと思う何かを、立ち尽くす彼に感じていた。
「……いいのか?」
「いいさ。名前は? 俺はサンジ。」
 問いかけると、彼は近くまで寄ってきて、マントのフードを外した。
「ゾロ。」
 低めの穏やかな声で答えた彼は、砂漠の中のオアシスのように、この砂色の世界の中で目を引かずにはいられない、とても綺麗な若草色の髪を持っていた。



 
 オアシスで会った男は、青い目をしていた。
 金色の髪が片側だけ長くなっていて、青い目を隠しているのが、勿体無いと思った。
 あれは、海の色だ。くいなが言っていた。空の色よりも濃い青色が海なんだと。
 人間の目の色を、あんなにきちんと見た事はなかった。
 俺が殺した人間達の中にも、海の色の人間はいたんだろうか。
 
 
 
「海に行くって、何か用でもあるのか?」
 サンジは隣を歩いているゾロに、そう問い掛けた。
 ゾロはすっぽりとマントを被っているが、その下の肌色は驚く程白く、砂漠で暮らしている人間とはどこか違っている。けれど、歩き方は慣れていて、砂漠の人間だとも思える。
「用ってわけじゃ…」
 ただ、海が見たいと思って。と、ゾロは小さく呟く。
「見たいだけ?」
「……綺麗なところなんだって、聞いた。」
 ゾロはそう言って、初めて会った時と同じように、胸元を握りしめる。
「どんな風に?」
 今ここにいない、ゾロが傍にいてほしいと思っているらしい誰かは、海を見た事があったのだろうかと、サンジは不思議に思う。
 ここから海は遠く、一人で何も持たずにたどり着けるのだとゾロが思っていたのだとしたら、それを伝えた人も、本当の海を知らないという事になるはずだ。
 それでゾロが今海を目指していると言うのなら、それは、ゾロの為と言うより、その誰かの為の事なのかもしれない。
「砂漠みたいに、ずっと向こうまで水があるんだとか、砂丘が動くみたいに、風で水が動くんだとか。」
 オアシスなんて目じゃないくらいの水があるんだろう。と、ゾロは言った。
 その表情は楽しそうに笑みを浮かべていて、ゾロが海を目指すのは、誰かの為だけではないのかと、サンジはほっとする自分に驚いた。
「ああ。この砂粒が全部、水に変わったような所さ。」
 そうサンジが答えると、ゾロはそっと目を閉じる。
 あの目の裏には、どんな海が描かれているのだろうかと、サンジはそれを見てみたいと思った。




 
 オアシスで出会った緑の髪の男は、不思議な金色の目をしていた。
 緑の髪も、金色の瞳も、サンジは始めて見るものだ。
 砂漠の民の中で、同じ色を見た事もない。
 けれど、一つだけ、それと同じ色を聞いた事がある。
 
 砂漠の奥深くに暮らすという、砂竜の化身の色。
 
 
 
「海を見たら、また砂漠へ戻るのか?」
 問いかけると、フードの下から金色の目がサンジを見る。
「……そうだな。」
 どこか寂しそうな目をしてゾロは頷き、じっとサンジの目を見つめる。
 ゾロはそうしてサンジの目を見つめる事が多かった。
 じっと覗き込むようにして見ているのは、サンジではなく、サンジの目の色だと気付いたのは、暫くしてからの事だった。
 最初は、自分の顔はそんなに目を引く形をしているのだろうかと戸惑ったサンジだったが、目元が隠れている時にはゾロはサンジを見る事もあまりなく、その理由はすぐに知れた。
 ゾロはと言えば、必ずフードを深く被り、オアシスに先客がいる時などは、絶対にそれを外す事はない。
 ゾロが、自分の容姿を隠そうとしているのは明らかで、それでもそんなゾロが自分には顔を晒した事を、サンジはどこかで嬉しく感じていた。
「そうか…」
「お前は、どうしてここに?」
 ゾロはその日始めてサンジの立場を問い掛けた。
「砂漠の民しか持ってないって言う、香辛料があるって聞いてさ。それを買いに行ってきたところ。」
 自分の荷物を軽く叩いてそう言うと、ゾロは不思議そうに首を傾げた。
「それを買ってどうするんだ?」
「料理に使うのさ。俺は、船のコックだからな。」
 商人から買うと、驚くような高値を付けられる品だったが、自分の足で買いに行けば、それほど高いものではなかった。
「船…」
 ゾロは初めて聞く言葉のようにそう呟いた。
「海を渡る乗り物さ。」
「海を渡る?」
「そう。海の向こうには、また別の大陸があるんだ。」
「………海の向こう…」
 ゾロは考えた事もなかったという顔をして、砂漠の果てを見つめる。
「もしよかったら、お前も来ないか?」
 そう口に出して、サンジは自分がこの男と離れ難く思っている事に気が付いた。




 
 隣を歩くゾロが、少しずつ調子を崩していくのを、感じ始めた。
 周りの様子は海に近付くにつれて緑が増え、足元も砂から土へと様子を変える。
 ゾロは、それに従って、歩く速度を落とし、息苦しそうにするようになった。
 砂竜の化身の噂がサンジの頭を過り、暫く前の会話を思い出す。
 海に出ないか、と誘ったサンジに、ゾロは苦笑を浮かべて首を横に振った。
 それは、きっと無理だ、と言って。
  
  
「大丈夫か?」
 ここまでの疲れが出たのだ、という様子ではなかった。
 ゾロは息も絶え絶えに足を止め、小さく頷いた。
「今日は、ここまでにしよう。」
 港町まではあと僅かだ。水も食料も余裕がある。進む距離が少なくなったところで、影響はないだろうと踏んでの事だったが、このまま少しでも早く港へ辿り着き、ゾロに海を見せてやるべきなのかもしれないとも思う。
 ゾロはサンジの提案に首を横に振って拒否を示す。このまま休んだところで、事態が好転するわけではない事を、ゾロはよくわかっていた。
 海は、憧れの地だ。
 くいながゾロにそれを伝えたのは、くいながその親からそれを聞いていたから。
 自分達が辿り着けない地なのだという言葉と共に。
 どうして諦めるのかと、二人で不思議に思っていた。
 けれど、ここまできてその意味がよくわかった。
 住処を離れ、砂漠を後にして、水の気配が強まるにつれて、体から力が抜け落ちていくのだ。
 絶えず流れ込んでいた力は消え去り、流れ出す力は増えるばかりだ。
 それでも、辿り着きたいと思った。
 サンジの語る海を見たいと、思ったのだ。
「……辛いなら、肩、貸すから。」
 そう言えば、ゾロは苦笑を浮かべて頷き、サンジは半ば抱えるようにしてゾロに肩を貸して歩き始めた。
  
  
 町に辿り着く頃には、ゾロは歩ける状態にはなく、サンジは背中にゾロを背負って歩いた。
 ここまでしてやる理由などどこにもないが、そうしたいと思う気持ちはどこからでも湧いてきた。
「ゾロ、もうすぐだぞ。」
 声をかけると、背中のゾロが微かに動くのがわかる。
 重みなど欠片も感じない、不思議な男だ。確かにそこにある感触はあるのに、背中に感じる重みは、それまで背負っていた荷物にも満たない。
 これは、人ではないのだと、信じる他になかった。
 砂漠の人々が、怖れている生き物。恐怖を持って語る存在なのだ。
 周囲には人が増え、誰もが安心した表情を浮かべていたその時、海からの強い風が吹き付けた。
 ぱさりと軽い音が立ち、周りの人々の視線が自分に向き、そして驚愕の表情を浮かべるのをサンジは見た。
「………化け物!」
 悲鳴に近い叫びが沸き起こり、人々が逃げ出すのを見て、サンジは走った。
 船に乗り込んでしまえばどうとでもなる。最初から、そうしていればよかったのだと後悔する。
 重みなどないゾロが、本当に背中にいるのかすらわからない。それでも、必死に走った。
 船が見え、仲間の姿が見える。それが、自分の背後を必死に示しているのを見た時、足に衝撃が走り、サンジはその場に転がった。
「サンジ!」
 仲間の叫びが聞こえ、サンジは振り返ってゾロを探した。
「ゾロ!」
 倒れているゾロの向こうには、銃を構えた一団。兵士のようには見えなかったが、素人のようにも見えない。
 サンジがゾロに駆け寄ろうとした時、ゾロがサンジを見やり、目を細めてその背後を見るのを見た。
「海だ!」
 あれがそうだ、と叫べば、ゾロは小さく頷いて、腕に力を込めた。
 一団の銃が音を上げたのと同時に、辺りに獣の咆哮に似た声が響いた。
 銃弾を避けられるはずもないとわかっていながら、身構えたサンジの目の前に鋼色に輝く大きな翼を持った砂竜が立ち塞がっていた。
「……ゾロ?」
 咆哮と共に噴き出した火炎に人々は怯み、サンジは船から飛び下りてきた仲間に抱えられるようにして、船に運び込まれる。
「ゾロ!」
 俺は、お前が人でなかったとしても、そんなことは少しも構わないのだ。と名前を呼べば、砂竜は船を振り返り、サンジはその目の色が緑と金色の2色である事に気付く。
 そして砂竜は船が動くのを確認し、もう一度人々へ向き直り、大きく咆哮を上げると、一瞬の内に崩れ去った。
 それを呆然と見つめていたサンジは、隣でそれを見ていた船長が腕を伸ばし、崩れ落ちていく砂の中から何かを掴み取るのに気付き、彼を振り返った。
 長く伸びた腕が戻り、船が港から離れると、人々は岸壁で何かを叫んでいるようだった。
「やる。」
 船長の手から渡されたそれは、緑と金色の石と、小さな布の袋だった。
 その袋は、ゾロが見せなかった胸元の何かだ、とサンジは気付き、そっとそれを開いて中の物を掌に載せる。
 黒い二つの石。それが何であるかは、二つの石の色を考えれば想像はすぐについた。
「砂漠の竜が死ぬと、宝石が二つ残るって、言い伝えがあるそうよ。」
 船の仲間の一人がそう言い、サンジの想像が間違いでない事を伝えてくれる。
「………海が見たいって、言ったんだ。」
 ゾロは、あの時から、こうなる事がわかっていたのだ。だから、無理だと言った。
 でも、あの目は海を見た。一瞬浮かんだ歓喜と安堵の表情は見間違いではなかったはずだ。
 四つの石を握りしめて、サンジは小さく呟いた。

 
 


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