家族



「ねぇ、ジェット」
フランソワーズに呼びかけられて足を泊めて振り向いたジェットは、次の言葉を待った。
「ハインリヒとはどうなの?」
それはごく普通の疑問のように投げかけられ、ジェットは何のことを言われているのかわからず首を傾げた。
「アルベルトと?」
そう問い返して、ハッとその質問の意味に思い至る。彼のことをアルベルトと呼び始めたのは少し前のこと、彼との関係が少し変わってからだ。
「え…と…」
言ってしまっていいものかと戸惑っていると、フランソワーズはわかったわ、と言ってにこりと笑った。
「最近、ハインリヒの様子が落ち着いてきたから、良かったと思ってるの」
応援してる。そう言われて、ジェットは照れて笑うしかなかった。
「ありがと、フランソワーズ」
ハインリヒがこの家に暮らすようになって半年が経った。最初は共同生活に戸惑っているような様子も見えた彼も、次第にそれに慣れていった。新しい仕事を始めるにはまだ準備が整わなかったけれど、この家の中で担当者のいなかった家電の修理という仕事を与えられて、ゆっくりと皆の中に馴染み始めているように思う。
ジェットはそんな彼の傍にできる限りいるようにして、買物に一緒に出掛けたり、近くを散歩してみたり、彼の気晴らしになるようなことを提案し続けた。何故なら、もっと彼のことを知りたかったし、自分のことを知ってほしかったからだ。
ジェットはハインリヒのことが好きだった。彼がここに暮らす前にここで暮らした数日間の間で、すっかり彼に惹かれていて、他の誰にも奪われたくないと思う程だった。彼がこの家へやって来て、本当に嬉しかったのだ。
ハインリヒは最初、ジェットが傍にいることが慣れないようだった。彼の部屋に入ることはなかなかできなくて、自分の部屋へ招いたり、居間で時間を過ごすことが精一杯だった。けれど、次第にハインリヒが自分を受け入れてくれていることがわかってきた。
その変化が何より嬉しくて、ジェットはほんの1週間程前に、ハインリヒに自分の気持ちを告げた。彼はとても驚いて、そしてとても動揺した。彼が心から愛していた人の死から、さほど時間が経っていないというのに、その言葉に頷こうとした自分がおぞましいと言って。
ジェットはそんなハインリヒを待とうと思った。彼が他の誰かを愛していいのだと自分を許せるまで。だって、彼はもう自分に心惹かれていることがわかったからだ。罪悪感を抱く程、ハインリヒは自分を好きだ。そう思えば、どれだけだって待てると思った。
けれど、その二人の関係をこの家の皆に告げるのは難しいだろうと思っていた。少なくなくなったとは言え、同性愛はそこまで一般的でもない。ジェットだってこれまで女性としか付き合った事はない。他の住人達も異性愛者だ。そのことでハインリヒの居場所をなくしてしまうなんてできなかった。
それに気付いたのだろう、フランソワーズはそっと二人の気持ちを肯定してくれたのだ。それがジェットには嬉しかった。
「まだ、色良い返事は貰ってないんだけどさ」
でも、昨日はハインリヒの部屋に入れてもらえた。彼らしいと思える、きちんと整えられたモノトーンの部屋だった。二人掛けのソファに座って、彼の持っていた写真集を見た。それはとても綺麗な風景が沢山集まっていて、いつか本物が見に行けたらいいなとジェットが言うと、ハインリヒはそれに頷いてくれた。
その表情はとても柔らかくて、ジェットは心が満たされるというのはこういうことだと思った。そっと彼の手を握って、いつか一緒に行こうと笑えば、ハインリヒは笑って頷いてくれた。握った手はとても温かかった。
「きっと大丈夫よ」
フランソワーズの笑顔に励まされて、ジェットは照れたように笑うしかなかった。




「ジェットとは、どうなのかね?」
ふいに問い掛けられて、ハインリヒは驚いて後ろで修理の様子を見ていたグレートを振り返った。
「ジェット?」
今、自分たちはそんな話をしていたろうか。話の脈絡が見えずに戸惑うハインリヒに、グレートは笑う。
「最近、奴さん、お前さんを名前で呼ぶようになったじゃないか」
「あ……あれは…」
1週間程前から、ジェットは自分を名前で呼ぶようになった。それはとても優しい響きでハインリヒに届き、心を揺さぶる声だ。けれど、ハインリヒはそれがとても怖かった。
この家に住むようになって半年、その間、ジェットの存在がどれだけ自分を支えてくれて、助けになってくれたか言い表すことは難しい。
これまでの生活から、ハインリヒは誰かと共に暮らすことに慣れていなかった。部屋に人を上げるのも怖かったし、長く話をするのもそうだ。けれど、そんな風に皆を避けていてはここで暮らす意味がない。それでも慣れないことはとても難しい。そんなハインリヒを、無理をする事はないのだと笑って助けてくれていたのがジェットだ。
ハインリヒが誰かの問い掛けにどう答えていいか惑っていると、すかさずそれに入り込んで、ハインリヒが答えを探している間、その場を繋いでくれたり、頼まれ事を片付ける時に自分も誘ってくれたり。それは、とても大きな助けの手だった。
この半年の間に、ジェットはハインリヒにとって一番近く、一番頼りになる存在になった。自分より年下のジェットに頼らなければならない事を、ハインリヒが恥じる間もない程、ごく自然にそうなっていたのだ。
そして、ごく自然にジェットはハインリヒが好きなのだと告げてくれた。それはとても嬉しい言葉だった。彼が自分を支えてくれたのが、新しい住人を手助けする先達の義務などではなく、自分への好意だったのだと知って、ハインリヒの心は安堵し、自分も彼のことを大切に思っていると告げようとした。
けれど、その一瞬後には、ハインリヒの心は竦み上がった。あの惨劇を、お前は忘れたのかと。
たった半年だ。彼女を自分が殺してしまうことになってから、ほんの半年しか経っていない。それなのに、あんなに大切に思っていた彼女を忘れて、目の前の新しい誰かの手を取るのか。お前にそんな資格があるのかと、自分に語りかける声があった。
ジェットが自分をどれだけ大切にしてくれたのかは知っている。彼の好意が偽物などではないこともわかる。彼は自分の罪も全部知っていて、それでもその手を伸べてくれているのもわかった。自分にその資格があるのかと言えば、ジェットはきっとそれを馬鹿な考えだと否定してくれることも想像出来る。けれど、ハインリヒは自分が怖くなった。
あんなに後悔したのに、お前は結局自分のことしか考えられないのか。自分さえ良ければそれでいいなどと、なんとおぞましい生き物か。責め立てる自分の声に、ハインリヒは言葉を失って、ジェットの言葉に首を横に振ることしかできなかった。
けれど、ジェットは今でも変わらず側にいてくれる。あの日から、自分を呼ぶ言葉を変えて、これまでと変わらず、じっと待っていてくれるのがわかった。
「……なにもない」
毎日、ジェットはアルベルトが好きだと言ってくれる。ソファに座る時、以前は殆ど触れない位置に座っていたのに、今はそっと肩が触れる位置にいる。それはとても心地の良いことだ。自分より少し体温の高いジェットは、何よりハインリヒの心を穏やかにしてくれる。彼がどれだけ自分を大切にしてくれているかを知るようで、それはハインリヒの中の深くへ染み込んでくる優しいものだ。
それを拒む事もできないくせに、ハインリヒはその手を取ることもできないでいる。
「おやおや」
とても悲しそうな顔でそう言うハインリヒに、グレートは驚く。てっきり二人は気持ちを伝え合って手を取り合ったものと思っていたのだ。そう思わずにはいられない程、二人はとても幸せそうに隣り合っているのだから、この家の住人達は密かに祝杯をあげたというのに。
「我が輩は良い事だと思って見ておったのだが?」
「そう言ってくれるのは嬉しい」
ジェットが皆に避けられたりしない事は嬉しい。やはり偏見は全くなくなったわけではないことだから、その不安はあった。でもどこかで、この家の人々はそんな事はしないだろうとも思っていた。勿論、それを二人が慎み深く行う場合に限っては。
「何か、気がかりな事でも?」
「……ジェットの事は信じている。だからこれは、俺の問題だ」
どこか寂しそうな顔でそんな事を言い、テレビの裏蓋を閉じてハインリヒは立ち上がる。
たとえばあの時、ジェットの手を取ったとして、彼女はそれを怒りはしないだろう。彼女はとても優しく、ハインリヒが誰かと関わろうとしない事を残念に思っていたから、きっと自分ではない誰かの手を取る事だって責めたりなんかしない。そんな事はハインリヒは百も承知だ。
ただ、自分が自分を許せないだけだ。人の好意ばかり欲しがって、与えられるそれに手を伸ばして、みっともない。そんな風に思わずにはいられないだけ。
「すまないな」
彼らがジェットの事を大切にしている事も知っている。彼の気持ちを応援している事も、自分の事を支えようとしている事も。
「恋の苦しみを楽しむのもまた良い事さ」
奴さんは、あれで随分楽しそうだぜ。そう言って笑うグレートに、ハインリヒはありがとうと小さく返してその部屋を後にした。




「アルベルト」
そう呼ぶだけで嬉しい。そんな顔でジェットはハインリヒを呼ぶ。その度に、ハインリヒは心を小さく跳ねさせる。そっと肩が触れるだけだった位置は、手が重なる位置に近付いて、二人でどこかへ行こうと約束するようになった。それでも、ハインリヒはジェットに君が好きだと告げる事ができないでいる。その言葉を口に出そうとすると、どうしても言葉が詰まってしまう事を、何故かとても悲しく思う程に。
「ジェット?」
言葉が続かない事を不審に思って呼びかけると、そっと腕が伸びて抱き寄せられる。
「俺は、ずっとでも待っていられるよ」
こうして抱き寄せられるのは、この家に住むと決まったあの日以来だ。あの日も、こうして抱き寄せられて安堵したのを覚えている。
「だから、無理しないで。言えない事にそんなに悲しんだりしないで」
大丈夫だよ。俺はちゃんとわかってるから。ジェットはそう言ってあやすように背中を撫でて、大丈夫だよと繰り返す。
「だから、アルベルトは俺の愛情をいっぱい吸い込んでてくれればいいんだよ」
大丈夫。そう言ってくれる事が嬉しくて、そうしてとても悲しくて、ハインリヒはジェットの腕の中で小さく頷く。
早く答えを返さなくては、ジェットが自分から離れてしまうかもしれない。そんな不安をジェットは感じ取ってくれたのかもしれないとハインリヒは思う。なくしたくないのに、言葉一つ返す事ができない自分の意気地のなさや身勝手さが悲しくなって、どうしていいのかわからないハインリヒを、ジェットはやはり支えてくれるのだ。
「ありがとう」
自分の何を彼がそんなに大切に思ってくれるのかはわからないけれど、いつか自分も彼を支えられるようになりたいと思う。もっときちんと自分の足で立って、一人前の人間になりたいと思う。
その時、隣にジェットがいてくれたらいいと思うのだ。



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