その日、いつものように始まるはずだった朝は、急な来客により、おかしな空気を孕むことになった。
「ジェットの家族?」
その家を訪れたのは、場違いな程に上等な服を来た初老の男だった。彼は、自分がAエリアのaブロックから来たと言った。aブロックと言えば、各エリアの中で最も区画が大きく、高層建築の無いハイクラスエリアのことだ。外にいた頃から上流階級と呼ばれていた人々が暮らしている。この家に住む誰も、そんな場所に関わりのある人間はいないはずだった。
「大旦那様は、ジェット様の祖父に当たられます。大旦那様のご子息、レックス様がジェット様のお父上にあたります」
ジェットは自分を呼ぶその言葉に微かにおぞましさを感じながら、自分にも血の繋がった誰かがいる事には喜びを感じていた。
「そこで、大旦那様はご自身の遺産をジェット様にお残しになりました」
様々な謙譲語を使った彼の話をまとめると、ジェットの祖父が先日息を引き取り、その遺言を開封したところ、遺産相続についての記述があり、ジェットは今、何十億という遺産を相続出来るという状況にあると言う事だった。
「俺が、それを相続出来るって?」
「はい。但し、条件が一つございます」
初老の男はその家の家令だと言う。この事態における一切の取り仕切りは彼が行っているそうだ。そう言われて納得出来る態度でそこに立つその人の言葉を疑う理由はないように思われた。
「条件?」
「遺産の一つであります、ご本宅にお住まいになり、家をお継ぎになる事です」
ハインリヒはその内容に動揺した自分を必死に抑える。
ジェットは自分の両親の家族について何も知らないと言っていた。それが、死んでしまったとは言えども、明らかになったのだ。もしかしたら、この変化はジェットにとっていい事なのかもしれない。それを、自分が彼を失いたくないというだけで壊してしまっていいはずもない。
家を継ぐというのは、誰か家の決めた相手と結婚し、血を繋いでいくという事であると考えるのが妥当だろう。それは、ハインリヒとの関係を終らせるという事だ。その事にこの場にいる誰もまだ気付いていないようだったが、気付かないなら気付かないままでいて欲しいと思う。そんな事でジェットの決意を歪ませるような事はしたくない。
「…突然このような事を申し上げても、すぐに決意はできないでしょう。どうでしょう、一度本宅へお出で下さい。勿論、皆様もご一緒に。きっとご安心頂ける事と思います」
ジェットがそれを断る事など想像もしていないように男は言い、明日にでも迎えを寄越しますので、と言いおいて出て行った。
「ジェットが資産家の子供だったとはねぇ…」
生憎、彼らはその家について知らなかったが、すぐにもフランソワーズが調べる事はできるだろう。今自分達に齎された情報が正しいのか正しくないのか、どの程度信じていいものかもよく考えなくてはならないだろう。ジェットを騙す事で得られる事があるのかは想像がつかないが、本当の狙いがそれ以外の誰かという事もないわけではないはずだ。
「いきなりあんな話を持って来られたって、全く実感は湧かないぜ」
ジェットは言い、それでも興味があるような様子で、何事かを考えているようだった。
そんなジェットをフランソワーズと張々湖が心配そうに眺めるが、ジェットはその視線に気付かない様子でいる。
「とりあえず、明日は皆でお邪魔しようじゃないか。ジェットがどうするにしろ、そんな資産家の家に上がり込める機会は滅多にないぜ」
グレートが言い、彼らは皆頷く。ここで特別不自由もなく暮らしている5人だが、金持ちの暮らしという物に興味が全くないわけでもない。そうなりたいと思う事はないが、彼らが一体どんな生活を送っているのか、もしジェットがその家に行くとなれば、どんな生活を送ることになるのか、気になって当然の事だ。
「少しはマシな格好をして行かなくちゃならないかね?」
「普段着でいいだろ。カッコつけたってボロが出るだけさ」
ジェットはそう言って笑い、彼らはそれぞれいつものように仕事へと出掛けていった。
「アルベルト、後から買い物に付き合ってくれる?」
現場仕事が一区切りついた事で、ハインリヒは暫く休暇を手に入れていた。ジェットの問い掛けに頷いて、どういう結果が出るにしても、自分はジェットの結論を支持しようとハインリヒは思った。
その朝、ビルの前にやって来たのは、やたらに豪華な車が数台。ジェットは家令という男に示された車に、ハインリヒを連れて乗り込んだ。その際に男はそれを止める動きを一瞬しかけたが、ジェットに見据えられて動きを止めた。ハインリヒはそんなジェットを不審に思いつつ、引かれるままに彼の隣へ腰を落ち着けた。
「こんな車、一生乗る機会もないと思ってたけど、ある所にはあるんだな」
家にある車は皆が大切に乗り、ジェロニモが整備を怠らないお陰で現役だが、この車と比べるべくもない乗り心地だ。
「本当だな」
自分がここにいるのは問題があるのではないだろうかと思いつつ、ハインリヒはその革張りの椅子の感触にくすりと笑う。
「運転手がいて、こんな車があって、そんな生活捨てるような何が、親父にはあったんだろうな」
ジェットが呟いた言葉にハインリヒは驚き、そっと前に乗っている運転士と家令の様子を伺う。
「駆け落ちだったんだってさ、俺の親」
「俺の両親もだ」
くすりと笑ってハインリヒは答える。住まいの定まらない男となど結婚させられないと言う母の親族から逃げるようにして、両親は結婚したと聞いている。父のしていた事を考えれば、その親族の不安は正しかったという事だが、といって、ハインリヒは両親が不幸だったとは思ってはいなかった。
「そうなの?」
「案外、親ってのは、そうやって子供の決めた事に反対するものなのかもな」
「……まぁ、うちの両親も苦労して苦労して、死んじまったから、反対されたってのも仕方ない事だったのかもしれないけどな」
前の彼らは聞き耳を立てているようだったが、口や表情に出す事はなかった。これが使用人ってものか、とハインリヒは半ば感心してそれを眺めていた。
そして車は驚く程広い敷地の中を通り抜け、彼らの住むビルよりも大きな家の前に止まった。
敷地の入口の大きな門から、車で5分程は走ったのではないだろうか。入口から見えていた屋敷はどんどん大きくなって、目の前のそれは殆ど城のようなイメージだ。
「でっけーなぁ、おい」
「こりゃ、すごいな」
彼らはぽかんとその家を見上げ、家令に導かれるままに家の中へ脚を踏み入れた。
家令から家の中を案内される間ずっと、ジェットはハインリヒを側から離さなかった。ハインリヒはハインリヒで、もしかしたらこれが最後かもしれないと考えてその傍を離れる気にはならず、二人はずっと触れる程の近くで歩いていた。
それをグレート達は不思議な心持ちで眺めていたが、その頃になってやっと、ジェットに提示されている条件が齎す結果に思い至り、ハインリヒの気持ちを理解して、そっとそれを見守るしかないのだと口をつぐみ、それをジェットは理解しているのだろうかと彼の後ろ姿を見て思う。
「俺の親父の部屋ってあるの?」
屋敷の中を1時間程掛けてぐるりと案内され、サロンだという部屋の前まで辿り着いた時、ジェットはそう問い掛けた。
「はい。まだ残っております」
「見たいんだけど、いいかな?」
ジェットがそう言い出すと、家令は少し戸惑ったようだったが、最後には頷いた。彼はジェットをこの家に迎え入れたいのか、そうではないのかが全く伺えない対応を続けている。彼らの家に来た時からずっと、ジェットがそれを断るわけはないと考えていそうな様子は見て取れるのだが、それを彼が望んでいるのかどうかはわからない。
この家に来たはいいが、馬の骨の子供と蔑まれたりされても困る。と横でその様子を伺っていたハインリヒは思う。ただ、こういった家に住む人間が、下町育ちのジェットに対して、対等な人間として対応するのかどうかと考えれば、それはないだろうという結論が出てしまうのも仕方がない。
使用人が主人を侮るという事はないかもしれないが、家令とやらいう、家を取り仕切る人間であれば、後から来たジェットに対して完全服従を取るという事もないのではないだろうか。そんな事をぼんやり考えて、ハインリヒは小さく息を吐く。
「できれば、俺だけで行きたいんだけど。アルベルトと」
その言葉にハインリヒはジェットを見上げ、彼が笑うのに首を傾げた。
「それは構いませんが…」
「じゃぁ、皆はちょっと待っててくれな」
そう言って、ジェットはハインリヒの手を取って家令の後に続いて歩き出す。
「ジェット?」
「いいから、いいから」
ハインリヒはジェットが何を考えているのかわからず、引かれるままに歩きながら、共にここにやって来た彼らを振り返る。そんな姿に彼らは少し手を挙げて応え、その背中を見送った。
「あれは、その気がないという事かね」
「さっきのが本題っぽいアルね」
うちのお馬鹿はああ見えて馬鹿じゃなかった。彼らは戸惑うばかりのハインリヒを見ながらくすりと笑う。
「まぁ、普段の様子を見ていれば当たり前だとは思うけどさ」
あのジェットがハインリヒを手放すわけがない。彼らは満場一致でそう結論を出す事ができるのだから。