「あんたも、外にいて」
家令にそう命じて、ジェットはハインリヒを連れて部屋の中へ入る。
「ジェット?」
「アルベルトには見ておいてほしかったから」
その部屋は長く人が使っていなかったにしては、綺麗に整えられていた。
「30年くらい経ってるのに、何も変わってないって、すごいよね」
この家はそういう家だという事だ。とジェットは笑う。
「部屋を片付けるだけの役目の人や、料理をするだけの役目の人が沢山いて、住んでる人間がいない部屋だって、こうやって綺麗にされてる」
本棚の本はぴったりとそこに嵌っていて、それなのに塵の一つもついていない。
「こんな家で親父は育ったんだな」
部屋の一角にしつらえられたソファセットに腰を下ろして、ジェットは部屋の中をぐるりと見回す。
「写真の一枚も飾ってない」
サイドボードの上には何かのトロフィーやメダルが飾ってあるが、人が住んでいる空気はどこにもない。
「ジェット」
彼がここに何をしにきたのか計りかねるものの、ジェットがあまり嬉しそうではない事を見て取って、ハインリヒはそっとその手に自分の手を重ねる。
「俺の家の壁は、写真でいっぱいだったよ。赤ん坊の俺とか、親父とおふくろの若い頃とか、もう剥がせばいいじゃないかって思うくらい」
ジェットは重ねられたハインリヒの手を握り返して、そっと彼に笑いかける。
「住んでたのはこの部屋よりちょっと大きいくらいの家だよ。本当にギリギリの生活だったと思う。でも、俺は自分が不幸だとか辛いとか思った事は一度もないよ。そりゃ、もっとうちに金があって、好きなだけほしいものを食べられたらいいのにとか考えた事はあるけど」
「うん」
それはアルベルトだって同じ事だ。いつも逃げていた父について引っ越しを繰り返して、どうして自分は皆と一緒にいられないんだろうと思いはしたけれど、それで自分が不幸だとかその生活が辛いなんて思った事はなかった。
「親父が資産家の息子だなんて聞いてさ、遺産が手に入るとか言われたら、そりゃ貰えるものは欲しいなと思ったよ。金があって困る事なんてないし、俺はこの通り定職がないし」
好きな服だって買いたいし、美味しい物だって食べたいし、映画を見たり、スポーツをしたりもしたい。それには全部金が必要で、残念な事にジェットはそれを潤沢に持っているわけではない。
「でもさ、俺は一人で美味しい物が食べたいんでもないし、映画だって一人は嫌だ」
ハインリヒはただじっとジェットの言う事を聞いている。その目が不安に揺れているのを見て、ジェットはくすりと笑う。
「俺は、アルベルトと二人でそうしたいんだよ。親父も、そうだったんだと思うんだ」
両親がどうやって知り合ったのかは知らない。けれど、こんな家で何不自由なく産まれて生活していた父が、あんな小さな家で暮らす事を躊躇わない程、二人が愛し合っていたのは間違いないとジェットは思う。この家に来て、それを確信したと言ってもいい。
「俺と結婚してくれる?」
そう問い掛けられて、アルベルトは驚いて目を見開き、ジェットを見返す。
「色々あるから、すぐにってわけにはいかないだろうし、もしかしたら死ぬまでダメなのかもしれないけど、アルベルトは俺の伴侶だって思ってていい?」
アルベルトはあの家に暮らしていて、あの家からの移住の許可も出ないし、生活の様々な事に制限がある。特に結婚について止められている事はないが、自分に弱味ができる事で引き起こされるかもしれない事を、アルベルトは恐れている。
「俺は…」
「俺はもう妻がいるので、その条件は飲めませんって言ってもいい?」
ジェットは何度もアルベルトの返答を求め、アルベルトは口を開いても出て来ない言葉にもどかしくなって喉に手を伸ばす。
「いい?」
「Ja」
たったそれだけなんとか口に出して、アルベルトはジェットの首に腕を伸ばしてしがみつくように抱きついた。
「ありがと」
背中を抱き返してもらって、アルベルトは大きく息を吐く。
「お前は、ここに来た方が幸せになれるんじゃないかって、苦労もしなくていいんじゃないかって思ったんだ」
「うん」
「でも、嫌だって、俺の所にいてほしいって思ってた」
そう言えば、背中を優しく撫でられて、頬がすり寄せられる。
「アルベルトは馬鹿だなぁ」
「……うん」
泣いているかもしれない大切な人の背中をあやすように優しく撫でて、ジェットはほっと息をつく。
「アルベルトは俺のものだから、絶対に手放したりなんかしないよ」
しがみつく腕をそっと離させて、彼の右手を取る。
「無駄にならなくてよかった」
ごそごそとポケットを探って、ジェットはシンプルなプラチナのリングを取り出す。
「自作だからちょっと歪だけど」
アルベルトの指にそっと嵌めると、それは確かに少し不格好に見えたけれど、アルベルトには何より嬉しい物のように感じられた。
「俺にも嵌めてくれる?」
言われてジェットの手の中の指輪をアルベルトはジェットの薬指に通す。
「これからもよろしく」
そっとキスをして、ジェットは照れたように笑ってみせた。