ハインリヒが仕事を終えて家に帰りつくと、珍しく居間から笑う声が聞こえた。
「母さん?」
滅多なことで人を呼ぶことのない彼女が、自分もいないのに声をあげて笑うことなんてないと、ハインリヒは思っていた。だから、ふいに心配になって問いかけるように声をかけて居間のドアを開けた。
「お帰りなさい。アルベルト。」
「……ただいま…」
居間のソファには、見慣れない女性が座っていた。母親は後ろを振り返り、息子の帰宅を笑って迎え、その女性に笑いかける。
「これが、息子のアルベルト。愛想がないのが父親譲りでよくないのよ。」
その女性は、母の友人と呼ぶには若く、一体どこで知り合ったのかと、ハインリヒは怪訝そうにその様子を見遣った。
「アルベルト、こちらは、ヒルダさん。」
「はじめまして。」
紹介されたからには挨拶を。覚えた通りに実践すると、彼女も同じようにそう返した。
「もう遅いけれど、大丈夫ですか?」
この家にいることは、彼女にとっていいことだとは言えないだろうと思い、ハインリヒがそう問いかけると、母はどこか困ったようにため息をついた。
「お前、もう少し他に聞くこととかあるでしょう?」
「ないよ。あまり引き止めると、迷惑だから、気をつけないと駄目だよ。母さん。」
母が何をしたいのかがよくわからず、ハインリヒはそれだけ言うと、居間を出て自室へ足を向けた。
母の行動は見張られている。彼女がここへ来たこともわかっているはずだ。それならば、自分はあまりかかわり合いにならない方がいいだろうと、ハインリヒは思った。
いらない面倒事に巻き込まれては、彼女が不憫だ。これまで母が人を近くへ寄せなかったのは、薄々と自分の状況がわかっているからかと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。ならば、自分だけは心掛けておかなくては。とハインリヒはこの事を心に止めた。
その後も時々、母親はヒルダを家へ呼んだが、ハインリヒはできる限り彼女とは親しくしないようにと心掛けた。母親はそんな息子に批判的な目を向けたが、ヒルダはあまり気にしている様子は見せなかった。
「アルベルトは、お母さまが本当に大事なのね。」
笑って彼女がそう言ったのは、母が落として割ったカップの後片付けをしていた時だった。危ないから手を出さないようにと言っておいて、自分が指を切ったハインリヒに驚いて、慌てて救急箱を取りに走っていった母親を見送ってから、ヒルダは小さな声でそう言った。
「……普通じゃない事をしてるかい?」
その言葉が出てくる理由がよくわからなくて、思わずそう問いかけると、彼女は驚いたように目を開いて、それから声をたてて笑った。
「あまりに仲が良くて、少し羨ましいくらいだわ。」
その言葉は、間違いなく、母親とごく近い場所にいる自分に向けられたものだった。だから、ハインリヒはヒルダが家族とうまくいっていないのだろうかと思った。それを忘れるために、ここで自分を迎えてくれる母と時間を過ごしているのだろうかと。
「………長い間、二人きりだから。」
10年程度の事なのだが、父親が死んでからは、ハインリヒにとって母は自分を守ってくれるものではなくて、自分が守らなくてはならないものに変わっている。母親にとっては、今でも変わらず自分は守るべき子どもなのだとは思うが、自分の意識の違いで、どこか親子の関係も変わったような気はしていた。
「私も、父と二人きりなの。でも、なんだかうまくいかないのよ。だから、羨ましいの。」
彼女自身の話を聞いたのは、この時が初めてだった。自分達の立場が、どこか似ている部分を持つことで、彼女は自分にも興味を持ったのかもしれないと、ハインリヒは思った。少なくとも自分は、それを切っ掛けに彼女の事を気にかけるようになったのは本当の事だった。
その後、ハインリヒは時折、家を訪れたヒルダと、彼女の父親の話などをするようになり、母親は満足そうにそれを見ていた。その状況が変化したのは、彼女の父親が病気を患って入院したという話を二人が聞かされた時だった。
心配した母親は、時々、ヒルダの代わりに彼の元を訪れるようになった。その母親をハインリヒが迎えに出かければ、ヒルダにも組織の人間の目が向くようになるのは仕方のないことだった。彼女はなんの関係もないとハインリヒが主張したとしても、それは無駄な話だった。
脅迫というものは、された方が気にかけなければ無効だとは知られた話である。それでも、ハインリヒはヒルダを無関係の人間だと切り捨てることができなかった。母が気にかけている女性。最初はただそれだけだったのだが、きちんと向き合って話をするようになってからは、関係ないと思うことは無理だった。
だから、傍に寄せるのは良くないと思ったはずなのに、と何度も思ってはため息をついて、寄越された通りに時限装置や起爆装置を作り続けた。二人は守ろうと、心に決めて。
「君に関しては、情状酌量の余地があると主張する者が多い。それでも、君をただ解放するわけにはいかない。君の事がどれ程知られているかはわからないし、監督下には起きたいと言うのが正直なところだ。」
その言葉を聞いて、ハインリヒは驚いて目の前の男を見遣った。
「どこに、余地があるって?」
脅されるままに従って、何人が死んだと思っているのだろうかと、ハインリヒは思った。被害者の身内が話を聞いて、自分を許すとは思えない。彼等にとっては、組織に脅されていたのだとしても、製作者の自分も犯人の身内と同じだろうし、もしかしたら、最も許せない人間なのではないだろうか。
脅しに屈したと言うのだって、自分の身内の命を、他のものと比べて、価値がないと判断したということなのだ。そのどこに、情状酌量なんてものがあるのかと、ハインリヒはその言葉を信じられなかった。
「君は脅迫されておって、今回こうして出頭して、少なくとも一つのテロ組織は検挙出来そうなのだよ。君は被害者なんだと判断するものの方が多い。君だって、刑は軽くなった方がいいだろう?」
「俺は、許されたくて来たわけじゃない。」
許されたくないわけじゃない。だけれど、こんな風に、自分も被害者だと言われるのは嫌だった。脅迫の被害者だったかもしれない。でも、自分は加害者なのだと、ハインリヒは知っている。
何時何処で自分の作った時限爆弾が爆発して、何人が怪我をして、何人が死んだのか、それは事件が起きる度に知らされた。それでも、自分は協力を止めたことはなかったのだ。止めなくてはとも、今回の事件が起きるまでは思わなかった。
自分が何をしているのか、本当にきちんと考えたことがなかったのだ。罪悪感だって感じたことがなかった。無差別に巻き込まれた人々を不憫だとは思った。でも、自分がしていることが何なのか、理解していなかった。そんな自分に、どんな顔をして、被害者だなんて言う権利があると言うのかと、ハインリヒは思う。
だから、逃げてここへ来た。多分、おとなしく家に帰れば、自分は殺されることもないだろうという確信があった。それでも、もう駄目だと思ったから、ここへ来たのだ。
それは、決して、自分の罪を軽くしてもらおうとか、許してもらおうなんて意識があったことじゃない。
正直なところ、断罪されたかったのだ。多分。この先、生きていくためには、自分の犯した罪はきちんと償うべきだと思ったから。それくらいの勇気ならば自分にだってあるだろうと期待したから。
「もちろん、無罪放免ではない。我々への協力と居住地の指定が条件だ。」
「……」
「たとえ、君が訴えられることがあるとしても、同じ結果が出るだろう。君のその技術は貴重だ。君は一生、死ぬまで我々に協力をせねばならないし、拒否権などはない。これは、簡単な事ではないと思うがね。」
脅しが有るか無いかだけ違う協力関係だと言う事かと、ハインリヒは小さく息をついた。
「傷付けるためにその技術を使うか、守るために使うのか、君は今回こそ、選択を間違えるべきではないと思うが。」
その言葉は、思いのほか強く響き、ハインリヒは目の前に座る初老の男を真直ぐに見た。
「よいかね?」
「ああ。」
殺人者が死刑になる世界ではない今、一生かかって罪を償えと言われるのならば、それでいいだろうとハインリヒは自分に言い聞かせた。刑務所に入れられて、何の役に立つのかわからない無為な時間を過ごすくらいならば、誰かを助ける手助けをする方がましだろう。
「では、この書類にサインを。」
差し出された紙に目を通し、ハインリヒは首を傾げた。
「この家は、どこに?」
書類には、警察の要請に従う事と、転居をしないことを宣誓する内容と共に、暮らすべき家の名前が書かれていたのだが、ハインリヒは生憎それが何処にあるのかすら予想がつかなかった。
もともと、Dエリアに住んでいたのだ。見つかる前にと思い、Nエリアの警察に駆け込んではみたが、地番もない家の名前だけを示されても困る。拒否権などないのはわかっているが、自分の荷物を運び込むにも困るではないか。
「ああ、君が出て来た家のことだ。」
あっさり返った答えに驚いて彼を見ると、鼻の大きなその男は、ため息まじりに言葉を続けた。
「フランソワーズは、我々の協力者なのだよ。君と同じ立場のね。」
その言葉は、俄には信じられない事だったが、彼女が情報を売り買いする事で日々の糧を得ているという話は聞いていた。そこに公的機関が関わっているのならばまたその存在する意味は違ってくる。
もしかしたら、自分の事も、既に報告されていたかもしれない。自分が名乗る前に彼女が自分の名前を知っていたのも、グレートかジェットが告げたのだと思っていたが、彼女が自分で調べた事だったというのはあり得る話だ。
「……他の人たちもなのか?」
「ピュンマはそうだ。ジェロニモは、退官した警官だ。」
自分がそんな家に拾われたのは、偶然だろう。それでも、2度目は必然だ。彼等は、自分をどう思うのだろうと、ふと気にかかった。
「とりあえず、テロ組織の検挙が終わるまでは、ここで保護させてもらう。その後に、あの家へ移ってもらう。」
「わかりました。」
書類の最後にサインをして、ハインリヒは頷いた。ここへ駆け込んでしまった以上、組織が自分を許す事はないだろうと思う。自分だけを狙うならば未だしも、まわりにまで被害が及んでは問題がある。彼等の判断は、間違いではないだろうとハインリヒは思った。
「君はその後も、できる限りあまり人の集まる場所には出かけないようにして貰わねばならん。生活には、よく気を払ってくれ。」
フランソワーズがほとんど家から出ないのも、そんな理由があっての事かと、ハインリヒは頷いて小さく息をついた。言われた事は尤もで、反論する気も起きない事だった。
黙って出て来てしまった事を、少しだけ申し訳なくなっていたから、謝る事ができるのならばそれだけでもいいと、ハインリヒはその家の名前を見ながら思った。
「今日、新しい住人が来る。掃除の手伝いを頼む。」
朝食の席で管理人のジェロニモから言われたジェットは、ため息まじりに頷いた。
「5階の左?」
「右側だ。」
「あそこは、」
ハインリヒの部屋だ。とは言えず、ジェットは言葉を飲み込んだ。
ハインリヒが一人で出ていってから、既に3カ月は経っている。その間にハインリヒの事をフランソワーズから聞き出した。自分が彼に言った言葉で、どれだけ彼が傷付いたかと思うと、悔やまれたけれど、謝りに行く事もできなかった。
「もうすぐ来るはずだ。荷物は昼頃に届く。」
「わかった。……どんな人?」
問いかけると、フランソワーズがジェロニモに目配せするのに気付いて、ジェットは首を傾げた。
「何だよ。」
何か、自分にだけ聞かされていない話でもあるのだろうかと、他の同居人たちの様子を伺っても、彼等もどこかぎこちなさそうな表情を浮かべていた。多分、彼等も自分と同じような気持ちでいるのだろうと、ジェットは思った。
そんな時、壁のベルが音をたてた。1階の管理人室にジェロニモがいない時は、来客に気付くために、この部屋にもベルが付けられているのだ。
「多分、新しい人だわ。ジェット、見て来て。」
「………わかった。」
どうしてジェロニモが行かないのだろうと思いつつも、気に入らない人間だったら、嫌味の一つも言ってやろうと心に決めて、ジェットは部屋を出て階段を下った。
ベルを鳴らした主は、今度は小さく玄関のノッカーを叩いているようで、コンコン、と小さな音が聞こえて来た。
「今、開けるよ。」
声を掛けて確認用のモニターを見たジェットは、そこに立っている姿に驚き、慌ててカギを開け、ドアを引いた。
「おはよう。」
なんと言うべきだろうかと口を開いても声の出ないジェットより先に、彼は穏やかな声でそう挨拶をした。
「入ってもいいだろうか?」
問いかける声に、慌てて半歩引いて、立ち塞がっていた入り口を開けると、彼は中へ足を踏み入れると、ジェットの脇をすり抜けて階段へ向かう。
「待った!」
慌てて止めると、彼は不思議そうに振り返り立ち止まった。
「何だ?」
不思議そうに問いかけられて、ジェットは慌てて玄関を閉めると、彼の前へ戻る。
「ハインリヒ?」
似てるだけのそっくりさんじゃないよね。とばかりに問いかけると、彼は苦笑を浮かべて頷いた。
やられたと、思った。フランソワーズが黙っていたのだろう。もしかしたら、他の住人たちも、自分に隠していて、あんな変な顔をしていたのかもしれない。
「あんたが、新しい住人?」
「ああ。」
頷くだけで、他に何も言わないハインリヒに腕を伸ばし、驚いて強張る体を抱きしめると、ジェットは小さく謝罪の言葉を口にした。
「あの時は、ごめん。俺、何も知らなくて、ハインリヒに辛い思いさせただろうと思って。」
もう、今度こそ会えないんじゃないかと思っていた人が、今自分の腕の中にいるかと思うと、ジェットはそれだけで安心する。
「謝る必要なんてない。おかげで、思い切れたんだ。感謝してる。」
そうして返ったその言葉は、ジェットを更に喜ばせるもので、思わず腕に力を込めたジェットは、痛いと訴えるハインリヒの声に気付いて慌てて腕を解いた。
「あんたにまた会えて嬉しいよ。」
3度目は必然なんだって、そんな言葉を思い出して、ジェットはハインリヒの手を引いて階段を上る。
「皆、あんたを待ってるよ。……俺が一番待ってたけどね。」
「……ありがとう。」
返った言葉が予想外で、ジェットは驚いて後ろをついてくるハインリヒを振り返った。
「ハインリヒ?」
振り返った先にいるハインリヒは、どこか戸惑うような、泣きそうな、何とも言えない表情を浮かべていて、ジェットは焦って彼を抱き締めた。他に、どうすればいいのかが、まるでわからなかったのだ。ただ、そんな顔をさせておくのが嫌で、気付いたら手が動いていた。
「……ほんとに、帰って来てくれて嬉しいんだよ。俺、なんの役にも立てなかったから。」
その言葉を聞いて、ハインリヒが体の力を抜くのが伝わり、ジェットはほっと息をついた。
「皆の事、頼っていいから。……俺なんか特に。」
腕を解いて笑って言えば、ハインリヒが笑みを浮かべ、ジェットははじめて見る表情に、一瞬言葉を失った。彼が、この家にいた間、滅多な事で笑う事はなく、更に言えば、こんなに穏やかに笑う姿など、一度も見た事がなかったのだ。
「頼りにしてるよ。」
そうして返った声を、ジェットは天にも昇る心地で聞いたのだった。
砕破、完了。ハインリヒさん、住人へ。
結局、何が言いたかったのよ。と言われると難しいんですが、主題は前半にあったのです。後半は、『死神』で書く事書いてしまったので、話がかぶってます。結局ね、パラレルなんですが、ハインリヒは原作の設定をきっちり踏んでる設定で、彼という人間はこんな人。という話でした。
人生の全てを打ち砕く暴力の存在。許したくない事が存在するのだという事。
それから、
これまでの平穏も争いも何もかも、砕いて壊してしまえ。そうして全部壊してしまったところに、新しい人生を作り直しましょう。
ってお話でした。でもね、主題は前者なんだ。後半は夢と妄想だな。
母親とヒルダの出てくるパートで、彼を『ハインリヒ』と表記するのは物凄くおかしいんですが、ここだけ『アルベルト』と表記しても違和感出るのは確かなので、『ハインリヒ』で統一されております。