雷鳴



 その日は、ひどく雨が降っていた。
 雨の筋がいくつも重なって、すぐ先がもう見えない。
 まるで白いカーテンを引いたような雨が、山や街に降り続く。
 空は黒い雲が立ち込め、昼間だというのに夜のように暗かった。
 街は所々に立ち並ぶ灯かりのおかげで、視界が悪くても何とかなる。しかし、山にはぽつんぽつんと立つ灯かりのみで、灯かりのない場所は真っ黒な闇に染まっていた。
 一歩外に出ると、傘を差していても服がびしょ濡れになってしまう。地面を打つ雨が跳ねて足元はすぐに濡れて気持ち悪くなる。
 全身を雨の湿気がねっとりと覆い、服も肌に張り付くようで街を歩く人々は忌々しそうな表情をしている。
 雨の降る音も轟音のように響き、雷が時おり光を横や縦に走らせていた。




 一台の車がそんな雨の中、山道を走っていた。
 あまり造りの頑丈ではなさそうな小型のトラック。
 ワイパーを動かすも、降りしきる雨のせいで視界は一向に晴れない。
 上の方からは窓ガラスを伝って流れてくる雨が、まるで滝のように視界を覆っていく。
 横の窓を打つ雨の音は激しく、雨が降る音と窓ガラスを打つ音が、控えめに流れる音楽を掻き消す。
 最初は天気の状態を聞くためにラジオをつけていたのだが、この雨のためにまったく音が入らず砂の流れるような音が流れるだけだったので、唯一トラックにあったテープを流していたのだ。
「まいったな……」
 運転席に座っていたアルベルトが、困ったように眉を寄せる。
 今日中に荷台にある荷物を隣町まで届けるという仕事を引き受けたは良かったが、まさかこんな雨が降るとは思ってもみなかった。
 確かに天気予報では、今日雨が降ることを予測していたが、その量ははるかに少なかったはずだ。
 予測しない状態が起こるのも自然の常なのかもしれないが、何もこんな時にと思ってしまう。
 こんなことなら引き受けなければ良かったと思っても後の祭りだ。
 とりあえず、この山さえ越えてしまえば隣町だ。
 荷物の届け先は、隣町に入ってすぐの工場。
 あと少し我慢すれば、すぐに仕事も終わる。
「終わったら、宿でも取って明日の朝に帰るか……」
 こんな雨の中、また自分の住む町まで帰る気力もなく、アルベルトはそうぽつりと呟くとアクセルを軽く踏み込んだ。
 相変わらず視界は悪かったが、通い慣れた道だから道を外れるということもないだろう。
 そのまま車を走らせていると、山の峠を越えたあたりで雨足が少しだけ弱くなった。
 アルベルトは慎重になって車を走らせる。
 ここからは隣町まで下りが続くから、少し速度を落とさないとこの雨に濡れた道路ではスリップしかねない。
 それに視界も悪い。
 速度を幾分落とすと、アルベルトはハンドルを持ちながら山を下っていく。
 あと少しで隣町に入るという時、車のライトの前に黒い影が映った。人のような細い影に慌ててブレーキを踏み込む。
 大きな音を立てて、トラックがスピンをする。
 タイヤのきしむ音がが響くが、それは強い雨音に遮られて隣町までは聞こえない。
 アルベルトはハンドルを回しながら、なんとか道から外れて落ちることを避けようとした。このまま行けば少し高い崖状態になっている。そこまで車が流れてしまったら終わりだ。
 ブレーキの音と車の揺れる感覚が合わさる。
 身体全体を揺さぶられるような感じに、アルベルトは吐きそうになるのを堪えながらハンドルをしっかりと握った。
 多少は速度が落ちたと思われるが、それでも雨のため道路が濡れているせいで、車はそのまま崖の方へと向かっていく。
 このままでは、崖を転がり落ちていくのは目に見えていた。
 あとわずかで崖に落ちると目を瞑ったとき、大きな衝撃が来て身体が前方へと投げ出された。シートベルトによって圧迫された内臓が悲鳴をあげ、折り曲げられるように前に倒れた額をハンドルに大きく打ち付けられる。
 頭の中で大きな音が響き渡った。
 車全体が衝撃によって大きく揺れた。
 前後の大きな揺れによって、身体が大きく揺れてハンドルや壁に身体を打ち付けられる。
 人より強いと言われる体も、何度も打ち付けられたせいで傷がつく。
 額からは血液のような赤い流れが頬を伝って下へと流れていく。
 アルベルトは震える手でシートベルトを外すと、ゆっくりとドアを開けた。
 足元から地面までの僅かの距離を下りることができず、地面へと転がるように運転席から落ちる。
 ギシギシと傷む体を押さえつけ、アルベルトは先ほどライトに映った人影のあった場所を見た。しかし、すぐ先は闇に覆われていて、どうなっているかが全く分からなかった。
 もしかしたら人を轢いてしまったかもしれない。
 そんな考えが頭の中をよぎる。
 力の入らない膝を立たせるようにして立ち上がり、アルベルトはゆっくりと一歩ずつ歩き出す。
 数歩進んだ後、足に力が入らずにガクリと膝をつく。
「く、そ……」
 小さな呟きがアルベルトの口から洩れる。
 なんとか足を立たせようとするが、どこか回線が切れてしまったように、足はぴくりとも動かなくなってしまった。
 冷たい雨が視界を遮り、人影があった場所がどうなっているかが未だに全く見えない。
 アルベルトは肘を地面につくと、そのまま腕の力で前へ進もうとする。
 もし人間を轢いてしまっていたら、このままにしておけば確実に死んでしまう。
 アルベルトの身体がズッと前へ進む。
 こんな日の雨は嫌いだった。
 自分が人間でなくなった日を思い出しそうになる。
 最愛の人を失くした日のことを。
 ギリギリと唇を噛み締め、少しずつ前へと進む。
 サイボーグの身体はギシギシと間接を鳴らして悲鳴をあげる。
「あと少しなんだ……あと少し」
 自分を励ましながら、人影があったであろう場所にたどり着く。
 そこには何も無かった。
 あったのは、咄嗟にブレーキを踏み込まれたタイヤの跡。
「良かった……見まちが……だっ…のか」
 辺りに何もないことを確認すると、急速に目の前が暗くなってくる。
 意識が次第に霧のように霧散していく。
 冷たい雨の音だけが耳に残る。
 アルベルトはゆっくりと瞼を閉じていった。



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