「理一、辞書貸して」
部屋を仕切る襖を開けて、侘助は隣の部屋へ踏み込む。授業についていくには予習も必要で、課題の提出もある。
冬休みの帰省中だからといって、ぼんやり暮らしているわけにもいかないのと、家の手伝いに駆り出されるのを避けるため、侘助は早々に部屋へ引き上げていた。
「理一?」
同じように部屋へあがった理一も勉強をしているものだと思っていた侘助は、窓際の机の前ではなく、床に転がって眠っている理一を見つけて驚いた。
理一がうたた寝をしているのを見るなんて、いつぶりだろうか。そう思ってその側に膝をついて、その顔をのぞき込む。
二人でここへ帰ってきたものの、それから話をしていない。
電車の中やバスの中ではありきたりな話しかできなかったから、何かもっと話をしたいと思いはするが、どんな話をするのがふさわしいのか、侘助にはさっぱりわからなかった。
好きだと言って、理一もそれに頷いてはくれたけれど、といって二人が恋人だというわけでもないと思う。
少なくとも離れている間にとった連絡の中で、そんな特別な空気を感じたこともなく、そう仕向けることも侘助にはできなかったからだ。
理一は自分との関係をどうしたいだろう。侘助は穏やかな寝顔を見てぼんやり思う。
理一のいる場所は、侘助が想像する以上に、外との接触を禁止するところだった。
外の人間が知るべきではないことを学ぶことも多いのかもしれないし、他の事に気を取られることを喜ばない所なのかもしれないと侘助は考えた。
大学を卒業した後も、昇進のためには転勤は度々あるらしい。
そんな中で、度々理一に会いに行く事が許されることなのかもわからなければ、それが単なる家族ではないとなれば、自分の存在がどう扱われるのか、侘助には想像がつかない。
理一には理一の目指す地位があるらしく、その立場にある人間が、外の人間とどう関わっているのが正しいと見られているのか。
もっと細かいことを言えば、同性愛というものをどこまで忌避する世界なのか。自分はそこまで考えて、理一との関係性を探っていかなくてはいけないのだろうかと侘助は考える。
ただ好きだから、でどうにでもなる世界に、自分たちは生きているのか、侘助には正直判断ができない。
妾の子だというその一つで、自分の考え方が人より卑屈であることも知っているし、周りの評価がマイナス地点から始まっていることも侘助は知っている。
理一をそういう存在にはしたくはない。けれど、今こうして目の前にいる理一を見れば、やはり触れたいと思うし、自分が一番側にいたいと思う。
理一の意志なんて全部無視して、勝手に動いてしまいたくなるのだから、この感情は厄介だと侘助は思う。
そっと手を伸ばして、夏よりもまた痩せたように見える頬に触れる。女ではないから柔らかさなど感じないけれど、それでも理一は侘助にとって優しいもののように思える存在だ。
実際は結構酷いことも口にするし、喧嘩をすれば蹴られることだってあるけれど、本気で殴りあいの喧嘩なんてしたことがないのは、理一が侘助との体力差を考えてくれているからだろう。
そういうことに気付いたのも、離れて暮らすようになってからだ。やはり自分たちは世間一般で言う兄弟とは違うのだと思ったものだ。
「理一」
離れて暮らしていると、本人に向かってその名前を呼ぶのも特別な気がする。
こんなに近くにいるのに、まるで気付いていないらしい理一を見ていると、家族というのはこういう時、いいのか悪いのかよくわからないなと侘助は思う。
高校生の頃、侘助はこうして寝ている理一の元に寄ったことが何度もある。当然それは深夜だったが、理一は一度だって起きたことはない。
眠りが深いのか、幼い頃一緒に眠っていたからか、とにかく侘助が息を殺して側にいるくらいでは、理一が目覚めることはなかった。
だから侘助はそんな理一を見ながら、キスしてみたいとか、セックスしたいとか、鬱々と考えるような危ない状況にあったのだが、そんなことに理一が気付いていることはないだろう。
本当に、キスしても気付かないかも。頬に触れても反応のなかったことに、侘助はそう考えて、理一の顔を囲むように手を付き、理一に顔を寄せる。
途端に、ぱちりと理一の目が開き、侘助は理一が既に起きていたことに気付いたが、ならば構うかとそのまま驚いた表情を見せている理一にキスをする。
殴られるなり蹴飛ばされるなり、こうなったらもう構うかという気だったのだが、触れて離れた侘助を理一は呆然と見上げているだけで、拒絶するような反応は返らなかった。
「理一?」
まさかショックで動けなくなっているとかだろうか。訝しんで呼びかけた侘助を、理一は暫く見上げていたかと思うと、ごろりとうつ伏せに転がって顔を背けた。
嫌がっている様子ではない。そんなのは付き合いの長い侘助には明らかだ。怒って背を向けるときの理一はもっと気配がきついし、俯いて顔を見せないようにしたりなんてしない。
「怒った?」
わかっていて問いかける声が踊っているのなんて、侘助にはどうしようもない。理一は自分とキスするのだって嫌ではない。
この反応は恥ずかしがっているというもので、そんな反応を理一が見せるなんて、多分始めてのことなのだ。
「理一」
呼びかけて、追いかけるようにうつ伏せた理一に寄り、顔をのぞき込もうとすれば、理一は更に逃げようとし、侘助はその先へ腕を付いて逃げられないように理一を囲む。
「もっとしたい」
そう言って晒されている首筋にキスをすれば、理一が慌てたように顔を上げて侘助を見た。
「なんで・・・」
「好きだって言っただろ?」
もう忘れてしまったんだろうか。そう思って問いかければ、理一は戸惑ったように視線をさまよわせる。
「そんなの、忘れたのかと思ってたのに」
ぷい、と視線を外した理一はそう言って、不服そうに口元を歪める。
「なんでだよ。俺がどうしてわざわざ一緒に帰ろうなんて言ったと思ってるんだ?」
少しでも一緒にいたかったからに決まってるじゃないか。そう言えば、理一はむっとしたように侘助を見上げてくる。
「全然、そんな風じゃなかった」
ああ、俺が一人で先走ってたわけじゃなかったんだ。
そう思うと、侘助はどうにも嬉しくなってしまい、理一はそんな侘助の笑顔に更に不機嫌そうになり、手を上げて侘助の額をぺちりと叩く。
「気持ち悪い顔するな」
「無理」
理一だって侘助と同じように思っていてくれたのだ。そうわかったのに、どうして笑顔の一つもうかばないなんてあるだろう。
「好きだ」
もっとキスもしたいし、セックスもしたい。ぼろりと口からこぼれた言葉に理一は驚いたように目を見開き、侘助は流石にこれは言い過ぎだったかと視線を飛ばす。
「俺と?」
ぽかんとしたままの表情と声で理一が問いかけてきて、侘助は同じようにぽかんと理一を見下ろした。
「ほかの誰としたいって思うわけ?」
今この状態で。侘助の問いに理一は自分の状況を理解したようで、先程侘助の額を叩いた手を、今度は顔面にべしりと叩きつける。
「今はだめだ!」
それって、後からならいいって事だけど。叩かれた顔は痛いけれど、その言葉の裏の意味を考えて、侘助は笑い出しそうになる。
理一がこんな反応をするなんて予想しなかった。
理一は自分のずっと先を歩いている、自分よりずっと大人だと思っていたから、こんな風にかわいいと思える反応をされると、楽しくて仕方がない。
「じゃぁ、夜に」
手をどけてくれた理一にそう伝えれば、理一は一瞬ぐっと詰まってから、ふいと視線を逸らし、侘助はその頬にキスをした。
「俺、本気だから。浮気なんてしないし、ずっと理一だけ見てる」
そう告げると、理一は侘助を見て、嬉しそうに笑う。
「俺も、侘助が好きだ」
お前は特別なんだと言われているようで、侘助は胸が熱くなるような気持ちになる。理一を好きになってよかった。そう思って、侘助はちょっと笑ってみせた。
2010年5月2日発行「君の隣はだれのもの」再録
夏の告白から冬まで待って、やっとこんな感じ。というお話。おじいちゃんとおばあちゃんの関係とか、色々気になっていました。
(2012.7.22 再録)