「俺、侘助が好きなんだ」
祖父の離れは祖母の部屋の向かい側にある。不思議な距離感のその部屋が、祖父の心を表しているのだと、理一は思っていた。
そんな部屋で一人、座椅子に体を預けて座っていた祖父に、理一は挨拶の後にそう伝えた。
「そうか」
祖父はそう言って理一の頭を撫でた。
「怒らないの?」
子供のような言葉で問いかければ、祖父は不思議そうに理一を見返す。
「何故怒るんだ? お前は悪いことをしているのかい?」
問い返されて、理一は首を横に振る。
「でも、きっと怒られると思って」
親戚たちは理一をこの家の跡継ぎだと見ているところがあったから、その理一が叔父である侘助が好きだなどと言えば、気がふれたかと言われてもおかしくはないだろうと思っていた。
自分のことである理一だって戸惑ったのだ。他人である人々がどうして簡単に受け入れられるというのだろう。
祖父に告げる気だって、今の今までなかった。ただ、彼がこの半年でずいぶん窶れているのを見たら、自然口をついていた。
次に会える時、祖父と話ができるのかどうかわからない。そう思ったからだ。
侘助が祖父を嫌っているのは事実だが、祖父は侘助を大切に思っている。祖父の側にいた理一はそれを知っている。
毎年のクリスマスプレゼントだって、祖父はきちんと侘助にだって用意していた。
理一は祖父にクリスマスプレゼントになにが欲しいかと聞かれる度に、自分の欲しいのはこれだけれど、クラスの皆はこんなのが欲しいと言っていたと答えた。
祖母や母には告げていなかったが、理一は侘助の存在を知っていたからだ。
父が亡くなった頃だったろうか。理一は兄が欲しいと祖父に言った。
その時、兄は後から生まれてこないことを知らなかったことはないと思うのだが、よりにもよって、父の死んだ後に言い出したのだから、何か欠けたところを感じていたのかもしれない。
そんな理一に、祖父は秘密だと前置きしてから、いつかお前を兄に会わせてやろうと言ったのだ。
勿論、侘助という名前は知らなかったし、それが自分と同じ年の少年だとは想像もしなかったが、自分には優しかった祖父が嘘を言うなんて理一は欠片も思わず、自分にはどこかに兄がいるのだと信じた。
実際は叔父だったわけだが、祖母に手を引かれて侘助が家に来た時、理一は祖父が約束を守ってくれたと大喜びだった。
祖父としては、父親の死に動揺していた理一を心配して、実現性の低い話をして安心させようとしただけに違い。
どちらかと言えば、理一がその約束を忘れてしまうことを願っていたのだろうが、理一は一度もそれを忘れたことはなく、ずっと期待して待っていたのだ。
やってきた侘助という兄は、従兄弟たちよりもずっと線が細く、頼りになる兄という雰囲気ではなかったが、男兄弟の欲しかった理一にはその存在だけで十分に思えた。
多分、この家の中にいる男が、自分だけになっていたことが、理一には気の重いことだったのだと思う。
勿論当時は祖父もこの家の中にいたが、祖父自身どこか距離を置いていたから、理一はそれを感じていたのかもしれない。
祖父は侘助がこの家に来てから、離れから出てくることが随分減った。食事を共には食べなくなったのも、侘助を思っての事だろう。
祖父が思うほど、侘助は祖父を嫌ってはいなかったのではないかと理一は思うのだが、祖父と侘助の間で、理一の知らない会話が交わされた中で侘助が強く祖父を拒否したことはあったのかもしれない。
けれどそれは侘助特有の人付き合いの下手さから来る、言葉選びの失敗だったろうと理一は思う。
今でさえあの状態の侘助だ。子供の頃の彼が思いつくままに言葉を選んだ時、強い拒絶を示したとして、それがどの程度侘助の気持ちを正しく表していのただろう。
理一は侘助とも祖父とも近いと思っている。だから、できれば二人にはもう少し歩み寄って欲しいと思っていた。
けれど、これはもうそんな暢気なことを言っている状態ではない。そう判断したら、せめて祖父には侘助にきちんと味方がいるのだということを伝えておきたかった。
侘助はきっと、祖母よりもずっと、祖父の方が彼の先行きと親類の中での立場を心配していることを、知らないだろう。
それは侘助をこの世に作った祖父の責任感であるかもしれないけれど、そこにまるで愛情がないなんて事は、理一は信じない。
祖父が侘助の母を選んだのが、単に若い妾が欲しかっただけだなんて理由だなんて事も、理一は思わない。
祖父が彼女の元を訪れていたであろう留守の後、とても穏やかな顔をしていたのを理一は知っていた。
そして、この家で暫く暮らしているうちに、段々とその表情が疲れていき、苦しそうに見えるようになるのを、子供ながらに理一が理解していたからだ。
だから、理一は祖父の愛情が、侘助にもその母親にも向いていたと信じている。
そして、それが祖母にも向いていたこともまた事実。祖父は外の家族にばかり目を向けていたわけではなかった。
そんな祖父に、自分の抱いている感情がどう判断されるのか、理一は一番恐れていたと思う。
だから言いたくはなかったけれど、言っておきたいとも思っていた。それが、言う方向へ転がったのは、結局は自分が不安だからなのかもしれないと、理一は思った。
「栄や万理子は怒るかもしれないが、おれがどうして怒れると思うんだ?」
お前は自慢の孫で、侘助はおれの子供だろう。と祖父は言って、もう一度理一の頭を撫でる。
「ずっと黙っていたのか?」
「うん」
祖父の前に立つと、自分は全く子供に戻ってしまうと理一は思う。
父をずっと昔に亡くしたせいで、理一が甘えられる男と言えば祖父一人きりで、祖父は父親ではないから理一には甘かった。
だから、理一はこの年になっても、祖父に甘えたところが抜けず、祖父はそんな理一を変わらず扱ってくれた。
「言う気はなかったんだけど」
「お前がそう言ってくれて、侘助も喜ぶだろうよ」
あれはお前のことが好きだからね。と祖父は笑い、理一はそうだろうか、と返す。
「当たり前だろう」
どう見たって、そうとしか思えやしないよ。と祖父は笑い、不安げな顔をしている理一に笑いかける。
「あれはああ見えて欲張りな男だからね。あれも欲しいこれも欲しいと手ばかり広げるけれど、結局は手には入るものなんて二つがせいぜいだなんて、気付いてもいない」
だってお前、人の手は二つしかないんだよ。祖父はそう言って、理一の手を取る。
「いいか、理一。お前にだって手は二つしかない。おれにだって、二つしかない。おれは幾つも欲しいものがあったが、結局はどれも握ってはいられなかった。わかるか?」
祖母の夫としてこの家に入って、この家の中の確固たる立場が欲しかったこと。それが叶わず救いを外に求めたこと。
それでも妻の手を離せなかったこと。祖父には願っても叶わなかったことが沢山あっただろうと、今なら理一にも想像が付く。
「本当に欲しかったのが、栄だったのか、この家だったのか、おれには結局わからないんだ」
お前は、自分が本当に欲しいものをちゃんと選べるかい。そう問いかけられて、理一は祖父から視線を向かいの部屋へ向ける。
「二つしか手に入らないの?」
自分の夢と好きな人と、それで二つだ。それじゃ、大切な家族はどうなるのだろう。本当にそんな風に限らなくてはいけないのだろうか。
「侘助がこの家から出ていこうとしたら、お前はどうする?」
問われたことに驚いて、理一は視線を祖父へ戻した。
「お前のその気持ちを、家族が否定したら?」
侘助が出ていくというのなら、自分も着いていきたいと思っている。家族に否定されたら、ここを離れてもいい。
そう思ってはいるけれど、本当にそんな場面があったら、どう行動するかの自信はない。
「侘助がお前を諦めたら?」
その言葉に理一は息を飲む。
そうなのだ。この気持ちは確かに理一一人のもので、侘助は侘助で考えて行動するのだ。
理一が家族を捨てられるとしても、侘助にそれが出来なければ、理一は捨てられるのだろう。
「ま、そんなことは、考えても無駄なことだけれどね」
そんな不安な顔をするんじゃないよ。と祖父は笑って、理一の手を取る。
「いいかい、理一。お前のじいちゃんは、いつだってお前の味方だ。好きだと思ったら、どうしようもないんだって事を、おれはよーく知っているからね。」
そう言ってくれた祖父に頷いて、理一は笑う。
「でもお前は、苦労を自分から負いに行く人間のようだね」
損な子だ。そういって笑う祖父が、嬉しそうだから、理一も嬉しくなる。
祖父も侘助も、この一族の中ではあまり好かれてはいないけれど、理一はその二人が好きだ。確かに損かもしれないけれど、そんなことは気にならない。
「好きだから、いいんだ」
もしかしたら、侘助はもう自分のことなんて好きではないかもしれないけれど、それはそれでいい。理一はそう思う。
誰かに言えてよかった。理一は笑う祖父を見てそう思った。
「理一は先にじじいのとこに行ってる」
祖母の部屋を訪れて、帰宅の挨拶をすると、祖母は一人で帰ってきたのかと問いかけ、侘助はそう答えた。
「お前も後から顔を見せに行ってくるんだよ」
そう言われるのはわかっていたけれど、侘助は変わらず父に会うのが苦手だ。
この家に来てから、祖母を母と呼んだことはない。侘助にとって母はたった一人で、今目の前にいるその人は、義理の母ではあるが、とても自分の母とは思えない人だ。
彼女の庇護があってやっと、この一族の中にいられることを、侘助はよく理解している。彼女の誠実さも理解している。
けれど、侘助の求めた母親というのは、そういうものではなかったのもわかっていた。
祖母のことは尊敬している。理一や理香が、自分が祖母のことを好きで仕方がないのだと思っているのも知っているが、最近では少し違うような気がしている。
祖母は確かに侘助の導き手だった。あの夏の日、その手を握って歩きながら、どんなに安心したか知れない。
だが、後の日々で、祖母の存在は侘助にとって本当に救いであったのか、最近ではよくわからないのだ。
侘助の母は、穏やかで優しく、どこか儚く笑っていた。泣いて帰る自分を優しく抱き寄せてくれながら、男の子がいつまでも泣いていてはいけないと叱ってくれる人だった。
侘助が求める母とはそういう人だ。
祖母は優しかった。そして厳しかった。それはこの家の主として正しい行動だったのだろうけれど、侘助にとって母の姿ではなかった。
理一や理香が少し祖母から離れているのは、きっとそのせいだと侘助は思っていたし、実際そうだったのだろうと思う。
だから侘助は次第に避難場所を祖母の元から納戸へと移行させていき、理一の優しさを求めたのではないかと思う。
理一の兄のように振る舞って、理一から頼りにされることでこの家の中での足場を作っていたのだと思う。
当時はそんなことを考えて行動していたわけではないが、今振り返ってみると、そんなものではなかったのかと思うのだ。
「俺さ、家庭教師やってるんだ」
そう告げると、祖母は暫し動きを止め、それから嬉しそうに笑った。
「そうかい。お前が人にものを教えるとはねぇ」
立派になったもんだねぇ。と祖母は言い、侘助は家庭教師はそんなものではないけれど、と心の中で思う。
「上手くやれてるのかい?」
「今のところ、問題にはなってないみたいだよ。相手も素直ないい子だからさ」
そう答えれば、祖母は驚いたように目を見開く。
「お前が、誰かをそんな風に言うようになるなんてね」
お前と来たら、周りは皆敵みたいな顔をして、そりゃぁ大変な子だったのに。と祖母はしみじみ呟いて、侘助は祖母にもそう見られていたのは仕方がないかと小さく息をつく。
「俺も驚いてるけど、理一みたいに対応したらいいのかなと思ってやったらさ、最初上手く行って」
段々、理一の振りはできなくなってきてるけれど、相手もそれに安心しているようで、お互い相手の出方を伺っていたのだということに、侘助はやっと気づいたのだ。
人付き合いが嫌いで、友達を作ろうなんて積極的に思うことはなかった。だけど一人になってみて、自分だけではできないこともあるのだと理解した。
たとえばアパートでゴミを出すこと一つにしたって、誰かに聞かなければなにもわからなくて、間違えば注意されて、それにはきちんと対応しなくてはいけなくて、今まで自分はそういうことも避けてきたのだと実感した。
「理一にはなれないけど、人と話す時に顔を上げるくらいのことはさ、するようになったよ」
特に誰かと二人でいる時は、きちんと相手の顔を見ることで、会話も上手く運ぶのだとわかってきた。
ただ、その反面で理一の顔を見て話をするのが怖くなってもいる。顔を見て話をしたら、自分の考えていることなど理一はきっと簡単に読みとってしまうに違いないと思うからだ。
「そりゃぁ、いいことだ」
その調子で頑張るんだよ。と言う祖母に、侘助は小さく頷いてそこを離れる。
理一に対して自分が持っている情動を、理一が正しく読みとってしまったら、理一はどんな反応を見せるのだろう。
夏にあの指先に触れた時は、流石に気障な行動だったとは侘助も理解していたから、理一が呆れたようにぽかんと口を開けていたことも、ある意味当然の反応だったと思う。
実際、恥ずかしげに顔でも伏せられたりしたら、あれで終わったりなんかしなかっただろうけれど、怒ったり嫌悪感を見せられたりしたら、相当へこんだろうと思う。
拒否されたくない。けれど自分の気持ちも分かってほしい。
前途多難だなんてことは想像はしていたけれど、まさかこんなところで足踏みをしていることになるなんて、と侘助はため息をついた。