「今回は一緒だったのね」
夏は別々に帰ってきた二人が揃って帰省したのを見て、理香は笑ってそう言った。
理一の側にいたいくせに、夏は出遅れてぶすくれていた侘助は、今回は有効な方法を思いついたらしい。
自分の弟が馬鹿ではなかったと理香は安心し、それでもそこまで側にいたいものかと、冬になっても弟以上に側に置きたい人間を作れない侘助に呆れも感じずにはいられない。
「二人で帰ってくる方が楽しいから」
理一がそう答え、この弟も夏に友人を連れてきたくせに、結局は侘助が優先されるのかと、理香はため息をもらす。
弟たちの仲が良いことについて、理香に不満があるわけではない。兄弟仲が悪いよりは良い方がいい。
けれど、大学生にもなった男二人なのだ。少しは異性にだって興味を持つべきだと思うし、せっかく新しい環境に変わったのだから、新しい人間関係を作ればいいと思って当然だろう。
理香は大学に入ってから、お洒落に興味が出たし、化粧もするようになった。
従姉妹の直美ほどではないけれど、それはごく自然なことだと思う。だからこそ、二人が変わらないことが気懸かりだった。
「あんたの友達が来るって事はないわけ?」
理香が問いかければ、侘助は鼻で笑って返し、隣の理一がため息をつくのを見て、あわてたように首を振る。
「友達がいないとかじゃないからな。俺だって普通にやってる」
家に呼ぶほど仲の良い友人ではないが、大学生活に支障が出ない程度にはきちんと人付き合いはできていると思う。
「侘助、家庭教師のバイトしてるんだって」
そうだ、と思いついたように理一が言ったことに、理香は驚いて声を上げ、おまえもその反応かよと侘助はため息をつく。
「あんたが家庭教師ねぇ」
頭はいいんだから、できないことはないだろうけど。と理香は思うが、それでもやはり生徒と上手くやれるのか心配になってしまう。
「思ったよりやれるぜ」
「それならいいけど」
勉強を教えに来ているのだから、勉強だけ教えてくれればいい。
そういう生徒だったら違うかもしれないけれど、黙って勉強を教えるばかりではやる気が萎えたりしないものだろうか。
侘助の言い分を信じないわけではないけれど、全面的に信じて良いものなのか迷うところだと理香は思う。
それでも、侘助が人と向き合う仕事をするようになったかと思うと、嬉しくもある。
とにかく人付き合いを避けたがる侘助は、家でもよく納戸に籠もっていた。親戚たちの輪の中にだって、未だに入りたがらないところもある。
それが、家庭教師だ。雇い主である親に挨拶だってするだろうし、生徒に話しかけもするだろう。それを続けているのならば、随分な成長だと思っていいかもしれない。
「おばあちゃんに報告するのね。きっと喜ぶわよ」
理香の言葉に侘助は少し照れたように笑ってみせ、まだまだこいつにはおばあちゃんが一番なんだわ、と理香は思う。
侘助にとって祖母は戸籍上母に当たる。
ただ、侘助にとって母親は実の母一人のようで、この家に引き取られて以来一度も、侘助は祖母を母と呼んだことはないし、理香の母の万里子を母と呼んだこともない。
それについて、誰を母と呼べばいいなんてことは誰も言わなかった。
子供である理香や理一は子供らしくそのこだわりの意味がよくわかったし、親戚たちは侘助をどう扱っていいのか惑っているようだったから、祖母を母と呼ばないことに安心していたようにも見えた。
最初、母のことを母と呼んでくれたら、本当の兄弟になれるかもしれないと理香は思っていた。
いつか侘助がそう呼ぶことで、自分たちは本当の家族になれるのだと期待していたのだ。
それは理香の単なる思いこみに過ぎず、幻想ではあったけれど、理香はその程度には侘助が家族らしくなることを願っていたし、本当の家族ではないのだということも理解していた。
理一の態度は、そんな理香のものとは少し違っていた。理一にとって、侘助は最初から新しい家族だった。
侘助が理一の兄の立場を望んでいたから、理一は素直に侘助の弟の位置に落ち着いた。
理一は元々従兄弟たちのような兄を欲しがっていたから、同じ年とはいえ、兄がやってきたことが嬉しかったのだろう。
理一には、侘助が家族をどう呼ぶのも関係はなかったようだ。
理香がいつになったら侘助は母を母と呼ぶようになるだろうかと言った時、理一はそんな日は来ないと答えた。けれどそれを残念がっている様子は少しも見えなかった。
理一が侘助を家族として迎えたのは、祖母の決定があったからでもなく、祖父の子供だからでもないだろう。
多分、理一は侘助が全く血の繋がらない人間だとしても、侘助を受け入れたのろうと理香は思う。
だから、理一が侘助のなにを気に入ったのか、理香にはわからないかった。
侘助は一目見て気に入るような子供ではなく、一度会話をして親しくなれる子供でもなかった。それなのに、二人の間には出会った時に、兄弟らしい関係が築かれたのだ。
故に理香は、理一は単に兄が欲しかっただけなのだ、と結論付けるしかなかったのだが、ここまでその仲の良さが持続するのは、一体どうしたことだろうかとも思っていた。
「そういえば、おばあちゃんって先生だったんだよね」
祖母の交友関係の広さは、この家の先祖の話だけでなく、そういう部分にも由来している。
どうやら、分別のある大人というものは、教師への恩を忘れないものらしい。正直、未だにその感覚は理香にも理一にも侘助にもわからないが。
「だから家庭教師なの?」
まさか、と呟く理香に、侘助は大きく首を横に振る。
「関係ないに決まってるだろ」
確かに、侘助の憧れはそっちじゃないわね、と理香は思う。侘助が祖母を好きなのは周知の事実。
だから侘助が祖父を嫌う理由も簡単に想像がつくと理香は思っているけれど、それが事実かどうかは不明だ。
「わかってるわよ」
早く行きなさい。と急かす理香に、引き留めたのはお前じゃないかと小さく返す侘助を見ながら、理一は笑って先に歩き始める。
侘助が大好きなおばあちゃんと、侘助が好きだと言った自分は、侘助の中でどんな風に配置されているんだろう。理一は時々そんなことを思う。
侘助の祖母への情は、殆ど崇拝と言うに近いと思う。
そんな祖母に侘助が家族としての情や、恋愛じみた感情を向けることはないだろうけれど、それは多分一生消えることなく侘助に存在するものだろう。
では、自分を好きだと言った侘助の情はどうなのだろうか。
理一は正直なところ、恋愛ごとには疎い。勿論綺麗な女性には目を引かれるし、そんな話に興じる友人たちに混ざっていることだってある。
ただ、そうして目を引く女性の側に居たいとか、その手に触れたいとか、そんな衝動を感じたことがない。
理一が手を握ろうと思ったことがあるのは侘助だけだ。最初は自分の側にいてくれる兄弟への衝動だったけれど、今はどうだろうかと考えると、どうやら少し違うようだと思う。
夏休みのあの日、侘助はどこで覚えたのかキザったらしく理一の手を取って、指先にキスをした。
その時はあまりのことに驚いて、こいつの頭はどうなってしまったのかと思ったものだが、あれはいけなかった。
あれから暫くは自分の手や侘助の手が気になって、なんとなく側に寄り辛かった。
寮に帰ってからはそんなことも忘れていたのに、今朝会った時にはそれを思い出してしまって、以来ずっとその手が気になっていたのだが、侘助の方はそんなことはまるでないようだった。
自分が気にしているほど、相手が自分を気にしていない。そう思うのは少しばかり悲しいことのようだ、と理一はここまでの間で理解した。
侘助が夏に好きだと言ったのは、そんなことも理由だったのかもしれないと思ったが、当の侘助が忘れたような顔をしているから、理一は結局なにも言い出すことなく、仲の良い家族の顔で過ごしたけれど、本当はあまり楽しくはなかった。
好きだという気持ちは、いつまで続くものだろうか。たとえば会わないでいる時、誰か他に目を引く人がそこにいたら、忘れてしまえる程度のことだろうか。
それともそれでも変わらずにあるものだろうか。理一にはそれがわからない。
侘助はあまり人の目を見ないし、表情が豊かでもない。その心の内にどんな感情を持っているかなんて、さっぱり想像が付かない。
あの時の顔を思い出すと、それは自分の都合の良い修正がかかっているような気がして、理一は侘助があの時どんな意図でその言葉を口にしてあんな事をしたものか、わからなくなってきていた。
だって、侘助は理香と話している時の方が表情は豊かだし、祖母の話をするときの方が嬉しそうだ。
それが理一には面白くないけれど、そんなことを言ってごねるのも馬鹿みたいだと思う。
別に、祖母のように侘助から絶対の信頼を得たいというわけではない。どちらかと言えば、それは理一にとってはあまり有り難くないことのように思う。
ただ、自分も侘助の中に特別なものでありたいとは思う。そういう意味で、侘助が自分を好きだと言ってくれたものと思いたい。
自分が侘助を好きだと思うのと同じように、侘助は理一が好きだろうか。
なんとなく、違うのではないかと理一は思うのだが、それを肯定されても否定されても面白くないような気がして、結局どうかなんて聞けるわけもなかった。
「ばあちゃんはいいけど、じじいはあんまり良くないんだろ?」
「うん」
後ろをついてきた侘助がそう問いかけてきたのに頷くと、侘助は複雑そうな顔でふぅんと返してきた。
「もう年だから、って年じゃないだろ」
若くもないけれど、そこまでの年でもない。理一の父親は早くに死んだし、侘助の母もそれよりは遅いにしても早く死んだと言われるところだ。
だから、彼らと比べれば早くはないけれど、祖母はまだ全く衰えなど見えないのだから、彼女と比べれば早いと言えるだろう。
「大きな病気じゃないとは言うけどね」
それでも最近は寝付いていることが多いと聞くから、なにか悪いところはあるのだろうとは思う。
ただ、こちらへ心配をかけないためか、詳しい話は聞かされていない。
たとえ聞かされても、外泊許可の取れない理一には、見舞いに行くことは出来ないから、せめて話だけでもと思うのだけれど。
「そっか」
理一ほど祖父を好きではない侘助は、それだけで満足したようで、理一の隣に立ち、追い抜いて歩いていく。
「先に、じいちゃんのところに行ってくる」
前にある背中にそう声をかけると、侘助は振り返って首を傾げる。
「後でいいだろ?」
「先に行ってくる」
重ねて言えば、祖母を第一にすることを当然だと思っている侘助は戸惑ったように理一を見返し、それでも頷いて先に歩いていく。
祖父に先に挨拶をするのは、夏もそうだった。理一にとって優先されるのは祖父だからだ。それから、祖母の前に立つ侘助を見たくなかったから。
自分は思ったより心が狭い。理一はそう思って侘助が通り過ぎた廊下の角を曲がった。