なつ ふたたび



土産も買った。生活費も用意した。
思いつくことはそれくらいで、他に何が必要なのかわからなかったけれど、とりあえず何とかなるだろうと思って、侘助は緊張の頂点で立派過ぎる玄関の前に立った。
去年の夏、自分の作ったプログラムがきっかけで、世界中を巻き込む大騒動が起きた。
その時、十年ぶりに帰ってきたこの家は、やはり昔と変わらず敷居が高い場所だった。
そして今は、もっともっと、この家の敷居は高いような気がした。
それでも勇気を振り絞って、震える手で玄関の扉を叩いた。何せ、この家にはチャイムなんて物がないのだから。
大玄関の扉は、普段は鍵が掛かっている。だから、気軽に入り込むことは出来ないし、向こうから開けて貰わなくては中に入ることは出来ない。
家の奥から足音が聞こえてくるのを待ちながら、侘助は何度も手の汗を拭い、奥歯をかみ締める。
暫く待ってやっと、足音が玄関の外にも聞こえてきた。
「もう少しお待ちくださいね」
なかなか出てこない家人を待って客が帰ってしまわないように、この家の住人は少し遠くからこうして声を掛けるのが常だった。
いつもより余所行きの声を出しているのは理香だ。こういう時、家主は態々出てこないことが多い。この家の当主が代替わりする前もそうだった。
足音がすぐそこに辿り着いて、鍵を開ける音が聞こえて、侘助は再度掌の汗を拭った。
「あ」
からりと開いた扉の向こうに立つ理香を見て、侘助が口を開くより先に、彼女の表情があっという間に切り替わった。
「あんた、人を玄関まで呼びつけて、何様のつもりよ」
客がいるのだろうと思って、愛想のいい表情を浮かべていた理香は、侘助を認めて不機嫌いっぱいの表情を浮かべてそう言い放った。
「はぁ?」
「ここはお客の通る玄関でしょう。あんたは脇玄関から入ればいいのよ」
言うなり理香は玄関を閉めてしまい、侘助は呆然とそれを眺めてから、すごすごと大玄関脇の小玄関へ足を向けた。






「酷いと思わねぇか?」
むっつりと不機嫌顔でそう言った侘助に、理一は苦笑を浮かべる。
どうやら侘助は理香が意地悪を言ったかのように思っているようだけれど、そんなではないのにと可笑しくなる。
けれど侘助はいってらっしゃいの意味もわからない馬鹿だから、姉のその反応を正しく理解するのはかなり難しかっただろう。
「何笑ってるんだよ」
「あのな、大玄関は、よくお出でくださいました、って迎えて、またお出でください、って見送る場所なんだよ」
そう言ってやれば、侘助は不思議そうに首を傾げる。
「小玄関は、お帰り、って迎えて、行ってらっしゃい、って見送るところ」
わかるかな、侘助叔父さん。笑ってそう言えば、暫くじっと考えてから、侘助は見事なまでに赤くなって頭を抱えた。
どうやら、馬鹿な侘助にもわかったらしい。
姉は、家に帰ってきたなら勝手に入ってこればいいのだと言ったのだ。ここはお前の家だから、誰に何の遠慮をする必要もないのだと。
「なんだよ、それ」
侘助は小さくそう言って、頭を掻き毟る。
お前が心配しているほど、この家の人間は狭量じゃない。昔からずっと、お前のことを家族だと思っている。
だから怒るし、泣くし、罵倒する。でもそれは、お前が憎いからなんかじゃない。
理一は侘助に懇々と諭してやりたくなることがある。勿論そんな事はしないけれど、もう少し、お前はお前の家族を信じてもいいんだと、きちんと理解させてやりたいとは思う。
過去の事を考えれば、侘助のこの怯え方も仕方がないのだと思う。
この家に来てすぐは、母も侘助を扱いあぐねていたし、理一に対する態度と侘助に対する態度が同じであったことはない。
他の親類達もそうだ。皆揃って、侘助を遠巻きにしていた。
でも、侘助もこちらを遠巻きにして壁を造ったのだ。こちらの壁が薄くなっても、侘助の壁は厚いままだった。
どうやらやっとそれが薄くなってきたようだけれど、こちらの壁がもうないことを、侘助はまだ理解できていないようだった。
「でもあいつ、俺の土産見て、もっとマシなもの持ってこいって言ったんだぜ」
あれは結構いいウィスキーだったんだ。そう言う侘助の持ってきた土産は、昨日の宴会で叔父達に大歓迎を受けて、あっという間になくなった。
「当たり前だろう。姉ちゃんはウィスキーなんて飲まないし」
従姉妹の直美は酒も飲むけれど、姉はそこまでではない。ビールを飲むくらいだ。
「結局それで、俺は駅前まで行って、ケーキだの何だの買ってきたんだぜ」
珍しくもなんともないじゃねぇか。そう言う侘助は、それなりに特別な物を用意したかったらしい。
「空港でチョコレートでも買ってこればよかったのに」
アメリカの菓子は美味しくない。理一はそう思っているが、それは概ねの日本人の感覚だろう。
アメリカ土産のマーブルチョコレートの発色の良さに目を見開いた事があるのは、理一だけではないはずだ。
理一など、同じ名前の日本で販売されているものを買って確かめてしまったほどだ。
理香も多分、アメリカ土産の菓子ならば、喜んだりしなかっただろうが、この辺りで売っていない国内の人気商品ならば、喜んだに違いない。
駅前の洋菓子店のケーキよりは特別感があったことだろう。
「そうだけど」
空港に着いた時点で、相当テンパっていたんだろうな、と理一は思う。そんな自分を見越して、アメリカ土産を用意してきたのならば、それは正しいことだったかもしれない。
なにせ、理一のところに届いたメールの内容は、『今着いた』だったのだ。
どこに着いたんだ、と内心で突っ込みを入れながら、空港だろうとは想像できたけれど、可笑しくて仕方がなかった。
ただ一年ぶりに家に帰るだけなのに。
理一と姉と母の気持ちはそんなところだ。他の親類達はもう少し違ったかもしれないけれど、それ程大きくは違っていなかっただろうと、昨日の宴会を見て思った。
酒を飲んで、万助はいつものようにご先祖様の話を語りだし、由美は息子の話をして、侘助が所在無さげに隅に行きそうになれば、直美が無理やり引っ張り出して、なんて楽しい宴会だったろう。
「メロン買ってきた、とか言ってなかった?」
「買ってきた。葡萄だって庭にあるのに、マスカットがいいって言いやがって、なんだその高級志向は。俺だって、金なんかねぇんだよ」
そう言いながらも侘助は嬉しそうで、理一はどうしても笑ってしまうのだけれど、そんなことは本人もわかっているに違いない。
「まぁ、喜ぶならいいけど」
未だに侘助は、好意の示し方が上手くわからないところがあるらしい。去年の年末に届いた歳暮もそうだったが、物や金でしか、それを示すことが出来ないのだ。
それはそれで悲しいことだとは思う。
それが去年の騒動を引き起こしたきっかけであることは確かだから、余計にそう思うのかもしれないけれど、もう少し、物や金に頼らない方法を考え付いてくれるといいな、と理一は思う。
「ま、お許しが出てるわけだから、これからは堂々と小玄関から入るなり、縁側から入るなりするといいよ」
去年の夏は、いきなり庭から入ってきたけれど、結局あれは、玄関を開けてもらえないかもしれないと思ったからかと、理一は小さく溜息をついた。
「ところで、裁判沙汰にはならなかったのか?」
この家の中に居場所があるのだと理解した今なら、この質問もそれ程問題ないだろうと踏んで、理一はそう問い掛けた。
「ならないわけないだろ」
OZは日本にある仮想世界だが、世界中の企業が参加している。当然なぁなぁで終わることなどなく、OZの管理会社に責任追及は来る。
そうなれば、アメリカ軍に責任を押し付けるのが最も楽だ。そしてその責任を全面的に被るわけにいかないアメリカ軍は、製作者にそのツケを回そうとしたに違いない。
誰が何と言おうと、製作者に何一つ責任がないなんて話が通るはずはない。まして、侘助はそれを売るために試用を進めた人間だ。
まさかOZで展開しろと言ったなんてことはないだろうが、自己成長型のハッキングプログラムが、どんな成長を遂げるかわからないという事の危険性をはっきり告げているかどうかといえば、多分、告げてはいないだろうと理一は思う。
どうなるかわからない不確定要素の高いものを、高い金を出して買い取ってくれるものがあるだろうか。可能性が無限にあるという言葉は魅力的だ。
けれど、どう転ぶかわからないという言葉は否定的な意見を生むだろう。どちらの言葉を選ぶかなんて、考えるまでもない。
それに、ラブマシーンには強制消去の機能すらなかった。
どう転ぶかわからないのに、ボタン一つで消すことも出来ないプログラムなど、理一に言わせれば何の役にも立たない無用の長物だ。
少し落ち着いて遠くから眺めれば、そういう判断はつくはずだ。
勿論、それを兵器として使うのならば話は別だ。ラブマシーンを敵国の仮想空間に放り込めば、好き勝手に暴れまわってくれる。
それで相手が自滅してくれれば、自国の人的被害はないだろう。
但し、そのラブマシーンが軍事衛星でも乗っ取って、自国に攻撃を仕掛けてこないという保証はどこにもないから、閉鎖空間でないのならば危険だろう。
結局、どう使おうと、危なくて仕方がないと理一は思うのだが、侘助はどうやらそこまで思い至らなかったらしい。
プログラムとしては、画期的な発明なのかもしれないけれど、正直、改良が足りないのではないかな、というのが、理一の職場の大多数の見解だ。
よくも、それを大金出して買おうとしたもんだと皆は言ったけれど、他所に売られるくらいなら、自分で買っておこうというところではなかったのか、と理一は考えている。
侘助の見解がどうかはわからないが。
「お互い、責任の擦り付け合いだからな。OZで展開した責任については、俺には何の責任もないって主張で押すしかなかったけどさ」
軍にとってはそこで責任を認めるにはいかないだろう。損害賠償なんて請求されたらとんでもない額になるはずだ。
特に日本国内の公的機関の打撃は大きかった。当然、病院などでは死者が出た可能性は捨てきれない。
二次被害、三次被害となれば、本当の理由がどこにあるのかは追求しにくいだろうが、だからこそ、その責任を追及する事だってできるはずだ。
しかも、軍が他国の民間企業に被害を与えたなんて、外聞の悪さも大きいだろう。それ見たことかと、責め立てる国が出てこれば、面子の世界は大騒動だ。
「OZの混乱に関しては、俺に責任はなし」
そうでもなければ、こうして日本に帰ってくることは出来なかっただろうけれど、自慢げにそういう侘助を見て、理一は苦笑を浮かべる。
一年前の侘助だったら、本気で自分には何の責任もないと言っていたのだろうけれど、今の侘助はどうやらそれが後ろめたいらしい。自慢げな顔の中で、目だけが少し揺れている。
「契約は?」
「なかったことに」
要するに俺は文無し。侘助はそう言って、大きく息をつく。
「土地を買い戻すどころか、貰った金も返せない」
そんなもの、誰も望んでなどいないのに。理一はそう思うけれど、それが侘助の人生の指針だというのなら、無碍に否定することも出来ない。
そんなに必死にならなくてもいいのに。理一は侘助を見る度にいつもそう思うのだが、侘助にはそれが必要なのだろうというのもわかるから、これまで口に出して言った事はない。
けれど、そろそろ言ってやってもいいのかな、と最近思うようになった。
いい加減、歳相応の、マシな大人になってもらいたいものだ。そんな風に思う。
「ラブマシーンはどうするんだ?」
まさか試用に提供したものが全てではないだろう。当然オリジナルは侘助の手元にあるはずだが、改良を加えるにしても、売り物になるかどうかは微妙なところに違いない。
「とりあえずは凍結だな。他に流用できれば、考えるけど」
まずは自分の足場を固めなくては、今後プログラマーとして仕事をしようとしたところで、どの程度の信用が得られるかがわからない。
「お前が大したプログラマーだとは知れただろうが、とんでもないものを作るってのも知れ渡ったからな」
プログラムの外注があったとして、それを企業でなく個人に依頼することがあるのかどうか、理一は知らない。
けれど企業に所属していない侘助は、伝手を頼ってでもどこからか仕事を得るしかないだろう。その立場にとって、あの騒動がどう働くか、なかなか厳しい話なのではないかと思う。
「OZじゃぁ、かなり話題になってるらしいけど」
「あんなのは、ガキどもの戯言だ」
神だ、とか、あんな話題にはなんの意味もないと、侘助はわかっている。あんなものを真に受けて依頼があるとしたら、それは相当やばい人間からの依頼に違いない。
そんなものに手を出していいのかどうかくらい、侘助にだって判断は出来る。
「暫くは、真面目にこつこつ小さなプログラムを作っていくしかないだろ」
研究として十年もかけていられたのは、開発が仕事であって、それを売ることが仕事ではなかったからだ。
けれどこれからは、金になる仕事を探さなくてはいけない。それはなかなか気の重いことだった。
「お前が人の注文を聞くなんて、想像も出来ないな」
営業も製作も全部自分ですることになるなんて、侘助に出来るのだろうかと心配にもなるが、それを越えてこその一人前である。ぜひ頑張って貰いたい。
「知り合いも国外にしかいねぇけど、まぁ、なんとかするさ」
侘助はそう言って、ばたりと後ろに倒れこんだ。
「十年経っても、畳はやっぱり落ち着くな」
嫌っていたはずのこの家も、やはり自分の家だと思う程に馴染んでしまう。
自分を迎えてくれる唯一の人だと思っていた義母はもういなくて、居心地の悪い思いをするはずだった親類達がいるのに、この家はそれでも侘助の家だった。
「長刀突きつけられて、泣きそうになってたのにな」
笑って言われて、侘助は苦笑を浮かべる。
あの時、自分が味わったものが、絶望と言うものだったのかもしれない。唯一の理解者であるはずの人が、自分に死ねと言ったのだ。
そんなに自分が悪いことをしたのかという事よりも、この人も自分の味方ではなかったのだという気持ちの方が大きかったように思う。
後で知ることの出来た彼女の気持ちは、それでもあの衝撃を消し去ることは出来なかった。
彼女には感謝している。これ以上ないほどに。でも、どうしても昔ほどの信頼は出来なくなっているように思う。
彼女にとって、その理想に値しない存在は、生きているに値しないのだと知ってしまったのだから、それも仕方のないことかもしれない。
今時、死んで詫びろもないだろう。なんて笑ってやり過ごすことは出来ない。
彼女の怒りは本物だった。だからあの言葉は紛れもない本心だ。あの時彼女は、侘助が死ぬべきだと思っていた。
侘助が死んだところで、事態は何一つ変わらないにもかかわらずだ。
この家で一番正しい人間が下した判定を、彼女が過去に残した手紙が覆したようだが、多分、侘助は一生あの言葉を忘れないだろう。
「死んで詫びろってさ」
「時代錯誤も甚だしいな」
こぼれた言葉に返ってきたのは、笑いを含んだ言葉だったけれど、それが理一の本心だとは侘助にも伝わった。
義母が好きな侘助と、祖父が好きな理一。侘助は父が嫌いで、理一は祖母が苦手だった。だから、理一はあまり祖母のことを話題にしない。
それに侘助が気付いたのは、騒動の後のアメリカ暮らしの中でのことだった。
「理一って昔からそうだよな」
そう言えば、理一が不思議そうな顔で窺ってくる。
「ばあちゃんの意見に否定的」
そう加えれば、理一は笑った。
「俺はじいちゃんの方が好きだったから」
そう言った理一は、笑みをゆっくりと変化させて、冷たい眼のまま、口の端だけ上げていく。
「どうして、じいちゃんは浮気をしたの?」
侘助は初めて見るその表情に息を飲む。
「侘助のお母さんが誘惑したから? じいちゃんが女好きだったから?」
ああ、笑い話で振る話じゃなかった。後悔しても口に出した言葉は戻らない。
侘助の目の前で、理一はいつものごまかしの笑顔とは比べ物にもならない冷たい笑みを作り上げ、侘助は理一の次の言葉を遮ることもできなかった。
「ばあちゃんといるのが辛かったからだよ」
いつから理一がそんな風に考えていたのかは知らない。けれど、それは最近のことではない。そしてずっと誰にも知られないまま、理一の中で繰り返し考えられていた事だ。
「お前以外には言えないね」
あの人は神様になってしまったから。くすりと困ったように笑って理一はそう言うと、そっと立ち上がった。
「理一?」
「嫌いだったわけじゃないけど、苦手だったとは思うんだよね」
いつからかはわからないけどさ。そう言い置いて、理一は部屋を出て行った。

 
 


次へ
 



転換の夏TOPへ