「馬鹿ねぇ、あんた」
呆れた、と呟く理香に、侘助は溜息をついた。
「自分がおばあちゃん大好きだったから、全然気付かなかったのかもしれないけど、あんた、あたしや理一とおばあちゃん奪い合ったことなんてないでしょうに」
そう言われて、侘助はそれを否定できないことにやっと気付いた。
親類が集まると、頼彦たちとは祖母の側を奪い合うことが多かったが、理一とも理香ともその場を奪い合うことなんて一度もなかった。
「理香もなのか?」
「理一と同じ意味でだったとは思わないけど、あんたほど懐く気にはならなかったわね」
苦手だったの。理香は理一と同じ事を言う。
「苦手って?」
問い返せば、理香はくすりと笑う。
「おばあちゃんの言うことは絶対で、おばあちゃんは間違わないんだって。有り得る? そんなこと」
そう言って笑う理香は、侘助に見せるよりも素っ気無い突き放したような顔をしていた。
「私は、おばあちゃんがどんなに凄い人なのか知らないんだもの。そんなこと言われたって、信じられないわ。だってうちのおばあちゃんはおばあちゃん一人で、他所のおばあちゃんがどうなんだか知らないんだから、あれが普通だって思って育つじゃないの」
おばあちゃんの何が凄くて、何が普通じゃないのかなんて、さっぱりだったわ。そう言って、理香は溜息をつく。
「今ならわかるけど、正直、あれと比べられる自分を考えると、気が重いわね」
迷惑だわ。と笑う理香は、いつもの明るい彼女だ。それでも、あんな理香もあったのだと思うと、自分が如何に周りを見ていなかったのか、侘助はしみじみと思い知らされる。
「まぁ、半分くらいは、崇め奉った周囲のせいよね。その辺のことは、私も理一もわかってるのよ」
神様になってしまったから。と理一は言った。確かに、彼女に対する周囲の評価は、正当であったのかどうかすらわからないほどの高いものだったと侘助も思う。
けれど、それが不当であったとは侘助は思えないのだ。多分、理香や理一も、はっきりとそれを否定は出来ないのだろう。
だからこそ、納得できない気持ちが消えずに降り積もるのだと思う。
「概ね正しかった。ここまでね」
それだって充分すぎる評価なのではないか、と侘助は思う。あの日、死ねと言われたことまで、正しい判断だったといわれたら、侘助には立つ瀬がない。
だから、侘助だって、理香の意見に賛成だ。
「多分正しい選択の方が多かった。っていうのが、理一の評価じゃないかしらね」
あの子もあれで、なかなか複雑で、悟ってなんかいないのよ。理香は笑ってそう言った。
侘助の中で理一は完璧に近い人間だ。人当たりもいい。きちんとした仕事についている。家を離れていても家族を大切にする。
そして、誰もが避けた自分にも優しい。
自分が考えていた理一像とは全く違うものが、先程目の前に存在していた。
理香にしてもそうだ。一番近くにいる家族だと思っていた二人が、全く知らない顔を見せる。
それだけ自分は彼らから離れていたということなのか、自分が彼らを全く見ていなかったということなのか。
理一に関して言えば、多分、自分に見せていなかっただけだと思う。理一には昔からああいう得体の知れないところがある。
中学や高校の同級生や先輩が、理一を怯えたように避ける事があるのを、侘助は見たことがあった。
あんな顔を見せられたら、それは怖いだろう。自分がどれだけの失敗をしたのか、凍えるような気持ちの中で実感したのだ。
理一は怒っていた。でもそれは侘助に対してではない。それだけは安心する。でも、あんな顔をさせた自分にはがっかりだと思う。
「もしね、お父さんが死んだのじゃなくて、離婚したのだったとしたら、理一はきっと、お父さんについて行っただろうって思うのよね」
仮定が過ぎて意味がないけど。と言いながら、理香はテーブルに頬杖をついて笑った。
「は?」
「今まで結婚しなかったのも、恋人を連れてくることすらなかったのも、この家の制度が嫌いだったからだと思うのよね」
私も好きじゃないけど。理香は言って、侘助に視線を向ける。
「あなたなんかに何か言われる筋合いなんてない」
口の端を上げたその表情は、先程の理一の笑みによく似ていた。似ていないように見えるけれど、時々驚くほどよく似ているのがこの二人だ。
「偉そうに人を評価するくせに、自分の夫一人守れなかったじゃないか。ってね」
まさかこの家で暮らしている人間がそこまで言うとは思わなかった。だってこの家は家族仲が良いとても素晴らしい家族だと思われていたのだから。
「誰にも言えないけどね」
異端審問に掛けられちゃうわ。理香は笑ってそう言い、侘助は確かにこの一族の空気はそんなところがあるなと思う。
「でもいつか、理香もそうなるんだろう」
そう言えば、理香は苦笑を浮かべる。
「私は従兄弟連中の中では下の方だから、その空気はなくなるんじゃないかしらね。母さんもあそこまでの人物じゃないし、そもそも私はそんなものは望まないから」
他人の評価が出来るほど、自分が出来た人間だなんて思えないと言う理香の言葉は侘助にもよくわかった。
義母が何を見て何を感じていたのか、侘助にはわからない。侘助は義母の愛情を得たかったが、それは多分保身のために近い。
あの日のあの手が、自分の手を離してしまうのが怖かったからだ。
そしてあの手はあの日振り払われた。過去に書かれた手紙に何の意味があるだろう。
あの日、あの場にいた侘助は、彼女にとって死ぬべき人間であって、迎え入れるべき人間ではなかった。それだけが事実だ。
でもこの家は、今も変わらず侘助を迎えてくれる。
万里子の態度はやはり、自分の子供達に対するものとは違うけれど、よく考えれば違って当然で、昔から変わらないという点では、理香や理一と同じ反応だ。
「好きな人と結婚することが、絶対の幸せとも言えないんだろうけど、一族の繁栄のために結婚相手を決めるなんて、馬鹿馬鹿しい話でしょう。見なさいよ、残ったのは馬鹿ばかりよ」
侘助も理香も理一も。叔父たちもいとこ達も皆、他所から来た自分達の半分も生きてない一人の少年に助けられたのだ。
そんな馬鹿を作ったのが、この家でありその制度であり、義母だったのだと、理香は言うのだろう。
そして理香も理一も、ずっとそんな家に疑問を抱いていて、おかしなものの中心にいる人を、疑わしく思ってみていたのだろう。
「家族仲が良いのは幸せなことよね。おばあちゃんの為に結束しているわけでもないし、本当に、ただ身内意識が強いだけなんだと思うわ。でも、それだけでいいの。家長がどうとか、代々の土地がどうとか、ご先祖様の威光がどうとか、そんなじゃなくてね、仲良くしたい家族がいて、優しくしてあげたい相手がいて、誰かの役に立ちたいと思う自分がいるって、そういうのがいいって思うのよ」
そう言った理香の笑顔はとても優しくて、それでも凛として美しいと侘助は思った。
これまでにそんな風に理香を見たことはなかったけれど、それぞれが色々なことを考えて、目指すものを持って生きているのだと感じられた。
「そうだな」
迎えて欲しいから役に立ちたい。侘助にはまだそれが限界だ。
何を渡せばいいのかもわからないから、金か物しか浮かばないけれど、理一がそれをあまり喜んでいないのも知っている。
それだって、侘助からしたら随分な成長だ。十年間サボってたことを、これから取り返さなくてはいけないのだろう。
「わかったら、理一を慰めに行ってきなさいよ」
今頃後悔真っ最中よ。笑った理香に急かされるように、侘助は立ち上がって部屋を出る。
落ち込んでいる時の理一は、自分の部屋ではなくて祖父の部屋にいる。今はもうその部屋の主はいないけれど、それでもそこが理一の逃げ場所だ。
ずっと、理一と対等でいたいと思っていた。
最初は少し上にいて、守ってやりたいと思っていたけれど、どうも無理そうなのがわかってきた頃、隣でも大丈夫だろうと考えたのもあるけれど、とにかく侘助は、ずっと理一の一番の相談相手でいたかったのだ。
それを自分から捨てておいて、知らない顔をした理一がいて、初めて聞かされた事があって、それで怯んでいた自分が情けない。
今こそ、自分の存在感をアピールする絶好の機会だと思えばいいのだ。
金もない、仕事もない、何もない自分が出来ることなど、さして多くもないのだから、出来る事からするしかないだろう。




「理一」
呼びかけると、縁側に座っていた理一が振り返って苦笑を浮かべた。
「珍しい。侘助がここに来るなんて」
「そろそろいいだろ」
そう返して理一の隣に座れば、庭の朝顔が目に入る。
「朝顔、今年もよく咲いてるな」
「じいちゃんは、変わり朝顔が趣味だったんだって話だよ」
普通の形をしたものではなくて、突然変異の奇形をそう言って、昔はそれを育てることを趣味にしていた人々がいたらしい。
「昨日の宴会は楽しかった。帰ってくるのも怖かったけど、帰って来てよかったと思う」
理一を見ながら言うのは流石に勇気がなくて、自分の膝を見て言うしかなかったのが情けないが、それは正直な気持ちだ。
「正直、殴り合いになったりするんじゃねぇかって不安もあったし、二度と帰ってくるなとか言われるんじゃないかって思ったし、手なんか汗だくだったし、膝は震えるし、みっともなくて仕方なかったけど、万助の烏賊は美味かったし、頼彦たちは相変わらずだったし、ほっとして泣くかと思った」
そう言って顔を上げると、理一が笑っているのが目に入った。
「なんだよ」
俺が弱音を吐くのがそんなに可笑しいのか、と悔しくなった侘助は、やっぱり言うんじゃなかったかと後悔する。
理一が落ち込んでいるのなら、自分も駄目だったことでも話せば、少しは気持ちも和らぐかと思ったのに、まさか笑われるとは予想外だ。
「侘助がそんな事を言うとはね」
嬉しいんだよ。理一がそう言って、子供の頃初めて会った時のように笑うから、侘助はぽかんと口を開けて見返すのが精一杯だった。
「いつも虚勢張ってるからさ、弱音吐いてくれたら良いのにって思ってたんだ」
落ち込んでみるのも無駄じゃなかったな。と笑う理一からは、先程のあの冷たい笑みは想像も出来ない。
「ここは俺の家だったけど、敵地だったからな」
義母は優しかった。けれど、母のことは何も言わなかった。本当は嫌っているのかもしれないと不安になったこともある。
だからここは、侘助にとって敵地だった。弱みを見せてはいけない。悪し様に言われるようなことをしてはいけない。
それは自分一人が責められるだけではなく、母の名誉も汚す事だと知っていたからだ。
「それは知ってたけどさ、いつかはそうでなくなればいいって思ってたんだ」
でも結局、侘助は家を出て行ってしまった。帰ってきたと思ったら、まだ虚勢を張っていて、ここはまだ侘助の家ではないのかと、理一はどこか寂しく感じていた。
その侘助が、寝転がって寛いだ様子を見せたから、少し箍が外れたのだと理一は思う。
あの時、長刀を突きつけられた侘助を見て、理一に浮かんだのは怒りだった。
侘助が駄目な人間なのが、侘助の捻くれた性格故だったとしても、そんな人間に育てたのは、他の誰でもない貴方だろうと言ってやりたかった。
「ずっと、あんな風に思ってたのか?」
「侘助が来るより前からだったかな」
ここまで強く思っていたわけではないけれど、あの時自分の中で更に悪化したのだと思う。
あれで侘助がおとなしく死んでいたりしたら、自分は迷わず職場に戻って、何一つ手を貸さなかっただろうな、と理一は思う。
理一にとって、祖父と侘助は、他の家族の誰より大事な人たちだったからだ。
「お前が普通に弱音吐いて、泣いたりとか出来る場所になりたかったんだよね。俺は」
理一のその言葉に侘助は驚いて、俯けていた顔を上げて理一を見る。
「お前は格好つけだから、ばあちゃんには死んでも弱音なんか吐かないだろうし」
「理一にだって弱音なんか吐けるわけねぇだろ」
自分の特別な人に、弱い顔なんか見せられるわけがない。それが男のプライドってもんだ、と侘助は思っている。
「お前にまで見捨てられたら、俺の居場所なんてどこにもねぇだろ」
そう言えば、理一は少し残念そうに笑う。
「俺にだけ弱音を吐くっていうのが、理想だったんだけど」
「んなの、俺だってそうだっての」
いつもいつも笑って周りをごまかして、本当の気持ちを見せる相手は誰なんだと、侘助は理一の友人まで観察していたというのに。
「俺は、いつでも理一の味方だから、溜め込んでないで聞かせろよ」
突然あんな顔を見せられるのは、本当に怖い。それくらいなら、時々愚痴を聞かせてもらったほうがいい。それなら侘助にだって出来るはずだ。
「侘助が、俺に弱音を吐くって言うなら」
ここで嬉しいなんて言って泣くような、可愛げのある人間ではないことは、残念なことではないと思う。
そんな男が、自分をそれだけ気遣ってくれているという証拠だ。むしろ、嬉しいと言って泣いてやりたい気持ちだ。
「言うとなったら、そうするよ」
弱音を吐くのが信頼の証しだと理一が思っているのなら、信頼を示してやろうじゃないかと侘助は思う。
他の誰かならば冗談じゃないが、昔から愚痴を言う相手も少ない侘助である。そこに弱音が加わることくらい、大した違いではないだろう。
「だから、俺のそばにいてくれるか?」
ここだけはきちんと目を見て言おうと決めていた通り、真っ直ぐに見据えてそう言えば、理一は驚きに目を見開いて、それからくすりと笑って頷いた。
「お前がどこにも行かないなら」
これが、男が泣いてもいい時なんじゃないだろうか、そんな事を思いながら、侘助は大きく頷いた。

 
 


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2010年10月10日発行「なつ ふたたび」再録
映画の一年後、という設定。陣内本家姉弟の祖母観は私の意見が投影されております。
なんと言いますか、確かにサマーウォーズはいいお話なのかもしれないけれど、前後を気に考えると、変なお話なのです。
好きなんですけどね

(2012.7.22 再録)




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