君の隣はおれのもの



大学生活が始まって初めての夏休み、三カ月ぶりに帰省した実家は、いつもと変わらず平穏で、のんびりした空気を保っていた。
「ただいま」
庭に出ているだろうと踏んだ通りに、そこにいた母に声を掛けた理一は、驚いたように自分を見返す彼女に、首を傾げた。
「お前、どうやって」
朝早い時間には、この家へ辿り着くために必要なバスは走っていない。夜行バスで駅まで着いたとしても、この家へ辿り着くのは無理だと、彼女は知っているのだ。
「歩いてきた」
本当は走って来ようかと思っていたのだけれど、流石にそれはまだ無謀な挑戦のように思ったので、おとなしく歩いて来ることにした。
三カ月とはいえ、体力作りに力を注ぐ大学生活を送ってきたのだ。なんとなく、その辺りを試してみたくなるものなのだなと、夜行バスを降りてから思ったものだ。
「歩いて…」
母は半ば呆然とした様子でそう返し、理一は頷いて返してから玄関へ戻ろうと踵を返す。
「おかえり」
驚いて言い忘れてしまったわ。と笑う母に、理一は驚かせてごめんと笑った。
「侘助は帰って来た?」
「まだよ。お母さんの誕生日には間に合うように戻ってくるでしょ」
あれは誰が何と言おうと、その日だけは忘れまい。そんなことはこの家で暮らす人間にはわかりきった事だ。
口ではどんな悪態をついたって、その心中はわかっているから、どうしても笑えて仕方がないのだけれどと、理一は思う。
「連絡はないの?」
「ないわよ。侘助にそんな事ができると思う?」
笑う母の言い分は、侘助のひねくれた性格を的確に表現していて、理一も思わず同じように笑ってしまう。
本当にこちらの想像を裏切らないでくれるなんて、なんていい奴だろうと思う。
「あれでちゃんと一人でやっているのか心配だわ」
あちらはそんな心配をされているなんて、考えもしないだろうけれど、確かにそれは理一も心配していたところではある。
本人は、そんな心配をされていると聞けば、きっと怒り出すに違いないのだが、かれこれ八年の付き合いの内、侘助が自分から友人を作ったり、良好と言える人間関係を作れたことがないのは事実だ。
あれで侘助は意外に女子生徒からは人気があったのだが、そういう話は得てして男子生徒から嫌われるきっかけになりがちだ。
その上、侘助は人と話すことも苦手なため、因縁をつけられたら間違いなく喧嘩に発展する人間だった。理一や姉の理香、母が心配するのも仕方のない話なのだ。
「大学生ともなれば、色々とやりやすくなるんじゃないかな?」
「そうだといいけれど」
大学生と言っても、一般的な大学生ではない理一には正直、侘助の状況は想像できない。
だが、東大なんてところは、頭の良い人間が集まってくるのだから、人付き合いがしたくない空気を発している人間にわざわざ構うような人間もいないのではないかと思う。
侘助がわざわざ東京の大学を選んだのは、周囲の干渉を嫌ったからであって、勉強をするためではないのはわかっている。
だが、それでも自分と同じ学力レベルの人間の間に入って、人付き合いというものを楽しいと思うようになってくれれば良いけれど、と理一はまるで親のような気持ちで考える。
理一自身は、大学に入って先輩や同期の仲間も出来、環境が変わったことをとても良かったと思っている。
初めて出会うタイプの人も多く、人付き合いの難しさを再認識する日々ではあるけれど、今まで考えたことのなかった事を考える機会も出来た。
自分を説明する機会も増えて、これまでを振り返ることも増えたことで、ずっとこの家で、この場所で過ごすことに違和感を感じていた事の理由が、少しわかったような気がしたことは、何よりいい変化だったと思う。
だから、侘助にも何か良い変化があると良いと思っている。流石に三カ月で彼が変わるのは無理かもしれないな、とは思うのだけれど。
「そう言えば、お友達が来るのだったわね」
前もって連絡しておいたことを確認するように母は言い、理一は頷いた。
自習室も寝室も同じという理由もあって、学内で一番よく共に行動している友人が、一度来てみたいと言ったのを、理一は歓迎した。
彼には色々と相談にも乗ってもらったこともあり、実際のこの家を見て、何を思うかを聞いてみたいとも思っていたのだ。
「おばあちゃんの誕生日の後だけど」
「お前がお友達を呼ぶとは思わなかったわ」
母から見れば、理一も少々心配な性格だった。
概ね人間関係は上手くやっているように見えるが、実のところ、好き嫌いがはっきりしている。
それでも周りに波風を立てないために、友好的に対応しようとするため、調子を崩すことも時々はあったのだ。
それでも本人にその自覚がないため、いっそ、侘助のように、はっきりと相手を拒絶してしまえば楽なのではないかしらと思うことも多かった。
「ちょっと、今までにいなかったタイプなんだけど、いい奴だから」
高校生の頃は、ああいうタイプには近付かないようにしていた。
多分、あちら側もこちらが好きではないだろうと思っていたから、積極的に近寄ろうと思わなかったのだ。
今回は、同じ部屋になった事もきっかけではあるけれど、何故かあちらから近付いてきたのだ。
彼は彼なりに思うところがあったらしく、平然と日々の生活をおくる理一に興味を持ったらしい。
「楽しみだわ」
母は息子のその表情の柔らかさにほっと息をつき、息子は嬉しそうな母に笑って返した。

 
 


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