「あのさ、俺は別に、あんたの弟奪おうってわけじゃないよ」
縁側に一人座っていた侘助を見つけて、橘はそう声をかけた。
「は?」
おや、反応した。昨日の無視から一歩進んだ反応に気をよくして、彼は侘助の隣に腰を下ろす。
「本人言うほど、この家嫌ってるわけでもないし」
昨夜自分に無視された人間とは思えない態度に、侘助はどう反応するべきか迷い、黙ってその言い分を聞くことに決める。
理一の友人は、確かにそれまで理一の側にいる人間達とは違っていた。
この家の古い作りに興味を持つのは、ここへ初めて来た人間としてはよくある反応だが、それを素直に口に出して感嘆する人間は初めてだった。
坪庭に声を上げ、床の間の鎧に声を上げ、庭の井戸に驚喜している様は、確かにこちらの笑いをそそり、家族は好意的に彼を迎え入れた。
侘助も、裏表のなさそうなその態度に拒否感があるわけではない。ただただ、理一の側にいるのが気に入らないだけなのだ。
「理一がこの家が嫌いだって言ったのか?」
「嫌いとは言わないけど、まぁそんな感じ」
その言葉は、不思議なほどあっさりと侘助の中に入ってきた。
理一は高校に進学する時にも一度、この家を出ていきたいような素振りを見せたことがある。
結局はそれが実行されることはなかったのだが、侘助はそれを知って、自分の存在が理由だろうかと思ったのだ。
理一が侘助のことを、他の親戚達のような理由で嫌うことはないとは知っていた。
けれど、自分が理一に向ける感情が知れたら、きっと疎ましく思うに違いないとは思っていたのだ。
だから、侘助は部屋を仕切って理一を必要以上に見ないように心掛けたし、必死に自分の感情を抑えてきた。
「家の話をする時とかさ、言いよどむんだよな」
こいつはどうしてその話を自分にするのだろう。そうは思うけれど、それを聞くほど、侘助は人付き合いが上手くない。
理一は大学でも上手くやっているだろうとは思っていた。理一は人に依ってはかなり嫌われることがあるのだが、大体の人間は彼に敵意を抱かない。
好かれることがなくとも、気に掛けないという対応をされることになる。そういう点で、理一は人に紛れるのが上手い。
その上、理一は話をごまかすのも上手い。何かを聞かれて言いよどむなんて、これまでにはなかったのではないかと思うのだ。
「話したくないことがあるって事か?」
「聞き出してみたら、おばあさんの人脈の話とかだったけど」
彼らの祖母は、政界に繋がりがあるらしいとは、彼らも何となくは気付いていた。
けれど、それが彼らを助けたことはこれまでにないし、あまり気にしてはいなかったが、侘助も大学教授から、官僚を目指すのではないのかと言われたことがある。
「自衛隊ってさ、最高幹部は首相って知ってた?」
俺、知らなかったんだけど。と彼は言い、侘助は黙って頷いた。
「なんかな、将来首相になるかも、って言われてる人たちの中にさ、おばあさんの教え子とかいるんだって」
親の七光りが有効な世界かどうかはわからないけれど、そういう身内を持った人間をどう扱うかは、人それぞれ違ってはくるだろう。
より手荒に扱うにしろ、気を使うにしろ、知ってしまえば気になるには違いない。
「そんなの理一は気にしないだろう」
「陣内が気にしなくたって、仕方ない世界だって事。だから、家のことは話したがらないんだって思ってたけど、それだけでもないみたいだな」
そう言って、彼は庭に向けていた視線を侘助に向けると、その目を見据えてにまりと笑った。
「あんたは陣内のこと見過ぎるけど、陣内はあんたのこと見なさ過ぎる。これって、どういうことだと思う?」
その問いに自分の心の内を見透かされたような気がして、侘助はかっとなって思わず腰を浮かしかけ、聞こえた足音にそちらへ首を向けた。
「侘助?」
そこにいるとは思わなかった。と語る表情で、理一は侘助の名前を呼ぶ。確かに理一はここ数日侘助を見なかった。
「そうじゃないよ。多分ね」
そう言って彼は理一の元へ足を向ける。
「あったか?」
「あったけど」
何を話していたのだろうかと気にかかる様子の理一は、二人の顔を見比べて首を傾げる。
侘助の表情はわずかに青ざめ、橘の表情は楽しそうに笑っている。
「何か言ったのか?」
「ちょっと質問をしただけ」
そう言って橘は理一の腕を引いて歩き出し、理一は侘助の様子が気になってそちらへ目をやる。
「侘助?」
「なんでもねぇよ」
侘助はそう答えながら、あの否定はなんだったのだろうかと考える。
理一が侘助を見ないのは、自分を疎ましく思っているからだろうか、と考えたことを、彼は否定したのだろう。
ならば、理一も自分と同じように、こちらを想っていてくれるという事なのだろうか。
そう考えついたものの、流石にそれは都合が良すぎるだろうと、侘助はそれを否定する。
たとえばそうだったとして、それでどうなるわけでもない。理一はこの家の跡継ぎで、侘助は妾の子だ。その上男同士では、彼の母や祖父ですら認めてはくれないだろう。
それに、理一に人から悪し様に言われるようなことはさせたくない。自分だけならまだしも、理一だけは。侘助はそう思った。



4日間の滞在の後、客人のいなくなった陣内家は、普段通りの落ち着きを取り戻し、住人たちはいつもよりも少し長かった非日常に息をついた。
「理一」
そうしてやっと心置きなく理一の側に寄ることは可能になった侘助は、いそいそと彼の部屋へ続く襖を開けた。
侘助が部屋の仕切を閉めたところで、それはいつでも勝手に開けられるもので、襖の前に物が置かれているわけでもない。
実質はあまり意味がないものではあるのは事実だが、そもそも各部屋に鍵など存在しない陣内家では、扉が閉ざされていることは、他者の進入を拒む意思の表れだ。
だから、他の部屋を訪れる際は相手の返事を待つのだが、侘助も理一もこの部屋を仕切る襖だけは、遠慮なく開ける。
それだけで、その仕切が互いへの拒絶ではないことは明らかだというのに、彼らは互いの気持ちと同じものが相手にもあるとは考えてこなかった。
「なに?」
窓際の机に向かっていた理一が振り向いて、空いた床に腰を下ろす侘助の元へやって来るのを侘助は黙って待つ。
理一は他の誰とも違う。恩人と呼ぶべきであろう祖母も、侘助にとって特別な人ではある。
でも、理一はそれとはまるで違う意味で特別な人間だ。自分以上に、理一の側による人間はいてほしくない。
「あいつ、好きなのか?」
ああ、これじゃ小学生だ。自分の質問に、侘助は内心で舌打ちをする。子供の独占欲丸出しの、馬鹿馬鹿しい質問だと理一は思うかもしれない。
「好きかと聞かれると微妙な気持ちになるけど」
友人だとは思ってる。理一は少し戸惑いつつそう答える。
大学に入って新しい環境に慣れたろうか。誰か親しい人間は出来たろうかと思っていた侘助は、帰ってきた家で相変わらず周りと馴染まなかった。
そして理一は自分を見ている侘助に安心したのだ。
それは、あまりほめれた感情ではないかもしれないが、理一にとっては、自分が侘助の中に存在しているかどうかは、重要な問題だ。
「侘助は、友達は出来たのか?」
恋人とか、なんて聞ければいいのだろうけれど、理一はそれを確認したくはない。
たとえそういう相手がいるとしても、知らなければいないものと思っていられる。それで自分は平静を手にしていられるのだ。
「別にいらねぇし」
友達作りに学校に通っているわけではない。それがいつの時代も侘助の言い分だ。
友達の少ない侘助は、教師や母に言われる度に、そう答え、彼らに困ったと笑みを浮かべさせたものだ。
「俺は、理一がいればいいんだ」
他に誰もいなくたって、理一さえ自分の側にいてくれるなら、他の誰が自分の側にいなくたって、それでいい。それは侘助の正直な気持ちだ。
「侘助?」
「あいつより、俺の方が好きだよな?」
否定するな。子供のような言葉で問いかけながら、侘助は必死だった。
今朝までいたあの理一の友人は、理一と同じ速度で歩き、同じタイミングで動き始める。
学校生活のせいだと彼らは言ったけれど、同じように日焼けして、似たような体つきの彼らを見ると、侘助の劣等感は酷く刺激される。
理一だって、自分に近い人間の方が、側にいて楽なのではないかと思えば尚更だ。
一方の理一は侘助の発言をどう受け止めるべきなのか迷って答え倦ねた。
どう考えても、子供の発言としか思えないのだが、その目は真剣でやけに思い詰めた感がある。
うっかり笑って過ごしてしまって良いものではないような気がするのは、理一にとって侘助以上がいないからだ。
出来ることなら、理一は侘助がこの先ずっと自分の側にいればいいと思う。
先日の友人の発言のせいで、理一はもしかしたらその望みが叶う可能性はゼロではないのかもしれないと期待を抱いてしまった。
それを、今ゼロにするのかどうか、そういう質問なのかもしれないと思えば、慎重になるほかない。
「好きだよ」
結局のところ、そう答える意外にはないのは明らかで、そこにどれだけの感情を乗せるのかが問題だったが、口から出た言葉は理一の予想を上回って、情けなく揺らいでいた。
「そ、か」
侘助は返った答えと、理一らしくない少し震えた声に驚き、すぐそこにある理一を見つめて固まるしかなかった。
本当に、彼は自分が望むような気持ちで、自分を好きだと言ってくれたのかもしれない。
そう期待したくなる程度には、理一は狼狽えているようで、答えた後も惑うように視線を下へ向けてさまよわせている。
「なぁ」
黙っている必要なんてあるんだろうか。侘助はそう考える。
自分は理一が好きで、品のない言い方ではあるが、理一とセックスがしたいのだ。何年も前から、開いた襟元から覗く首筋に噛みついてやりたくて仕方がなかった。
もし理一が自分を好きだというのが、自分と同じような欲を含んでいるとしたら、事態が侘助の思う通りになるには、理一の先手を取る以外に可能性があるだろうか。
相手は理一である。力で侘助が適うわけのない相手であり、侘助が手を上げたくない相手でもある。
「好きだ」
お前とセックスがしたいです。とは流石に言えない。まるでそれだけが目的のように思われては困るから。
その欲求はあるけれど、それよりも大切なのは、理一を誰にも奪い取られない事の方だ。
「侘助?」
こちらの意図を探るように見返してくる理一は、どこか頼りない表情を浮かべていて、理一がこんな顔をするのは初めて見るかもしれないと侘助は思う。
どんな時も理一は迷いを侘助に見せることはなかった。
大学を決めた時は勿論、それ以前でも、理一は決定を侘助に伝えるより前に、悩んでいる様など見せなかった。
だから、侘助は理一を超然とした人間だと思っていたところがあった。けれどそれは、侘助の劣等感故の見間違いだったのかもしれない。
「理一が好きなんだ。ずっと前から」
もしかしたら、理一だって怖くて言えなかったのかもしれない。そう思えば、怯んでいた気持ちは凪いでいく。ただ自分の気持ちを素直に伝えるだけでいいのだと思えた。
セックスがしたいとか、誰にも取られたくないとか、それは確かに侘助の中にある気持ちだけれど、それがどこから来るのかと言えば、理一が好きだという気持ちからだ。
「理一は?」
侘助の言葉を聞く理一の表情が嫌悪に歪むことはなく、むしろ安堵したような穏やかさを見せるのを見て取って、侘助は理一の返事を促した
「俺も」
そう小さく呟いてから、理一は笑みを浮かべる。
「侘助が好きだ」
これはこれで、覚悟が必要かもしれない。そう思いつつ、侘助も笑みが浮かぶのを堪えられるわけもなく、手を伸ばして理一の手を取り、そっとその指先にキスをし、その気障な行動にぽかんと口を開ける理一に笑いかけた。

 
 


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2010年3月21日発行「君の隣はおれのもの」再録
サマーウォーズにはまったのが、小説と漫画からで、映画の上映もすっかり終わっていたという状況で、プチオンリーを機に本を作りました。

(2012.7.22 再録)




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