「お世話になります。橘です」
そう言って頭を下げた人物に、陣内家当主は穏やかに笑みを浮かべた。
「ゆっくりしていくといいよ。何もないけれどね」
「俺は、こういうところ初めてなので、充分色々ありそうだと思います」
明るく笑う彼に、栄は驚いたように笑って見せた。
「確かに、そういう考え方もあるもんだね」
「何もない場所なんて、ないですよ」
そういう彼の表情は真っ直ぐ真剣で、理一は隣でそれを聞きながら、やはりこいつは自分とは違うものの見方をする人間なのだな、と実感した。





「お布団、理一が用意してあげるのよ」
夕食も終わりかけた頃、母がそう言って指示するのに頷いた理一は、隣の橘に目をやる。
「一人でいいよな?」
「せっかくだから、一緒に寝ようぜ。布団に入ってからおしゃべり、ってのがお泊りの醍醐味じゃねぇの?」
彼はまるでおしゃべりが大好きな少女のようなことを言って理一を見返し、その反論に理香は首を傾げる。
「でも、二人とも寝室は一緒なんでしょ?」
ならば、夜におしゃべりだってするものではないのかと理香が問えば、彼等は揃って首を横に振った。
「消灯も起床も時間が決まっているから、ベッドでおしゃべりなんて絶対出来ない」
「そもそも、寝室とかベッドとかって言葉で想像するような部屋でもないです」
彼らの暮らす学生寮は、各自の机や本棚のある自習室と、小さなロッカーと人一人ギリギリ分のベッドがある寝室とに分かれている。
どちらも8人部屋で、各学年2名ずつで構成された班で生活している。
ベッドは寝返りを打てば落ちるような大きさで、快適さの追求とは無縁の存在だ。
「そうなの?」
「初めて見た時は驚きましたよ」
「軍隊だな。って」
自衛隊は軍隊じゃありません、なんて言われるけれど、これはどう見たってそうだろう。
大体、私物を持ってはいけません。なんて管理のされ方をするところが、そうではないと言われたって、無理な話だ。とは新入生の誰もが一度は考える事だ。
「慣れますけどね」
起床のサイレンが鳴るまでベッドから出てはいけないけれど、鳴ったらすぐさま起きるとか、正直どうしてそんな決まりが…とは思ったものだ。
けれどよく考えてみれば答えは簡単で、規則と上下関係の中で生きていくこの先の自分の為と、自分より前からそこで生きている先達の為にも、一部の乱れもない活動を送れる人間を作る必要があるのだ。
軍隊ではないと言っても、彼等は武器を持ってそれを扱うことを許される人間になる。
それらが規則を守らなくても大丈夫なんて考えていれば、何が起きるかは想像するだけで恐ろしい。
そして多分、そこで起きる様々な事態に対し、上からの指示に忠実に従い、その世界を守ることが必要だということなのだろう。
「寮から学校まで整列行進とか、ホント驚きます」
二人の話に陣内家の人々は驚いて彼らを見返し、二人が同時に動き始める事の多い理由はそこにあるのかと納得する。
「これで私語まで制限されてたら俺は大学辞めましたね。絶対」
「それを聞いて安心したわ」
普段は喋るのね。と理香が笑い、侘助は橘のその人当たりの良さに、内心で深い溜息をついた。





「どうだった?」
問いかけると、橘はニヤリと笑って顔を寄せてくる。
「陣内家の権威、って感じだな」
普通の家にはあんなばあさんいねぇし。と笑う彼は、その権威に対して恐れ入った様子はない。
理一が彼をこの家に招いたのは、彼の目で見てこの家がどう映るのかが知りたかったからだ。
ずっとこの土地のこの家で、この家の価値観で生きてきた理一にとって、よその土地で育ち、別の価値観で生きてきた誰かがこの家をどう見るのかは、興味のあるところだった。
「お前ができあがった理由がわかる」
確かにこの家で育ったら、あんな大学でも平気でいられるって。と彼は笑う。
彼らの通う大学は、既に組織の一部といっても過言ではない。
その為に、厳しい上下関係が存在し、上の意見には逆らわないことを叩き込まれることになる。
入学直後の生徒達は、絶対の時間割と、その上下関係になかなか馴染めないものだ。
そんな中、理一はごく自然にそれに対応し、戸惑う様子も見せることがなかった。
近くで過ごすことでそれを見ていた橘が、その秘訣は何かと尋ねたのが、彼らの交友の始まりだった。
「特別威張ってる感じもないけど、自分に逆らう人間がいないことを知ってる人間っていうのかな。教官たちと似てるわ、確かに」
反発心を抱くようなこともないけれど、意識の底に必ずそれが存在していることを思い知らされるような存在だと、橘は思う。
「言いたいことが全部言える相手とは思えないね」
じいさんになら何でも言えそうだから、その辺はバランス取れてるけど。と付け加えられた言葉には、理一も同感だった。
多分、一般的な祖父母の立場はこの家とは逆なのだろう。
そう考えれば、理一は自分の家がそれ程よそと違うとは思わないのだが、この家にはそれ以上にこの土地がついてくる。
この土地のこの家の当主であること。それはそれだけで、まるで違う話になってしまう。
彼女には、本当に反対する人間がいないのだ。彼女は何も間違わないと、誰もが思っている。
そして、彼女もそうあろうとしている故に、その認識はそれ程間違ってはいない。ただそれが、理一には違和感として感じられることになってしまうのだ。
「お前がこの家で何か納得いかないことがあるとしてさ、それはどうにもならないことなんじゃねぇの?」
この家、そういう家なんだろ。そう言われて、理一は苦笑とともに頷いた。
「やっぱり、どうにもならないかな」
「あの人の意見に反するような事ならな」
諦めるか、出ていくしかないんじゃねぇの。そう言われる事に、理一は黙って頷いた。
実のところ、この家に対して違和感があると言うより、この家の在り方に違和感があるというのが正しいと思うのだ。
祖母の言うことが何より正しく、それに反論することは間違っていること。けれど、本当に祖母は間違わないのだろうか。
そう考えた時、理一はそれを肯定したくなかった。それでも、そうではないかと口にすることは躊躇われた。
「でも、話し合ってみたら、意外にいい答えが出ることもあるんじゃねぇの?」
話し合うこと。それは、理一も考えなかったわけではない。ただ、理一は昔から祖母には少し距離を置いていたため、どうにも思い切れなかった。
侘助だったなら、すぐに祖母に話しただろうにと思いながら、そもそも理一の違和感の理由が、母や祖母にこそ言えない事をきっかけにしているのだから、話せるわけもないのだが。
「話せる事なら、話してるよ」
そう返す理一に彼は苦笑して、ゴロリと転がって天井を見上げる。
「俺としては、悪くない家だと思うけど、外にいる人間と、中にいる人間じゃ、感じ方も違うだろうけどな」
そう言う彼も、何か悩み事でもあるのだろうと、理一はその普段にない静かな様子に想像する。
理一が母にも祖母にも言えないのは、自分が以前から抱えている感情についてだ。
それは多分、この家の跡継ぎになるかもしれない人間には認められないもののこと。理一が侘助に対して抱いているものだ。
それを恋心と認めるのは、理一にとってはなかなか難しいことだった。それは、この家で育った人間ならば、禁忌の感情だからだ。
男は女を愛し、守り生きるものである。子は親を尊敬し、その言葉に従うものである。
理一の感情は一つ目に反し、それ故に二つ目に違和感を抱く。
この家は、結婚相手に祖母の許可が必要だ。勿論、どの家だって親の許可を取るのは当然のことだと思われているのは知っている。
けれど、陣内家の場合には、少し事情が異なる。
その相手は、この家にふさわしい人間か。この一事が入ってくる。これが、理一には気に入らないのだ。
この家にどんな価値があるというのか、理一は時々それを考える。
確かに家の歴史は古い。この土地を守ってきた家だという事もある。けれど、それを理由に誰かを拒否する事が、本当に正しいことなのだろうか。
世の中には悪人がいる。それについて理一に異論はない。そんな事を言い出すほど、理一は自分の善性を信じてもいない。
けれど、ただ一度会っただけでその人の何がわかるというのだろうと理一は思うのだ。
勿論、十八年生きているだけの理一と、六十年近く生きている祖母とでは、人を見る目も違っているのだろうとは思う。
祖母は人を教えることを仕事にしてきた人だから、多くの人に会っているし、長くその成長を見てきてもいる。
どんな表情を見せ、何を語るかで、その人の性質を見極めることができるのかもしれない。
けれど、学生時代の恋人にまで、あれは良いのこれは良くないのと言うのは、どうなんだろうと思う。
そんな、人様のことをどうこう言えるほど、この家の人間は出来のいい人間なのかと、言いたくなるのだ。
理一は侘助が好きである。
恋心というものがどういうものなのか、正直わからなくはあるのだけれど、侘助が自分を見て自分の側にいてくれることが嬉しいという、ただそれだけの事で幸せになれる。
だから、そういう事なんではないかと思ったのが自覚のきっかけだ。中学生の頃だったと思う。
毎日自分を待っている侘助を、鬱陶しくないのかと聞かれた時に、むしろ嬉しいのだけれどと思ったのだ。
その自分を待っている侘助がほかの誰かと話をしていると少し苛立って、なんとなく寂しいような気になった。
二人で並んで帰る時、特別何を話すでもなかったけれど、隣にいるだけでもいいかなと思った。
侘助が何を思って自分の側にいてくれるのかはわからなかったが、昔から侘助はそういうところがあったから、まだその癖が抜けないのかもしれないと思っていた。
だから、高校生になった時、侘助が二人の部屋の間を仕切る襖を閉めると言い出した時は、自分の気持ちが知れてしまったからかと不安になった。
けれど、登下校はそれまで通り変わらず、侘助の部屋へ入ることも拒まれるわけではなかったから、なんとか安心はできたけれど。
それでも侘助の意図が分からなくて、戸惑いは続いたままだが、今は少しそれで良かったとも思っている。
流石に、侘助に見られたくないこともあるわけで、侘助の事情も同じようなものかも知れないとは思った。
ただ、侘助にも好きな誰かがいるのかも知れないと思うと、やはり少しばかり悲しくはなった。
そんな理一の好きな侘助は、この家ではまだしも、この一族、この土地では微妙な立場に置かれている。
侘助が祖父の妾の子だということは、誰もが知っている事実だけれど、それは侘助の罪ではない。
まして、その子が本家の一員として迎え入れられたことをとやかく言うのであれば、それを決断した祖母と妾に子供を産ませた祖父が責められるべき事で、侘助が何故責められなくてはいけないのかと、理一は常々思っていた。
だから、人のことなど言えた立場かと、思ってしまう。
理一は祖父が好きだ。祖母よりもずっと、祖父が好きだった。
けれど、侘助が周囲から冷たい視線を向けられているのを見ると、その祖父すら恨めしくなる。
その祖父が妾の元へ走った理由を考えれば、尚更にこの一族が恨めしくなるのだ。
そして自分も、それに連なる人間であり、いずれはそれを継いでいくのかと思うと、どうしても嫌な気持ちになってしまうのだった。
「あのお前の兄ちゃんさ」
考えに耽っていた理一は、話しかけられたことに驚いて彼の方へ向き直った。
「侘助?」
「そう。あいつさ、お前のこと好きなのな」
おかしそうにに笑う橘に、理一は首を傾げる。
確かに自分達は仲のいい兄弟だと思われているけれど、侘助が理一を好きだという表現は初めて聞いたような気がする。
「俺がずっと一緒だったからさ、俺のこと気に入らないみたいだから」
お前風呂入ってる時、話しかけたけど相手にしてもらえなかった。と彼は言う。
「そうなのか?」
「俺も兄貴いるけどさ、普通ああいう反応ってないんじゃねぇ?」
そうは言われても、理一と侘助は昔からそういう兄弟だった。
いつも側にいて一緒に過ごす事の方が多くて、勿論それぞれ興味のあることは違うから、一緒のことをするのは実は少なかったのだけれど、同じ部屋でまるで違う本を読んでいる事も、ごく普通のことだった。
「侘助は、いつもああいう感じだけど」
正直に答えれば、橘は驚いたように目を見開き、双子みたいなもんだからかな、と小さく呟く。
「そっか」
そうなのか。と考え込んでしまった橘を見ながら、理一は言われたことを考える。
相手が他の誰かといるのが気に入らないのは、理一も同じ事だ。ならば、侘助も自分と同じ気持ちでいるのだろうか。
それを期待したくはなるが、どうも分の悪い期待のような気もする。
ある日突然そういう態度になったのならばまだしも、侘助は昔からそうなのだ。特別理一のことを好いているとは考えない方がいいだろう。
それに、たとえば同じ気持ちだとして、何がどうなるわけでもない。
「なんか、子供みたいでおかしかったんだ」
俺も、ガキの頃は兄貴好きでよくついて回ってたし。と橘は笑い、理一はそれに頷いた。
この歳になれば、流石に兄弟のことが好きだなんて普通に言うことではないけれど、子供の頃に自分に一番近い憧れは、兄であることなんて、特別なものでもないのだから。
橘はそこで大きく欠伸をして、それにつられた理一も顔を合わせて笑ってしまう。
せっかくの機会なんだから、布団に入って喋るのも楽しかろうと言ったところで、三カ月で染み着いた習慣はまだ薄れることもなく、布団に入れば眠くなってしまう。
「おやすみ」
「おう」
同じ蚊帳の中で、隣の布団に誰かが寝ているなんて、何年ぶりのことだろう。少しくすぐったいような気持ちで、理一は目を閉じる。
もし、侘助が自分のことを好きでいてくれるとして、それを祖母に告げることはできないだろう。
侘助はこの家の人間だから、この家にふさわしくないと言われることはない。
けれど、その気持ちはこの家にふさわしくないと言われて仕方のないことだ。
理一はそれを理由にこの家を追い出されても構わない。けれど、侘助はそうは思わないだろう。
侘助の一番大事なものは、祖母のいるこの家だ。侘助が祖母を裏切るなんて、絶対にできるはずはないのを理一は知っている。
弟が兄に憧れるように、侘助のことが好きなのだったら、自分はもう少しこの家が好きだっただろうか。
そう思っても、やはりその憧れを拒否するだろうこの家を、好きにはならなかったろうなと理一は思った。

 
 


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