『ある探偵の憂鬱』 上映日記

                 2000年10月20日、金沢グランド劇場 

10月19日(木)

 シャワーを浴び、仕度を始めようとしているところだった。矢城監督から電話があり、所沢インターを降りた所だという、時計の針は5時を少し回っていた。私は少し慌てながら仕度を終え、監督の待つファミーリーレストラン(我家から徒歩1分)の駐車場にむかった。監督の車(この映画にも劇用車として登場)で、約450キロ、金沢に向けてのドライブがスタートした。

 今回の金沢での上映は音楽を担当してくれた小幡氏の尽力によるものだった。小幡氏とは私が19歳の時に出会い、鬼太鼓座のヨーロッパ公演で約1ヶ月近く生活をともにした。この1ヶ月、半分は仕事、半分は居候、というか放浪というか、この後者の2週間が今でもお付き合いをさせていただいてるほどの濃い時間だった。(このヨーロッパでの模様は帰国する機内で書き上げた「英二のヨーロッパ紀行」を参照)そして今回の上映の特徴はこれまでのトークショーのほか、上映前にこの映画のサントラも含めた小幡氏のライブがある。これは私も監督も楽しみにしていた。監督は小幡氏の生演奏を聴くのは初めて。

 さて、途中監督と運転を交代し、11:00には金沢グランド劇場・支配人清水さんと共に生番組出演のためエフエム石川入り。しばらくして小幡氏も到着、軽い打合せ。知的な感じの女性パーソナリティ、藤田さんのトークは上手く我々も盛り上がった(この藤田さん、DJデビューはエフエム長崎。といえば、先日の長崎公開では全面バックアップ、その中心だった清島さんとも知りあいだと言う事で盛り上がった、私も長崎出身だし)、主役のキャスティングについて聞かれた監督は「顔で選びました…」(藤田さん笑)しばし私の顔の話しになり、私も不敵な笑い声を発し、明日の宣伝をして私たちの出演終了。

 昼食後には2つの新聞社をまわった、まず北陸中日新聞。担当の方が出迎えてくれ、エレベーターで上がったフロア-では全員が立って挨拶してくれ、更に通された応接室での取材では重役クラスの年配の方が二人、カメラマンがひとり。後方には5,6人が直立している。この対応には恐縮(まさに恐れ、縮んだ)し、インタビューというより面接に近いその雰囲気に、我々は先程のエフエムとはうってかわって固い固いトークとなった。私も「オオシロさん」と呼ばれたのだがあえて訂正できぬ雰囲気で…(途中、気づき訂正してくれた)終了後、社の喫茶室でコーヒーを飲んでいると先程の応接室で後方に直立していた女性が現れた。彼女は「さっきのラジオ、聞きました」と開口一番。「大城さんの顔がどんなのかすごく興味を持ちました」その先の感想を聞きたかった私だったが、ラジオというのは当然の事ながら声だけである、聞く人の想像力を掻き立てる、その意味で先程のFM生番組はいいパフォーマンスだったと改めて思った。明日の上映にひとりでも多くの人が来てくれるといいのだが…この後もう一つの北國新聞社にて同様の取材があり(こちらは通常の記者ひとり、カメラマンひとりの構成)、取材後カメラマンの方に「おおきさんは普段の役柄はハードなものが多いけど気さくな方なんですね」嬉しい一言を頂いた。

 この後、テレビ金沢の生番組に出演した。これは地元の情報番組で監督も私もどんな形での出演になるのか楽しみにしていた…4:30の局入りで打合せの最中にその全貌が明らかになり(そこまで大袈裟に言う事のないが)さすがの私も少し怯んだ。監督、小幡氏、私の3人が出て監督がポスターを小幡氏が今日のチラシの拡大コピーを持ち、私が宣伝する、日本テレビで昔やっていた熱湯コマーシャルを思い出した。持ち時間は1分30秒、私はテレビ生本番といのは初体験である、ドラマの場合はナマというのはありえない。(昔はあったらしい)徐々に緊張感が高まり、自分の中で喋る言葉を繰り返す。初めの1分は司会の方が我々を紹介して、後の30秒で映画の宣伝をするというものだったが、本番が始まると舞い上がり結局、映画のタイトル『ある探偵の憂鬱』という言葉は2度ほどしか言わず、後はひたすら「よろしく、よろしく」繰り返して終わってしまった。いい経験になったと終わって3人で大笑いした。劇場に戻ると支配人の清水さんが怒っている、あんな素人みたいな形での出演に「局の上の人間に厳しく抗議した、それにしても失礼な対応だ」と。今日の取材、番組出演は全てこの清水さんが段取りして下さり、地元ではこの業界の中心的存在の方。このあと場所を移しての明日の打ち合わせを兼ねた宴席でも、先程のテレビのことで私たちに頭を下げてくださり、こちらも恐縮。この後アルコールも進み映画の話で盛り上がる。当然ながらこの清水さんも映画に対する愛情をたくさん持っていらっしゃる方だった。盛岡、長崎と続いた地方での上映、今回も素敵な映画人に出会えた事が嬉しかった。しばらくすると明日のイベントの司会を担当する佐藤卓路氏が合流。この方の第一印象はラテン系、(ご本人からの申し出により以下は卓さんと呼ばせていただく)といってもスペイン、イタリアンではなく南米のインディオという感じである。したたかに酔い、卓さんと監督、私の3人は次の店に繰り出した。(小幡氏は帰宅)数人のお客さん、店のママにも強引に明日の観劇を約束させた私はこの時かなり酔っていた。例によってところどころ記憶喪失になりながらホテルに辿りつき休んだ。

 

10月20日(金)

 昨日の朝が早かった事、飲みすぎた事で2日酔いである。たしか最後の店で誰かと蕎麦を食べに行く約束をしたような、しなかったような…卓さんが温泉に連れて行ってくれるとも言ってたような、言ってなかったような…結局、監督、卓さんと温泉を選択、ひとっ風呂浴びて昼食(美味い蕎麦屋だった、ちょっとだけ日本酒もいただいた)を取り、ホテルに帰って昼寝した。

 夕方起きて6時には劇場に入った。すでに小幡氏がライブのリハーサルを始めている。卓さんはビールを飲んでおり、私もいただいた。劇場の中からは独特の小幡「音」が流れてくる。しばし小幡氏のリハーサルを見ていた。

 正式に小幡氏この映画の音楽を依頼したのは何年前になるのか思い起こしてみた。電話でのやり取りだったが、その時小幡氏の言葉が印象的だった。今では同じチームで活躍する巨人の桑田と清原に我々2人の事をダブらせて…10数年前、苦楽(小幡氏は苦ばかり?)を共にした2人が、音楽と映画、違う世界で生き残り、再び一つの事で仕事が出来た。桑田、清原ほど有名でもなければ金も稼いでないけど、気持だけは我々も負けていない。その電話の時、またしても私の涙腺は緩んだ。

 小幡音が止んだ、そろそろ開場である。劇場事務所で開演の時間を待つ。司会の卓さんの前説で19:05、ライブが始まった、小幡氏の音を言葉で表現するのは難しい。私は目を閉じ、頭のギアをニュートラルにして聴いていた。最後の曲の演奏が終わった、聞き覚えのあるそれは「ある探偵…」のオープニングの曲だった。我々の舞台挨拶に続き、映画の上映。数ヶ月振りに私も鑑賞した。終映の10分前には外に出てトークショーのスタンバイ。音楽が聞こえてくる、今では音楽を聴くだけでどのシーンかわかるようになってきた。

                  

                     左から卓さん、監督、私、小幡氏

 さて、映画の話は後回しに、私と小幡氏の関係からトークがスタートした。卓さんの呼びかけで残ってくださった半分近くのお客さんが前の方に移動してきてくれた。小幡氏にかかると私は小僧扱いである、ある事ある事、暴露され?笑いが起こった。仕方ない、ヨーロッパでは小幡氏なくしては、私は鬼太鼓座をぬけることは出来なかったし、イタリアでのラブロマンスもなかった。第一、私は飛び出した時の所持金、三万円ほど。小幡氏がいなければ、あのまま4ヶ月ちかいツアーを終え、帰国していただろうし、その後は鬼太鼓座で太鼓を叩いていたかもしれない、現在の私があったかどうか?トークは進み、だんだん話は逸れ、支配人清水さんから、終われの合図で無事終了。ライブの機材を搬出し、いざ打ち上げ会場に。金沢の有名な近江町市場内にある、ライブハウスに到着。しかしまだライブが終わっておらず、仕方なく市場の通路に縁台を出して酒盛りが始まる。これが不幸中の幸いか、なかなか趣があって、いとをかし、であった。最終的には中に入らせていただいたが、多くの方からいろんな感想をいただき、あらためて「ある探偵の憂鬱」に感謝である。卓さんもやはりビデオよりスクリーンが圧倒的に迫力があっていい、といい次回の矢城作品には自分も出して欲しいとしきりに監督にアピールしていた。この卓さんのギターライブも楽しかった。2時近くお開きとなり、私と監督はホテルに戻った。

 

 予定していた国内最後の上映は終わった。あとは私か監督が売れて都内での再上映、がいつになるやら…?これから色々な国内の映画賞が決まってくる。どこかの新人監督賞に決まるといいなぁという希望を抱いて、私もまた映画の世界で頑張って行きたい。東京での舞台挨拶で言った事だが、生涯1度きりの初主演がこの「ある探偵の憂鬱」であっことを誇りに思うと共に、スタッフ、キャストの皆さんに心から感謝したい。

 そして矢城監督、ここまで深くかかわらせていただいた監督は勿論初めてだし、日本の監督さんの中で大城英司を一番よく知ってる方であろう(何しろ、監督の自宅の電話番号は指が覚えている)。そして私をキャスティングしていただいたことに感謝し、逆風に立ち向かい、着実に前進してこの映画を完成させたことに心から敬意を表したい。そして次回作を(出演もしたいが)楽しみにしている。