雨の降る街

 もう、雨はどのくらい続いているのだろうか。
 男は空を見上げた。
 空は見渡す限り一面灰色で覆われ、黒みがかった雨がこぼれ落ち続けている。
 男は記憶を探った。記憶に無い。ある訳無い。
 なにせ男が生まれた時から雨は常に降り続けているのだ。
 ここに住む者でそれについて疑問を抱く者などいやしない。
 常識を疑う者は非常識なのだ。
 そんなものだから、男はいつも変わり者呼ばわりされる。
 おかしなもので、男もそれを受け入れる。
 ここの住人にとって、空は灰色である。もし、それが破られる事があるのなら、それは世界が終わる事と同意義であろう。
 しかし、男は考える。この雲の上には何があるのだろうと。勿論、それを人に話すと人々は眉をひそめるのは分かっているものだから、口に出すことはもう止めた。
 何時ぞやなど、それで随分酷い目にあったりなぞしたものだ。
 だから男はただ悶々と暮らす毎日を送っていた。
 そんなある日の事、男は一つの転機を迎えた。
 見知らぬ人が男の家に訪ねて来たのだ。
 見知らぬ人は男に囁く。
「街の外に出てみないか?」
男はすぐさまそれに大きく頷いた。
 この際、これが何者であるかはほんに些細な事だ。それよりも、この当たり前の街の外の当たり前が見たくて仕方が無い。そんな衝動が抑える事ができない。
 男は早速いそいそと身支度をして、家を出る。丁度その時、街の住人が男を見掛けた。住人は男にどこに行くのかと尋ねる。
 男はたまらないといった表情で、街の外に行くのだと話した。
 すると、住人は素晴らしく驚く。少なくとも住人の記憶にある限り、ここ百年でこの街から出た人も入った人もいないはずだ。お前はどんな大変な事をしでかそうとしているか!?と捲し立てる。
 男は無論,そんな事は承知だと言い、街外れに人を待たしているからとさっさと行ってしまった。
 住人はそれを茫然と見送り、ふと我に帰った瞬間、街中にその事を喧伝した。それは、男を何としてでも引き止めねばならないという、強い街の意思でもあった。
 常識を覆されてはならない。もし、男が外に行ってしまったらそれは、決して動くはずの無かったものが目覚めてしまう。そんな強迫観念が街中を覆った。だから、人々は必死になって男を捜す。
 間も無く、男は街外れに向かう寂びれた一本道の途中であっさりと見つかり、住民に捕獲された。
 男はまさか、住人達がそんなにも必死なって阻止しようとは思わなかったものだから、住民達の怒声や表情にすっかり怯えて、思わず止まってしまったのだ。男はなぜ?と叫ぶが住民達はそんな事はおかまいなしに、男を簀巻きにする。そして、担ぎ上げられた男は街の中央にある広場に運ばれた。
 広場では男が到着すると同時に、住民達が物凄い声を上げる。
 男は最早何が起こり、過ぎていくかすら分からず、ただただ震えあがるだけで精一杯だった。
 住民達は一斉に男に襲いかかる。
 男はあっという間に、凄まじい黒山に埋まる。
 幾許か時が過ぎ、黒山はじわじわと標高を下げた。そして、黒山がすっかり無くなった時、そこには雨と赤い液体でぐしょぐしょになった物体が横たわっていた。
 物体は搾り出すような声を吐いた。どうしてこんな事になってしまったのだろうか。なぜ住人は酷い事をするのだろうか。
 住人達はそれに答えるでも無く、物体を見下ろす。その目はまさに失敗した焼物を見る陶芸家のようである。
 物体は住民達が見下ろす中、よろよろと立ち上がりふらふらと自分の家に帰っていった。
 それを見届けた住人達は、何事も無かったかのように各々の場所へと去って行った。
 そして、赤い液体だけが広場に残され、それすら、立ち止まる事の無い雨によって流れ去った。
 全ての「こと」が終わった時、ひょいと見知らぬ人が現れた。
 見知らぬ人は今や痕跡の無いその場所を見つめる。
 今は面影の無いその場所を2・3秒程眺め、その視線をすぐさま男の家の方へ向ける。そのまま視線を動かさず、見知らぬ人は男の家へと歩き出した。
 雨はまるで、それを拒むかの様にその強さを増すが見知らぬ人はまるでそれを介さない。
 ほんの数分で男の家に着いた見知らぬ人は、窓から中の様子をひょいと覗く。なかでは男がうんうんと唸って倒れこんでいた。
 見知らぬ人は男の苦しみを知ってか知らぬか、気軽に家の中に入り込んだ。
 そのまま、
「どうだ?」
と男に尋ねる。
 男は勿論それどころではないし、第一何がどうだなのかがさっぱり分からないものだから、ただうんうんと唸っているばかりである。
 見知らぬ人は男が反応しないのを確かめるとそのまま、外に出た。
 見知らぬ人は男の家の前で暫くきょろきょろと辺りを見渡した後、そのままどこかへと出掛けてしまった。
 そして、見知らぬ人はそのまま帰って来ることは無かった。
 それから。
 時がたった。
 男は大変な傷もようやく癒える頃、ある支度をしていた。
 旅の準備である。
 無論、今度は住民達に知られぬ様に密かに事を進める。男は最早ある確信を持っていた。
 この街はどこかおかしい。
 どんなに常識が正しいかはあれから住民達にとくとくと教えられた。しかし、教えられれば教えられる程、男はわからなくなるのだ。なぜなら、住民達の言う事の行き着く先は、「前例が無い」「この街がまず正しい」の二つなのだ。
 この街で生き続けた男にとって、どこが等と具体的に持てる反論など浮かび様も無いが、ただ体と心のどこかで、何かが違うと声が聞こえる。何かに騙されているのでは考えてしまう。
 何に。
 男はその答えは街では見つける事など出来ないのでは無いだろうかと考える。
 決して止む事の無い雨は、そんな考えを続けさせてくれない。常に思考の邪魔をする。
 男は、住民達に見つからぬ様に夜もとっぷりと寝付いた頃に家を出た。
 ある程度予想はしていたが、町の外れに近づいた時、雨の音に混じって遥か後方でものすごい声が聞こえた。
 男はそれを振り払う様に走り出す。
 間も無く街を出ることができる。そんな場所に来た時、ふと前方に人影の姿を発見した。
 その人影は何時ぞや見た見知らぬ人であった。
 見知らぬ人は、
「来たな」
と言いながらぐいと男の手を引っ張った。
 男はあまりにも物凄い力に思わず気を失った。再び目を開けた時。
 そこは。
 見知らぬ場所だった。
 男は辺りを見渡す。そして絶句する。そこは何処かの山の頂上で、遥か下に雲の塊が見える。
 そう、男は雨の上にいるのだ。
 男は見知らぬ人にどうなってしまったのかと尋ねた。見知らぬ人は、それに対して答えず、むしろ、
「甘露の雨はどうだった?」
等と聞いてきた。
 男は見知らぬ人が何を言いたいのかよくわからなかったが、ただあの街がやはり変であるという事は急速に理解した。
 見知らぬ人は何事も無かったかの様に突然歩き出した。男はそれについて行く。
 男は何処に行くのかはわからないが、ただ、この人は全てを知っているのだろうと漠然と考えた。
 見知らぬ人は何でも作ってみればいいってものでは無いとふと考えたが、口には出さない。
 二人はそのまま歩いて行った。






                                   −終−

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