夢の跡



「ハインリヒ、お買い物に付き合ってもらってもいい?」
 イワンを脇に置いて、居間でぼんやりと新聞を読んでいたハインリヒは、躊躇いがちに声を掛けて来たフランソワーズに首を傾げた。
「構わないが、ジョーと出かけるんじゃなかったのか?」
 朝食の席で、そんな話をしていたはずだと思い、ハインリヒはそう問い掛けた。
「それが、ジェットに引っ張っていかれちゃったの。一人で行くには荷物が多くなると思うから、手を借りたいのだけれど。」
 にこりと笑ってフランソワーズはそう答えた。
 確かに、現在この家にいる人数を考えると、フランソワーズ一人で買い物に行かせるのは、無謀だろうし、失礼な話に違いないと思い、ハインリヒはソファを立ち上がった。
「荷物持ちくらい、幾らでもするよ。」
「言質を取ったわよ。」
 楽しそうに笑うフランソワーズを見て、決して買い物に付き合わせなかった人を思い出し、ハインリヒは苦笑を浮かべた。
「随分、強かになったもんだな。」
「あなたに遠慮なんてしても、意味なんてないでしょう。」
 遠慮のない言い分は、冗談まじりの口調で応酬されて、それを聞いていた狸寝入り中のイワンは、彼等が何処まで本気なのか探ってみようかという衝動に駆られて、必死でそれを振り払った。彼等の場合、限り無く本気である可能性も拭いきれないと、経験上、イワンはよく知っていた。







 あらかたの買い物を終え、どうせだから、お茶でも飲んで帰りましょうと言うフランソワーズの提案に同意して、二人は適度に人の入った、何処かひっそりとした雰囲気を持つ店へ足を踏み入れた。
「こんなお店があるなんて、これまで気付かなかったわ。」
 いつもはもっと簡単に、表通りの人で賑わう店へ入っていたのだが、ハインリヒがふと目をそらした先にあったこの店に気付き、その視線の先を追ったフランソワーズは、自然、その店へ足を向けていた。
「ジョーと二人なら、どんな店だって同じだろう。」
 笑いながらハインリヒはそう言い、フランソワーズは首を横に振った。
「そんな事ないわ。素敵なお店なら、尚更楽しくなるじゃない。……あ、だからって、ハインリヒとじゃ、こんなお店でないと楽しくないってわけじゃないわよ。」
 フォローのつもりが墓穴を掘った事に気付いているのかいないのか、フランソワーズは慌てたように言い募り、ハインリヒは苦笑と共に頷く以外に、返す言葉を持たなかった。
「あ、あの写真、お店の方のものかしら。」
 壁に掛けられている写真に目を止めて、フランソワーズがそう呟いたのを聞き、ハインリヒはそれに目をやった。
 綺麗なバレエの白い衣装を着て踊る少女の姿は、自分もバレエを習っていたというフランソワーズにとってみれば、目を引いて当然のものだったかもしれない。
「ハインリヒは、子供の頃、何か習い事をしていた?」
「……習い事。って言う程じゃなかったけれど、少しの間だけ、ピアノは習ってたよ。」
 それは、本当に短い間で、そして、平穏の象徴のような時間だったと、ハインリヒはその時を思い出すとそう感じる。その頃、既にドイツは戦争を行う準備を始めていたのだけれど、ハインリヒの記憶の中で、最も穏やかだった時期といえば、それは戦争が始まる前の、幼い頃に他ならなかった。
「少しだけ?」
「教えていてくれた人が、戦争が始まるらしいって、ドイツを出て行ってしまってね。」
 苦笑を浮かべてそう答えたハインリヒに、フランソワーズは少し悲しそうな表情を浮かべて頷いた。彼女にとって、戦争はあまり現実感を持たない。兄は空軍兵だったが、大戦中はまだ子供だ。両親が戦争を語ってくれたとしても、フランソワーズにはよくわからない事だった。
 だから、戦争というものをフランソワーズが深く考えるようになったのは、サイボーグとして改造された後の事だったのだが、ハインリヒにとって戦争は、ごく身近で現実感を伴うものなのだと、今になってやっと気付いたのだ。
「そうだったの……」
「俺はガキだったから、そんな事には気付いちゃいなかったけどな。」
 彼が国を出て行った後も、父が兵士として家を出て行く迄は、自分の国が戦争をしているなんて、現実感がなかったのだ。それを、戦争が始まる前に感じろなんて、無理な話だったに違いない。







 隣のウォーヌングの住人の中に、有名な音楽家がいるのだという話を聞いて来たのは、彼の母親だった。それを聞いた次の日、そこに住む学校の友達にそれを確認すると、彼はすぐに頷いて、自分はその家を訪れた事があるのだと教えてくれた。
 その家には、音楽家だという男が一人と、彼の妻、それから、彼の弟子だという青年の、計三人が住んでいるのだと彼は語った。
「この間遊びに行ったら、凄く美味しいお菓子を出してくれたよ。アルベルトも行ってみる?」
 音楽家というものにも興味はあったけれど、美味しいお菓子にはもっと興味があった。別に、祖母の用意してくれるお菓子がまずいわけじゃないし、お菓子がとても好きだと言うわけでもないのだけれど、普段お目にかからないものに興味を持つのは当然の事だ。
「行く。」
「じゃぁ、今日、明日遊びにいっても良いか聞いてくるよ。良いって言われたら、明日行こう。」
「うん。じゃぁね。」
 玄関の前で手を振って別れ、隣の自分の家のあるウォーヌングの玄関をくぐると、柔らかい絨毯の敷かれた玄関ホールで、隣の部屋の住人である、シルバーマン兄妹の妹である少女が、困った顔で何かを探していた。
「エーファ、どうしたの?」
 自分より小さな少女の困り事を放って通り過ぎられる程、彼は冷たい人間ではなかった。それに、隣家の住人と言っても、少女は彼にとっても妹のようなものだ。手を差し伸べるのは当然の事だった。
「階段から、ガラス玉を落としちゃったの。上から探して来たけど、見つからないの。」
 その返事を聞いて、アルベルトは辺りに目をやり、件のガラス玉を探した。
「大事なの?」
「シュネーのリボンに付けようと思ってたの。」
 シュネーは、彼女の大事なテディベアの名前だ。薄い毛色のテディベアは、陽の光の下に置くと白く見えることから、その名前を貰ったのだと、彼女の兄が言っていた。
「お兄ちゃんが、買ってくれたの。」
 それは、大事なものに違いない。そう理解して、アルベルトはホールの端まで足を運んで絨毯の長い毛足の間にそれが落ちていないか目をこらし、壁際に小さなガラス玉を見つけた。
「あったよ。」
 それを拾い上げてそう言えば、エーファはアルベルトに駆け寄り、それを受け取った。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
 大事なものがちゃんと見つかったのは良い事だし、ガラスが割れてしまわなかったのも良かったと、アルベルトは安心した。
「アルベルト、今、帰って来たところ?」
「うん。」
「お兄ちゃん、見た?」
「見なかったけど、もうすぐ帰ってくるんじゃないかな。」
 そう答えてアルベルトが階段に足を向けると、エーファもそれに続いて階段へ足を向けた。
「今日はね、私もお手伝いしたの。アルベルトも、おやつ食べに来る?」
「いいの?」
「いいよ。きっと、お母さん、アルベルトのお家にも持って行くから。」
「……じゃぁ、後から行くね。」
 階段を4階まで上がって、手前の部屋のドアを開けた少女に手を振って、アルベルトはその隣の部屋のドアを開けた。<







「来てもいいって言ってくれたよ。」
 次の日の朝、いつものように玄関の前で挨拶をしたスヴェンは、昨日の首尾を笑ってアルベルトに教えた。
「その人、有名な人なのに、ここに住んでるの?」
 同じ形の建物が建ち並ぶベルリンの街の中にも、一応、住人の生活の格の違いと言うのが現われている区画がある。因みに、アルベルト達の住む辺りには、金持ちは暮らしていない。そういう人々は、それなりに固まって暮らすものだと、アルベルトは信じていた。
「最近、引っ越して来た人だから、とりあえず住んでるだけじゃないのかな。」
 並んで歩きながら、スヴェンは自分の想像を披露し、アルベルトは黙ってそれに頷いた。
「だって、音楽家って言うけど、家にピアノだってないんだよ。」
「それじゃ、また引っ越すのかもね。」
 音楽をやる人が楽器を持っていないなんて話は、アルベルトにはとても信じられる事ではなかった。ならば、今の家は仮住まいだと言われた方が、納得するのは簡単だった。
「あ…でも、下の部屋も借りてるって言ってたから、そっちにあるのかな……」
 スヴェンはふと気付いたようにそう言い、今日遊びに行ったら、聞いてみようと笑った。







「また、隣へ行くのかい?」
 祖母の問いにアルベルトが頷くと、彼女は小さくため息をついて、彼の手を取った。
「こんな子供のうちからピアノなんて習ったら、指を悪くするよ。もっと後にしたらどうなの?」
「でも、楽しいんだ。ちょっとしか触ってないから、きっと大丈夫だよ。」
 祖母の言い分もこれと言った根拠もなかったが、アルベルトの反論にはもっと根拠はなかった。それでも、そう答えれば祖母は頷いて彼の背中を押し、遅くならないうちに帰りなさいと言って送りだしてくれていた。
 それが途切れる事になったのは、そこへ通い始めて一年経つ頃の事だった。
「ドイツが、戦争を始めるようだと聞かされてね、スイスへ行く事に決めたんだ。もし、君の家族もそれを望むなら、その手伝いをすると、お家の方に聞いてご覧。」
 ある日、彼はそう言ってアルベルトとスヴェンを送り出した。その時は、彼が何を話しているのかあまりよく理解していなかったアルベルトだったが、家に帰ってその話を祖母にすると、彼女は酷く驚いたように声をあげ、その夜帰って来た両親にそれを聞かせた。
「俺は、ドイツが戦争をすると言うのなら、尚更どこへも行かない。今度こそ、兵士としてドイツの為に戦う。」
 先の戦争で、兵士になる為に志願をしたものの、人員が足りていると言う理由でそれを許されなかった父は、頑としてその意見を譲らず、先の戦争で苦しい思いをした祖母は、なんとかその意志を曲げようとしたが、それも適わず、彼の家族はベルリンに留まる事となった。
 スヴェンの家族も同様の理由で同じ選択をし、結局彼の好意は受け入れられなかった。だが、彼等の何が気に入ったのか、その後、ドイツが戦争を始めた後も時折、彼等の元に小包などが届けられる事があり、彼等はベルリン空襲が始まった頃には、それに依って随分助けられる事となった。
 その届けられた小包を見る度に、まだ穏やかだったベルリンの街を思い出して、彼等はピアノの音や指の動かし方を思い出しもしたが、その頃には、彼等はピアノや音楽などとは縁遠い生活を送る事になっていた。
 彼等は、ピアノの楽譜を読むよりも、地図を読む方法や、武器の扱い方を覚えねばならなかったのだ。いずれ、戦場に立つ為に。




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