夢の跡



 ノックを繰り返しても返事のない事を理由に、そっとそのドアを開けて中を覗いたジェットは、床に倒れている彼を見て、慌てて部屋の中へ飛び込んだ。
「ハインリヒ!?」
 倒れている彼の脇に膝をつき、彼が眠っているだけだと確認すると、深く息が漏れた。
 ハインリヒが日本へ来てから、今日で一カ月程になる。調子が悪いからと理由を挙げていたわりに、彼の様子は特に変わったところもなく、安心していたのだが、目に見えて様子がおかしくなってきたのは、ここ2週間程の事だ。
 気付くと、彼は眠っている。庭の木陰、居間、テラスと、その場所は様々だったが、とにかく姿が見えないと思って彼を探せば、必ずどこかで眠っているのだ。
 最初は、日本へ来て仕事もせずにいるから、のんびりしているだけだと笑っていたのだが、その睡眠時間が日に日に長くなっていると思えば、さすがにおかしいと思わずにはいられなかった。そこで、ギルモア博士を問い詰めたところ、彼の体は、それ程長くはもたないだろうと、答えが返った。そして、彼自身も、それを理解しているのだと。
 それを聞いた時、俄にはそれを信じる事ができなかった。サイボーグにされた体は、半永久的に生きていくものだと信じていたからだ。その上、彼の体が殆ど機械でできている事は誰もが知るところで、何の根拠もなかったけれど、彼が最も長く生きるであろうと、信じていたのだ。
「…………俺も死ぬんだって、言われてもさ……」
 冷凍睡眠を体験したのも彼と同じで、サイボーグ化されたのは、彼よりも少し早い。技術が未熟な中で改造された者として、引き起こされる最終的な結果は、彼とさほど変わらないかもしれないと想像する事はできた。
 ただ、再改造をできる限り避けてきた彼とは違い、ジェットはブラックゴーストで生きていた時も、逃げ出した後も、幾らかの改造を受けている。その部分では、これほど早い衰えはないのだとも言われた。
 それでも、彼が自分より先に死ぬかもしれないなんて事は考慮の外の事で、戦いの中で彼が死ぬ事があるかもしれないとは思ったけれど、それ以外で、彼が死ぬなんてあり得ないと思っていた。彼に置いていかれる事よりも、彼を置いていく事の方が可能性は高いと思っていたのだ。
 床に倒れ込んでいる体を抱き上げて、ベッドにそっと下ろして部屋を出ようとして、ジェットは窓際の机に、ノートが開いてあるのに気付いた。
 悪いとは思ったが、何が書いてあるのかが気になってそこへ近寄り、それを手に取ると、彼の書く几帳面な文字で、日付けと時間が書き綴られていた。
「…寝てた時間か?」
 パラパラとノートの先の方へ遡ると、日本へ来ると連絡があった頃の日付けから記録は始まっていて、書込まれている時間は、確実に長くなってきていた。
 記録を取ろうとするのは彼らしい行動だとは思うが、そうして確実に自分の体が不調を訴えているのだと、記録として確認すると言うのは、どんな気分なのだろうかと、どうにもやりきれない気分になる。
「………本当に、あんた、いなくなるのか……」
 肉がないから、朽ち果てない。たとえ彼が死んでしまったとしても、彼の器は何の変化も起こさない。ただ、動かなくなるだけ。眠っている彼は息をしている。その動きが無くなるだけだ。それを見て、自分は彼の死を納得できるのだろうかと、不思議に思う。
「俺たち、死ぬのか………」
 そんな事、これまで考えた事もなかった。







 目を開けて、彼はそこに見えるのが床に敷かれた絨毯ではない事に気付いて、息をついた。
 ベッドまで這って行けた記憶がない事を考えると、誰かが床で眠っている自分を見つけて、ベッドへあげてくれたという事だ。という事は、多分、その理由も彼等に知れてしまった可能性が高い。
「……やばいよな……」
 彼等には何も言うなと言ったけれど、ギルモアが問詰められて答えてしまわない可能性は低いだろうと、ハインリヒは思っていた。
 ギルモアは、サイボーグである自分達に引け目がある。ハインリヒはそう思っていたし、事実、そうであろう。改造を行った人間として、その結果起きるであろう事を伝えなくてはならないと、どこかで考えているのかもしれない。ハインリヒの誰にも言うなという意志よりも、それを知りたいと願う彼等の意志に折れるだろう。そんな事を知らされて、彼等が何を思い、何を悩むのか、彼は考えないのだろうか。
 この先、自分が突然眠り込む度に、倒れている姿を見る度に、彼等はその命の期限が何時になるのか思い悩むのだ。そして、自分にもそれが訪れる日が来る事を考えるだろう。それは嫌で、日本へ来るのは止めようかと思ってもいたのだけれど、来てしまったからには、自分にも責任はあるのは確かだ。人は一人で死ぬのだと教えられてきのだから、ドイツで独り死んでいけばよかったのだろうに。それでも、どうしてもギルモアを恨めしく思ってしまうのは、自分が歪んでいるのに違いない。
『誰も彼も、責めるのもどうかと思うけどね…』
「イワンか。」
 窓の外は既に深夜の暗闇だが、眠りにつかない赤ん坊は、ここで真夜中に目覚めるハインリヒには丁度良い話し相手だった。
『ジェットの剣幕は、僕ですら折れそうになったんだよ。』
「そうか…」
 あの真直ぐに自分の意志を突き付ける彼に、真正面から切り込まれてはぐらかせる人間は、多分それ程多くはない。それを知っているから、そう言われてしまうと、ギルモアを責め立てるわけにもいかないかとも思う。
「……そろそろ、なんだろうな…」
 最近、陽の上がっている間に起きた記憶があまりない。と言うよりも、起きている記憶が殆どないというのが正しいだろう。
『当事者が落ち着いているのは有り難いけど、周りの動揺を考えると、この事態は有り難くはないね…』
 体を起こしてベッドを降りると、テラスへ足を進める。
「少し、気分がいい。」
 何故だか、驚く程、穏やかな気持ちだ。こんな気分で眠りにつけるのならば、明日の朝が来なくても良いかと思う。
『そういう事を言うのは、やめてくれないかい。』
「人の気分に水を差すなよ。」
 笑って答えた時、隣の部屋の窓が開いた。
「おはよう。」
 自分はこれから寝るような姿でそう言った姿を見て、ハインリヒは思わず笑みを浮かべた。
「おはよう。ジェット。」
「あんた、寝過ぎ。ちっとも話ができないじゃないか。」
 少し怒ったような顔でそう言って、彼はテラスに置かれたテーブルセットへ手招く。
「イワン、茶の用意。」
『自分でしなよ。』
「してる間に、また寝られたら困るだろう。」
 その主張に返る言葉はなく、ハインリヒは苦笑を浮かべて椅子に腰を下ろした。
「お前が、ベッドにあげてくれたのか?」
「びっくりしたぜ。飯に呼びに行けば、床で転がってるんだからさ。」
 笑ってそう言いながら、どこか不安定な表情を浮かべる彼を見て、何と言ってやるべきかと考え、それでもうまい答えは見つからなかった。
「重かっただろう?悪かったな。」
「ベッドにあげるくらい何でもねぇよ。抱えて飛んでんじゃねぇの。」
 それは確かに、その通りだ。ジェロニモには劣るが、サイボーグとして強化されているのだから、それほど苦にもならないだろう。実際、ハインリヒだって、ジェットと張々湖の二人を抱えるくらいは可能だ。
「腹の爆弾の分、軽くなってるし。」
 ああ、そちらへ来たか。と、ハインリヒはジェットの表情を伺った。
「………その右手、作り替えられたんだって?」
 いくらこれが真正面から切り込んできたからって、そこまで話すのはどうかと思うが、と、ここにいないギルモアに悪態をつきつつ、黙って頷けば、ジェットは小さく舌打ちをした。
「なんで、替えなかったんだよ。それ替えれば、少しは違ったんだろ?」
 何と答えるべきだろうかとハインリヒが思案していると、ジェットはそれすら気に入らないのか、ハインリヒを睨み付ける。
「どうせ、自分は戦う為にいるから、それがないと戦えないとか、そんな事でも考えたんだろう!?…もう、随分何ごとも起こってないってのに!」
「叫ぶな。皆が起きる。」
 怒って更に言葉を続けようとしたところへそう言われて、ジェットは声を出さずに口を噤んだ。別に、他の誰かを起こしたところで良心は咎めないけれど、今は、ハインリヒと二人で話がしたかったのだ。
 隣の部屋の窓が開いたのに気付いた時は、もっと何か楽しい事を話そうとしていたのに、どうしても、この事だけは聞かずにはいられなかった。
「だって……他の武器だってあるじゃないか……戦力が落ちるとか、俺たち守れないとか、そんなの、あんただけが気にする事じゃないだろ?」
 誰一人欠けずに、皆で生きていくのだと思っていた。バラバラの場所で暮らしてはいるけれど、でも、そう思っていたのだ。だから、他の皆を守る気でいた。多分、皆がそう思っているはずだと、ジェットは信じている。
「………別に、お前たちが守りたくて作り替えなかったわけじゃない。」
 ぽつりと返った言葉に、ジェットは耳を疑ってハインリヒの様子を眺めた。
「俺は、俺の世界を守りたかっただけだ。」
 ぼんやりと暗闇を見ながら、ハインリヒは静かにそう言った。その表情は、彼があまり見せない、どこか不安定で揺らいだ様子を見せていた。
「……あんたの世界?」
 時々、彼は彼だけの言葉を使う。それを聞く度に、自分もそんな言葉を持っているのだろうかと考える事もあったが、彼のその言葉は、他の皆も、不思議に思う事があると言っていた事を、ジェットは思い出した。
「俺を取り巻いてるもの。…お前たちとか、これまでに会った人間とか。」
 一般的に使われる『世界』と言えば、地球の事だろうが、そうではなくて、彼が認識しているものの事かと、それで納得し、ジェットは自分の世界はどんなであろうかと、ぼんやり思いつつ、ハインリヒの言葉を待った。
「…ガキの頃、俺の世界はとても狭かった。地上の端がドイツを出る事はなかったし、ベルリンより西だって、殆ど知らなかった。……人間だって、家族と友達とその身内と、ってくらいのものだったけれど、それは大切な俺の世界だった。でも、ドイツは戦争をしてて、俺の世界から人が減っていった。隣の住人、父親、学校の先生。そのうちに、俺の世界は少し様子を変えて、戦争の色に完全に染まった。俺は俺の世界を守る為に戦場に立って、終戦の日を迎えた。その日、俺の世界は壊れ始めた。」
 聞いている人間がいる事を意識しているのかいないのか、ハインリヒの声はとても小さく、普段の彼からは想像が付かない程弱かった。それが、彼の時間が残り僅かだと示しているようで、ジェットは落ち着かない気分でその横顔を眺めていた。
「収容所から出て、帰りついたベルリンは酷い有り様で、母は迎えてくれたけど、祖母はいなかった。祖母はロシア兵が嫌いだから、西へ逃げたと母は言った。…母は、酷く疲れているようで、家を出る事を嫌った。暫くして、父が帰ってきた次の日、母が死んだ。……父と二人で出かけていた間に、首を吊ってた。……葬儀の間に、ロシア兵に強姦されたのを苦にしてたと、下の住人が話しているのを聞いた。父が帰ってきたから、俺が帰ってきたから、どうしても耐えられなくなったんじゃないかと、私もそうするだろうと、彼女たちは話してた。俺は、それを父には言えなかった。」
 その話は、彼から初めて聞かされる話で、彼が大切にしている写真の中の人々が、そんな目に合っているなんて、考えた事もなかった。
「その次が、学校が再開された頃だった。帰った家に父の気配がなくて、テーブルの上に手紙が置いてあった。自分が、戦争の間何をしていたか、少しだけ書いてあって、最後に、『私が、エーファを殺した。』と書いてあった。父はその日から家に帰ってこなかった……俺の世界は、崩壊した。」
 エーファ、というのが誰であるのか、ジェットにはわからなかったが、彼にかかわりのあった誰かなのであろうとは予測がついたし、彼の父がそれを苦にして姿を消さねばならない程に、彼等にとって親しい人であったのだろうともわかった。
「その後、暫くしたある日、壊れたはずの世界から、祖母が姿を表わした。ベルリンから逃げて、うまくアメリカの占領寸前の街まで辿り着けていたらしい。両親がもういないのだと聞いて、俺を連れて行くと言ってくれたけれど、どうしてだか頷けなかった。結局俺は、東側で壊れた世界の修復を始める事になった。」
 そこで、彼の恋人があらわれるのか、と、ジェットはぼんやり考えた。その先の事は、ジェットも知っている事だ。彼は、彼の恋人と壁を越えようとして失敗し、ブラックゴーストに捕まったのだ。
「……彼女が現われて、俺は随分楽になった。俺の世界は相変わらず狭かったが、一度崩壊したものとは違っても、それによく似た、穏やかで幸せなものになった。今度こそ、この世界は守ろうと思った。……でも、あの日、ベルリンに壁ができた。俺たちは、困惑した。この先、あの壁によって、何が起きるのか、俺たちはわからなかった。俺は東で育って、西で仕事をして、東で生活をするという状況だったから、それがそのまま可能なのかどうか、それも不安だったし、これまで行き来出来たものを止められると言うのは、酷く恐ろしい事のような気がして、俺たちはここを逃げ出そうと考えるようになった。……西には祖母がいたから、うまく西へ行きさえすれば、仕事だって住む場所だってある。………そうして俺は、もう一度世界を壊した。」
 彼が、こんなに話をするのは初めてではないだろうかと、ジェットはその声を聞きながら考えた。辛いだろう話をしているのに、彼の声はあまり感情を乗せなかった。
「ブラックゴーストで目が覚めて、戦場に放り出されて、言われるままにそこにいる人間を殺した時、俺はとても恐かった。人を殺したのは初めてじゃなかった。けれど、その理由もわからずに殺したのは初めてだった。………俺は、子供の頃、兵士になりたかった。だから、戦場に行くのも躊躇わなかった。守りたいものがあって、守れるのだと思ったから。でも、あの時の俺には、守りたいものも、守るべきものもなかった。それなのに、俺は人を殺す力を持っていた。その力を振るう事ができる事が恐かった。」
 そう言ってやっと、ハインリヒはジェットへ目を向けた。
 その表情が、少し柔らかい事に気付いて、ジェットは呆然とそれを見つめた。
「その後、お前たちに会った。……嬉しかった。守るべきものがいるのだとわかったから。俺の世界は、もう一度構成され始めた。どうしようもない程狭い世界だったけれど、わけもわからず力を与えられただけでなく、きちんと守るべきものを用意してくれていた事には、感謝した。……俺は、二度も自分の世界を壊してしまったけれど、まだ機会があるのだと思って、次はもっとうまくやろうと思った。」
 ハインリヒは苦笑を浮かべ、ジェットはその言葉に驚いていた。
「俺は、俺の世界が守りたかったんだよ。だから、俺はこの体にこだわったんだ。」
 私を構成する私の世界。そのどれ一つも、今度こそは失わずにいられれば、と思った。そして、今回は、うまくいっていたのだ。それを、油断して壊してしまうのは、どうしても嫌だった。ただ、それだけ。
「………でも、それって…」
 俺たちを守りたかったのと同じ事だと、ジェットは思う。彼の世界を守る事には、自分達を守る事が絶対条件で含まれている。
「俺は、俺の為に、お前たちを守りたかった。だから、これは、俺のエゴなのかもしれないし、お前たちが迷惑に思っても、俺はやめてやれないんだ。」
 あなたが傷付くのなら、守ってくれなくてもいい。そう思う事が、彼の意志を傷付ける事だと、その言葉でわかってしまう自分が、少し嫌になった。もっと、子供だったらよかった。そうしたら、彼の都合なんて考えずに、喚き散らせるのに。
「……俺は、あんたを守ってやりたいよ……もっと、長く傍にいたいよ。」
 もっと沢山話がしたい。こんな辛い話だけじゃなくて、幸せだった時の楽しい話とか、いつかやってみたい事の話だとか。
「それは、願っちゃいけない事か?」
 問いかけると、ハインリヒは苦笑を浮かべ、ジェットの頬に触れた。
「ハインリヒ?」
「子供みたいな事言うなよ。」
 笑うハインリヒに腕を伸ばして抱き寄せようとして、その体が倒れ込んでくるのを慌てて抱きとめる。
「ハインリヒ!?」
 息を確かめ、彼がまだ生きている事を確認する。彼が起きてから、まだ一時間も経っていないと言うのに、本当に、時間がないのだと、知らされるようで恐かった。
「……寝るなよ……」
 もっと、話がしたい。もっと、傍にいたい。
「泣いてるのか?」
 小さな声が聞こえて、彼が目を開けた事に気付いた。
「泣かねぇよ。」
「……嘘つけ。」
 笑って、彼が身を伸ばして顔を近付け、頬に触れた感触に驚いた。
「………あ…」
「俺は、お前たちを、守ってやれたのかな…」
 そう呟いて、彼は目を閉じた。




BACK    NEXT



TOPへ