ルフィは学校へ、ゾロは職場へ出かけて行った後、サンジはキッチンの片付けを終えて、何をしたものか、と暫しソファに座ってぼんやりと部屋の中を眺め渡した。
キッチンとダイニングとリビングが一続きで、その外に庭と呼ばれる広いベランダ。リビングの隣は家主のシャンクスの部屋。その隣にもう一つ部屋があり、その隣は小さな納戸。その向いに風呂などの水周り。階段を上がってすぐがルフィの部屋。その隣の二つが客間で、ベランダ側をゾロが使っていて、サンジはその隣。2階の各部屋にもベランダが付いている。
結構な家だと思う。ただ、ここは社長の家だから、この程度は最低ランクだろうとも思う。この下のビル部分にしても、20階建だから、かなり古い部類のビルだ。今建てるならば、30階以上が普通で、20階なんてのは多分許可が降りない。多分、会社持ちのビルは一つではないはずだから、新しいビルに移ってもいいと思うのだが、何か思い入れでもあるのだろうか。
「あるんだろうなぁ…」
シャンクスは、行動に必ず理由のある人間だろうとサンジは見ている。ルフィを見ていても思うが、何も考えていないように見えて、芯にはきちんと理由が通っている。そんな風に感じる空気があるのだ。ゾロを見ていても、それによく似たものを感じる。
それを、信念と呼ぶのだろうが、シャンクスから見ると、自分にはそれが備わっていないと見えるのだろうと思う。
馬鹿にされているわけではないと思う。ただ、手を貸してやりたいと思うだけの何かがないから、顔を見知っておく事はするけれど、そこまでだ、と言われたのだと思う。
別に、シャンクスの手を借りる気などない。でも、足りないものがあるのだと思われているのは、心楽しい事ではない。不愉快だとは言わないが、それが、あの焦燥感の原因なのだろうかと思うと、それを見極めたいとも思う。
考えに沈んでいたサンジの耳に、通信端末の呼び出し音が聞こえた。
「はい。」
声を出して端末の前に立つと、ゾロの顔が映し出された。
「どうしたの?」
『ベンの部屋に、書類ケースが置いてないか?』
「……ベックマンさんの部屋?」
『シャンクスの部屋の隣。急ぐんだ、探してくれ。』
いくらか焦ったような顏を見せたゾロに頷いて、サンジはそこを離れて言われた部屋へ移動する。
「書類ケースって?」
『透明の薄いケースで、昨日書いてた書類が入ってるんだ。机の上に置いてあると思う。』
リビングからでも声はきちんと聞こえて、サンジは言われた通りに部屋の壁際の机の上に、ケースが置いてあるのを確認し、それを手に取って居間へ移動する。
「これ?」
『そう。悪いんだが、それ、持ってきてくれないか?』
「へ?」
『今日中に申請を出さないとまずいんだ。闘技士会館まで頼む。』
手を合わせて拝まれて、否と言えるはずもなく、サンジは苦笑を浮かべて頷いた。
「タクシー、そっち持ちだろうな?」
『飯も奢ってやるよ。』
ゾロは笑い、頼むな、と一言残して、通信は切れた。
「……意外に間抜け…?」
大人みたいな顔をして、制服である黒いスーツを着て出かけて行ったゾロは、昨日とはまるで違う人間のように見えたのに、端末に映る姿は昨日見ていたゾロと変わらなかった。本質があれなのだという事だと思うと、かけ離れているように見えるけれど、本当は、それほど遠い人間ではないかも知れないと思えて、なんとなく嬉しさを感じられる。
笑みを浮かべながら、サンジは書類ケースを鞄に入れて玄関に向かい、ふと先程入った部屋の前で足を止める。
空き部屋だと思っていたそこが、シャンクスの秘書で、ゾロの叔父であるベックマンの部屋で、息子が2階に部屋を持っているというのは、どういうことなんだろうと疑問が起きる。
2階を全部客間にしておいた方がいいような気がする。そう思ってから、ベックマンの部屋があるという事の方が、普通ではないのだと気付く。彼は、ゾロと同じ家に暮らしているはずなのだ。ここに部屋がある必要がない。
「……ま、いいけど…」
別にそんなのはどうでもいいといえばどうでもいい事だ。あの親子がやけに仲がいいのは気になるが、できればそれは、あまり考えたくない事だった。
闘技士会館は、15階建のなんの装飾もない、無骨なビルだった。入口の脇に、控えめにそれを示すプレートが掛かっているが、見逃しかねない程度の物だ。
入口を入る際にゾロの情報を提示してドアを開け、更に中の受付で係員にそれを示し、ゾロを呼び出してもらうという手順を踏むのは、多分きっと、昨日聞かされたように、彼等には色々と制約があるからだという事だろう。警備員もしっかり立っているし、思いのほか、入口の警備は厳重だった。
「悪い。助かった。」
ロビーで暫く待っていると、ゾロが姿を現し、サンジは鞄の中の書類ケースを差し出した。
「この後、お前、予定ある?」
「いや、ないけど。」
飯を奢ってくれるとは言ったが、まだその時間には早い。どこかへ連れて行ってくれるのかとも思ったが、仕事としてここにいるゾロが、ふらふら出ていけるはずもないとも思う。
「中見て行くか? 今日はちょっと、面白いもの見れるぜ。」
にぃ、と笑う顔は、本当に楽しそうで、サンジは苦笑を浮かべながら、頷いた。本当に、何か楽しいものを見せてくれるつもりでいるのだろう。それが自分にとって本当に楽しいかどうかはわからないが、ゾロが楽しいのだというものが、自分にも楽しければいいと思う。
「絶対、面白いんだろうな?」
「お前なら、楽しいと思う。」
まず、申請書類出さなくちゃな、とゾロは言い、サンジを連れて先程の受付へ足を向ける。
「館内にゲートがやたらあるからな、カード貰わねぇと、どこにも入れないんだ。」
闘技士の所持品の中の刀剣や防具などは、個人の持ち物ではあるが、闘技士会館に保管されている。ロッカーには鍵が掛かるが、無理矢理開けられないものでもなく、見学者が盗んで逃げる事が考えられないわけでもない。その為に、各部屋には必ず入室確認の機械があり、闘技士もそれぞれのカードを持ち、入れない部屋も存在している。
「へぇ…」
そんな説明を受けながら、サンジは書類に必要事項を記入し、受付へ提出し、見学者用のカードを受け取った。
「ゾロ!」
さて、行こうか、と振り向いたところに、大きな声が掛かった。
「早く、時間よ。」
エレベーターの中から大きく手を振っているのは、短い黒髪の女性だった。
「もうそんな時間か?」
ゾロは慌てたように時計を探し、サンジを手招いてエレベーターへ急ぐ。
「何?」
「ちょっと急ぐんだ。」
お前も早く。と言われて、わけがわからないままにサンジはエレベーターに乗り込んだ。
「その子が、サンジ君?」
エレベーターのボタンを押して、その女性はにこりと笑ってそう問い掛けた。
「そう。」
「はじめまして。私、くいなといいます。ゾロの幼馴染みで、剣闘士。」
「はじめまして。サンジです。」
ぺこりと頭を下げて挨拶を交わし、ゾロと親しそうな女性の出現に、サンジは何故か動揺した。
ゾロの幼馴染みが女性で、同じ剣闘士であることは、驚くには充分な事ではあるけれど、動揺するような事ではない。それなのに、やけにその二人の関係が気になる自分が、サンジには驚きだった。
「急ぐって、何?」
「これから、闘技士の技術試験なの。ゾロは新人の中で一番の成績だから、見本を見せる役なのよ。」
ゾロの説明の前にくいなが説明をし、サンジはその内容を聞いて、ゾロに視線を移す。
「この日、見学できるなんて、珍しいのよ。」
やっぱり、ちょっとお気に入りね。とくいなは笑い、ゾロとサンジはその言葉の意図が上手く掴めず、首を傾げてくいなを見やる。
「ゾロが初対面でカードを渡したなんて、すごく珍しい事なのよ。剣闘士の中にだって、ゾロのカード持ってる人間なんて少ないんだから。」
身元保証の意味も持つカードの他に、単なる連絡先を教える為だけの紙製の名刺も存在していて、仕事上の付き合いをするだけの人間の場合、それを渡して、連絡先を知らせる事が多い。
サンジも、仕事の関係者には殆どがそれで済ませているから、ゾロだけが特殊だというわけではないと思う。けれど、そう言われるからには、やはりそれなりの理由もあるのには違いないのだろう。それならば、自分は少しはゾロにとって特別なのかもしれないと思うと、サンジは微かに気分が高揚するのを感じる。
「そんなに少なくないだろ?」
「少ないわよ。」
くいなは笑い、ゾロは不服そうな表情を浮かべる。
二人は幼馴染みだと言うだけあってか、互いに遠慮がないらしい、ごくごく近い距離感を持っているように見える。少なくとも、サンジがそこに踏み込めるような、よそよそしい関係ではないのがわかる。
「ゾロの模範演技中は、私が案内しようか?」
試験中は実技訓練ができないし。とくいなは言い、ゾロはサンジにどうするかと視線で問い掛けてくる。
「お願いしようかな。一人でいて、変なところに入り込むと困るし。」
それで何か問題を起こして、ゾロに迷惑をかけるのは嫌だと思う。サンジが答えると、くいなはにこりと笑って頷いた。
「格闘士の試験は、剣闘士の試験の後だから、ゾロに案内してもらってね。」
「はい。」
「悪いな。終わったらすぐ戻るから。」
ゾロは言って、エレベーターを途中で降りて行き、サンジはそのままくいなと二人でエレベーターに残される。
「サンジ君の端末は、カードの処理はどんなの?」
「え?」
いきなり何を聞かれたかわからず、サンジは首を傾げ、くいなは笑ってサンジの手元の端末を指差す。
「私のもゾロのも、上書き型なんだけど、データが違うのね。サンジ君のは? 消去型?」
「あ……ああ。上書き型です。」
携帯端末が読み込み後のカードの内容を、どのようにして使えなくするか、という話だと理解して、サンジは答を返す。
どうも、二人になった途端に緊張していたらしいと、自分の状況をおかしく思う。
「どんなデータ?」
「見た事ないですけど…」
読み込み後のデータなんて、意識して見ようと思った事はないし、普通はあまり気にしないものだとサンジは思う。
「そうなの? 結構面白いのよ、あれ。仲間内で流行ってるの。」
くいなはおかしそうにそう言い、後で見せてあげる。と笑った。
「女性の闘技士って、多いんですか?」
「少ないね。最近増えてきたところじゃないかな。」
「大変ですよね。」
男と女では力の差があるし、色々と大変だろうと思ってそう言えば、くいなはにこりと笑った。
「それでも、私はこの世界だと思ったの。」
まっすぐのその視線は、ゾロが見せたものとよく似ていた。
「それに、意外に大変じゃないわ。真っ向からぶつかったら弾き飛ばされるかもしれないけど、やり方はあるもの。」
これが、自分に足りていないものだ。と突き付けられたような気がして、サンジは息苦しさのような、なんとも表現の難しい感覚に陥る。
「剣闘士は、その点で、女性にも向いてると思う。」
くいなはそう言って笑い、サンジの様子がおかしいのに気付いて、顔を覗き込む。
「大丈夫? なんだか顔色が悪いけど。」
「ああ……ちょっと、立ちくらみかな?」
エレベーターに乗っているだけでそんなものになるのも珍しいが、くいなはそれを信用したのか、心配そうに階数表示に目をやる。
「ここのエレベーター遅いのよね…降りる?」
「大丈夫。」
笑みを見せれば、くいなはほっとしたように頷き、苦笑を浮かべる。
「緊張してるせいね。」
「え?」
笑いの含まれた言葉に首を傾げると、くいなは自分を指差して、笑った。
「私も、緊張してるの。何を話したらいいのかな、って。」
初めて会う人で、ゾロが気に入ってる人だもの。緊張するわ。と、くいなは言い、止まったエレベーターから先に降りるようにとサンジに手で示す。
「くいなさんも?」
「サンジ君も緊張してるでしょ? 私は、どんな人間か、って。」
お互い、ゾロを挟んで大変よね。と呟いて、ふふっと可愛らしく笑う。
「今までは、初対面だからって、緊張した事はなかったんだけどな…」
でも、くいながゾロにとってどんな存在なのかとか、二人はどんな関係なのかとか、やけに気になって、身構えていたと思う。
ルフィにナミという恋人がいるのを知った時とは違う驚きだった。女など傍にいるわけもないと思っていたゾロが、ルフィよりも親し気に相手をするから、この人が、ゾロにとって特別な女性なのかと思い、幼馴染みだと聞いて、ほっとしたような更にショックだったような、なんとも言い難い気持ちになった。
会ってから一日しか経っていないサンジには、適うはずもない相手がいるのだという事に、動揺したのだ。
「くいなさんにとって、ゾロって、どんな相手?」
「え?」
「幼馴染みで同業者、ってだけ?」
突然の質問に、くいなは暫くぽかんとしてサンジを見ていたが、すぐに質問の意図に気付いたのか、笑って首を横に振った。
「心配いらないわ。本当に、単なる幼馴染み。ゾロの事、男だなんて意識して見た事もないもの。」
そういう事でしょ? と笑ってみせるくいなに、サンジは苦笑を浮かべて頷いた。
「意外な質問だったわ。」
ここよ。とドアの脇のカードリーダーにカードを通しながらくいなは小さく呟き、サンジはその反応を喜んでいいものなんだろうかと、僅かの間、考えた。
久方ぶりの更新です。
サンジさんとくいなさん。なんとなく、自分の思うところを理解しつつあるサンジさん。
色んな人を出しつつ、他をどんどん潰していくのは結構楽しい。
次回は闘技士の技術試験のお話になるかと思います。そんなん、必要ないと言えばないんですけどもね。(2005.01.04)