サンジの通された部屋は、一面ガラス張りの壁の一つから階下が見渡せるようになっていた。
「あの下が、実技室なの。」
くいながそう言って、そこへサンジを手招くのに従い、そっと下を覗けば、そこには15人程度の人々が集まっていた。
壁の一方に電光掲示板が4つ並び、その下に野球の打撃練習に使われるような機械が一つずつあり、その向い側には人が立つ位置を区切る為の左右の仕切と、その後ろとを区切る仕切が設置されている。
少々作りのしっかりしたバッティングセンターというのが、それを見たサンジの感想だった。
ただ、その場にいる全ての人々が手に持って行るのは、野球のバットではなく、銀色の剣なのだが。
「あれが受験生?」
「そう。」
その人々は、体にぴったりと沿って仕立てられた黒い服の上に、胸を守る為の防具とヘルメットを装着しているが、それは剣闘士が試合中に身に着ける物よりは随分と軽い物のように見えた。
「そこまで危険な試験じゃないから、あれで充分なのよ。」
サンジが疑問を口にすると、くいなは笑ってそう答え、奥のドアを指で示した。
「そろそろ出てくるわ。」
誰が、と問う間もなく、ドアがスライドして受験生達と同じ黒い服を着たゾロが姿を見せた。
「今年が初めての受験生は3人だけなんだけど、毎年あそこで試技を見せるのが決まりなの。」
ゾロを見て、受験生達が頭を下げ、ゾロもそれに頭を下げて礼を返し、ゆっくりと仕切の方へ歩いて行く。
「あそこに立つのが、新人で一番成績がいい人間なんだよね?」
「そう。新人闘技士のとりあえずの目標ね。」
くいなはにこりと笑い、ゾロは剣を構えた。
向いの機械から白いボールが飛び出し、ゾロはそれを剣で二つに切り裂く。
暫くすると、電光掲示板に「0」が表示された。
「あの数字は?」
ゾロの背後でそれを見ている人々は、何やら歓声を上げているようだが、サンジには何が凄いのかがまるでわからない。そして、その間にもゾロの試技は続いて行く。
「あのボールには、線が入っていて、その線に沿って剣で切るっていう試験なの。」
ゾロがボールを切断する度に、掲示板は点滅し「0」を表示する。
「その線と切断部分の誤差が10球の合計で2ミリ以内である事が、試験の合格基準。」
ゾロは説明の間に10球を切り終え、掲示板はその間ずっと「0」を表示し続けていた。
「で、ここからが本番よ。」
にこりとくいなは笑い、よく見るようにとサンジに言う。
それまで、ゆったりしていたゾロの気配が、キリリと引き締まり、それを見ている受験生達も緊張の面持ちでじっとその後ろ姿を見つめている。
つられるようにサンジが息を詰めた時、ゾロが剣を振った。
白いボールは立続けに射出され、ゾロは剣を下ろす間もなくそれを全て切り飛ばす。その間、数秒、とサンジは思った。
実際に計れば数秒では無理かもしれないが、剣の軌跡がかろうじて見えるというスピード感だ。S級の剣闘士の試合で、目にも止まらぬ剣戟が繰り返される時に感じるものと同じだと、サンジは思った。
そして、ゾロが剣を下ろすと、受験生達から拍手がもれる。
「あれが、一番の見せ場ね。」
さっきまでのはお手本だけど。とくいなが笑う。
「試技担当に選ばれると、あの練習を必死でやるの。去年の担当者より早く、正確に。ってね。」
大半の人間が、去年の担当者を見ているからこその競争意識だ。普段は共に鍛練を積む仲間だが、試合になれば全て敵。あの場に立つ事も勝負ならば、そこで行なう事も勝負の一つだという事。
「あれは、かなり早かったよね?」
「来年の担当者は相当のプレッシャーよね。」
あれに勝てる人間はそうそういないだろうけど。とくいなは苦笑を浮かべ、何事にも手を抜こうとしないゾロの性格が見えたような気がして、サンジは頷いて返した。
「あそこで見てる人の半分位が、ゾロと一緒に試験を受けているの。」
ゾロがその部屋を出ていくのを呆然と見ていたサンジは、くいなの言葉に驚いてそちらを見た。
「その半分は、ゾロより前から試験を受けてる。」
受験生の中で純粋に感動しているように見える者と、どこか悔しさを見せている者とがいるのは、その差だろうかとサンジは思う。
「残りはゾロと試験を受けた事がない。それは、とても珍しい事よ。」
ゾロは17歳で実技訓練を合格しているから、その間に新たに受験した者とは会った事がないからだ。
自分より後に現れて、自分を追い抜いていき、デビュー戦も危な気なく勝利し、その後も着実に勝ちを重ねる剣闘士。
あの場に立つ者が、当然のように目標にする姿が実在しているのだ。それを見て、ただ感心しているだけなど、有り得ない事なのかもしれない。
「受験生は、自分と同じように試験を受けた人間が合格して、ああして試技を見せるようになる事で、自分を奮い立たせたり、目標を諦めたりする。闘技士になる前から、勝負は始まっているの。」
合格していった者と自分の違いを考え、それが何年も続けば、ついには諦めてしまう者がいても仕方のない事なのかもしれないとサンジは思う。
闘技士は年齢に依る受験制限に上限はない。何年続けて受験していても問題はない。けれど、何十年も受験し続けるだけの精神力はそうそうあるものではないだろう。
あの場にいる人々は、必死に自分と戦っているのかもしれない。だから、ゾロやくいなのように、サンジが焦燥に駆られるような、あの力強く迷いのない表情を見せるのかもしれない。
そしてそれは、今まで自分が経験した事のない精神状態なのだろうとサンジは思った。
調理師の試験を受ける時は、確かに真剣だった。一つのミスもせず、身につけた技能や知識を発揮しようとした。
闘技士も調理師も試験は入口に過ぎず、実際の訓練が始まるのは職に就いてからだが、それなりの技術を持って挑むのは当然の事。
それでも、サンジは不合格の恐れなど抱かなかった。それまで既に厨房で手伝いをしていた事もあり、自分の腕がプロに劣るなどとは思っていなかった。気持ちの中にはいくらか余裕があったと思うのだ。
これを越えて闘技士になった祖父が、怪我を理由に引退した時、一体どんな葛藤があったろうと、ふいに思った。
ゾロが出ていったドアをじっと見つめている受験生達の、キリキリと引き絞られる気配が伝わってくるようで、サンジは微かに息苦しささえ感じた。
暫くして、ゾロが出ていったドアから、試験官らしき人々が現れ、受験生達に指示を出していく。
「くいなさんも、ゾロと一緒に受験を?」
「1回だけね。必死よ。負けたくないもの。」
それまでじっと受験生達を見つめていたくいなは、サンジに顔を向けてにっこりと笑った。
「私、ゾロとの勝負に負けた事はなかったの。剣闘士になってからは試合で対戦した事がないけれど、練習でだって、そうそう簡単に勝たせてなんかいないのよ。」
ゾロにとっても私にとっても、一番近いライバルってところね。とくいなは笑い、とんとん、と指先でガラスを叩く。
「……と言っても、ゾロの最大の敵は一人だけなんだけど。」
鷹の目と異名と取る男がゾロの目標であるのは、闘技会好きには周知の事実だ。
「くいなさんは違うの?」
「女性剣闘士がS級に上がれた事はまだないの。だから、まずは昇級が目標ね。」
さすがにあの人に勝つには、力も必要だもの。とくいなは苦笑を浮かべる。
「なかなか、簡単にいくものでもないわ。」
ここ以外に行く場所なんてないけれど。とくいなは呟き、サンジは黙ってそれを聞いていた。
暫く経つと、服を着替えたゾロが姿を見せた。
「試験の様子は?」
ゾロはそう問い掛けながらくいなの隣へ立ち、階下の様子を伺う。
「今年はどうかしら。」
くいなはそう返し、指で一人の受験生を示す。
「あの人が、一番長いの。今年で10年目。」
「練習は完璧なのに、本番となるとミスが増えるんだ。」
くいなの言葉にゾロが付け足し、サンジはその様子を見ながら問い掛ける。
「なんで、あんな試験を?」
飛んでくるボールを見る動態視力と技能を合わせた試験なのだろうとは思うが、他にも何か有効なやり方があるのではないかという気がしてくるのだ。
例えば、トーナメントの実技戦とか。
「試合を無事に終えられるかどうかを確認する為ね。」
くいなは言って、その部屋の隅に設えてあるショーケースの前に移動する。
「剣闘士の防具は、細い金属を繋いで作ってあるの。体の動きを邪魔しないようにって作りなんだけれど、その為に、時々隙間ができるわけ。」
肘を直覚に曲げた時も真直ぐに伸ばしている時も動き易くする為に、遊びの部分が必要になるからだ。
「で、その隙間は、剣を当てちゃ行けない場所なの。当てると失格。」
「じゃ、この金属部分を攻撃できるように、って事?」
「そう。剣技が上手いか下手か以前のところで、試合が終わってしまっては意味がないでしょう?」
たしかにそれは、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「試験の変更は提案された事もあるらしいけれど、今までの合格者にできる事ができないんじゃ、やっぱり試合にならないからね。」
試合で強いかどうかなんて、闘技士になる為の条件じゃないの。とくいなは笑う。
「闘技士になる為に必要な、基本的な技術があるかどうかだけわかればいいけれど、他になかなかいい案がないみたいなの。」
新人闘技士のデビュー戦は、アマチュア戦の経験などがない場合は、プロになってから半年後辺りに設定される。その間に、試合形式の鍛練などを行ない、実際のスピード感に慣れるものらしい。
ゾロの試合までに間が空かなかったのは、学生闘技会の経験がある事と、鍛練の結果などから決まった事らしい。経験者は2カ月程の間にほぼ全員がデビュー戦に挑む事になるのが普通だった。
「この防具を着けて動くのに慣れるのが、なかなか大変なのよね。」
見た目は割と重そうに見えるそれを着て、闘技士は相当のスピードで動く。一体どんな筋肉バカだとサンジは最初思っていたが、くいなにしてもゾロにしても、それ程筋肉質には見えない。
「できる限り制限しないように、って言っても、やっぱり上手く動かない部分もあるからね。」
意外に重くはないのよ。とくいなは言う。
「後から、見学者用の防具を着けさせてもらったら?」
結構、興味あるみたいよね。とくいなは笑い、ゾロの方へ歩いていった。
気付いたら、1年近く放り出してあった事に驚きました。
お待たせいたしました。
宣言通りの闘技士試験に就いて。こういうシーンは、やっぱり小説よりも漫画とかのがわかりやすいと思うのですけれど、わかりにくいのは腕の差か。
進んでいるんだか、進んでいないんだか…(2005.10.17)