不公平な世界



 夕食を終え、イルカの部屋へ上がったサスケは、その部屋が思いのほか心地よい事にほっと息をついた。
 ここへ来るまでに泊まった凱華の宿は、どれもサスケには居心地の悪いものだった。物の配置も窓の位置も、とにかく全てにおいて垓紫とは作りが違う。それによって、当然請けられるべき諸々の良い影響が断たれてしまっているのだ。だが、この国ではそれも仕方がない事なのだろうと我慢して来た。一生ここで暮らすわけでなし、一時の事だと思えばそれもできない事ではなかった。
 だけれど、この国で生きていかなくてはならないイルカが、それに耐えられるものだろうかと疑わしくは思っていた。
 垓紫の人間は、他国から見れば、未だに呪術を信じる未開の土地の人間だと思われている部分がある。それは、確かに彼等から見れば仕方のない判断だろうと、サスケも思っている。でも、垓紫の人間にとってそれは、当然信じるべき事実だ。
 土地に神や精霊は住んでいるし、彼等はこちらの声を聞いてくれるし、彼等の声は聞こえる。だからこそ、彼等の声がよく聞こえるように、彼等に声が届くように、家を建てる場所も、窓を開ける位置も決められている。そうして作った家で、垓紫の人間はゆっくりと息をして寛いで過ごす事ができる。
 そして、その土地で育った人間は、この土地の家では息苦しさを感じる事になるのだ。いっそ、空の下で野宿をする方が、ずっと心地が良いと言えば、この土地の人々は笑うだろうけれど。
「いい部屋だな。」
「だろう?」
「窓の位置も良い。」
 月の見える位置に開いた窓は、月に近いイルカにはとても良い環境だ。それに、ここは森の中だから、特に土地の力も強くて窓を開けていれば、とても良い風が流れ込んでくる。
「きっと、古い家だな。町中の家と作りが違う。」
「センカさんもそう言ってた。凱華でも、田舎の方へ行くと、こういう家が多いって。」
「港の街はなかなか良かったけれど、他の街はあまり良くなかったから、不思議だったんだ。」
 サスケはそう言って、ベッドに腰掛けるイルカの前まで戻って、その右手を指差した。
「…………見せてくれるか?」
 自分を見下ろすその表情が、苦しそうにしているのを見て、イルカは苦笑を浮かべた。
「いいよ。」
 軽い口調でそう返して、革の手袋を外すと、イルカはその甲をサスケに差し出した。
「………」
 そっと右手を取って、サスケはその白い手にくっきりと刻まれている領主の紋章を指で辿った。
「……痛かったか…?」
 手袋で隠されていない指は、日に焼けているのに、そこだけ白いその手の甲には、彼が罪人である証が驚く程に精密に残されている。
「痛み止めを飲んでたから大丈夫だ。薬師で良かったよ。俺。」
「………」
 笑うイルカの表情を見て、サスケは小さく頷いた。
「初めて見た……」
 罪人は、右手の甲に罪人の印の焼き印をつけられる。それは、彼等を裁いた領主の紋章を象る。
 垓紫の人間の利き手は基本的に右だ。握手をするにも、金を払うにも、何かを手に取る時も、ほぼ間違いなく右手を差し出す。だから、そこにつけられた印は否応なく人目に触れ、領主の紋章は誰もが知るところであるから、それが罪人であると一目でわかるというわけだ。
 そして、それを隠せば、隠したという行為でそれが罪人であると判断できるというしくみだ。
「……ごめん……イルカは、悪い事なんてしてないのに。」
 村の誰も、イルカを責めたりなんてしない。そんな罰当たりな事なんてできない。でも、国の決まりとして、イルカは罪人として扱われる事をした。それも事実。
「悪い事なんだよ。……俺は、薬師になった。薬師になったなら、薬師の決まりごとは守らなくちゃならない。それを覚悟して、薬師にならなくちゃならなかったんだ。」
 あの日、目の前にある現実を、何とかしたかった。そして、その手段が手元にあった。手段を持って、イルカは罪を犯した。今そこで消えるかもしれない命を救う手立てを講じる事。それは、いつか救えるかもしれない命を救えなくする事と同じ事だった。
「でも…」
「お前も、呪術師になったら、色んな事で悩むだろう。薬師よりもずっと責任は重いんだから、悩みだってもっと深いに違いないよ。でも、決めごとだけはきちんと守らなくちゃならない。これまでやってきて、その中で選んで来た良い道なんだから。」
「…………わかってる……」
 あの日、サスケは救われる対象だった。でも、向いの家で暮らコノハは対象外だった。熱を出して苦しんでいるのは、サスケもコノハも一緒だった。村の大人も子供も年寄りも、皆が苦しかった。
 イルカは、いつものように薬を二つ持ってやって来た。
 呪術師の家であるサスケの家に配られたのは、同じ壷から別けられた水薬二人分と、別の壷から別けられた水薬が一人分。サスケの家に暮らしていたのは、サスケとその師と、身の回りの世話をしてくれる老婆が一人だった。薬は2種類。サスケよりも高い熱を出した彼女が飲んだのは、サスケの薬とは違う薬だった。
 この国は、そういう所だから。呪術師であるサスケや師の為に配られた薬を、彼女が飲むわけにはいかない。サスケや師が、ただの村人だったなら、具合の悪い彼女の為に薬を取り替えたかもしれない。事実、村に片親しかいない子供が多いのは、サスケがまだずっと幼かった頃に流行った病気で、親が子供を助けたくて薬を取り替えたからだと言われていた。
 でも、あの日そうはできなかったのがこの国の生き方だった。
 領主に次いで、呪術師、予言師はその存在を保護される。彼等がなくては、生活が成り立たないからだ。次に薬師などの稀少技術者が来る。そして、その後は、15歳から35歳の成人男女。その次に8歳から14歳の少年少女。次に36から45の男女。最後に、それ以外の人々となる。
 あの日のように、貴重な薬を使わなくては治らないかもしれないという病気が蔓延すると、垓紫の人口は激減する。それを避ける為に、領主は薬を確保し、それを与える人々を選ぶのだ。
 あの日、暗夜草の投薬許可が出たのは、上から3位のみだった。サスケは本来ならば第4位に位置する年齢だが、呪術師としての未来が約束されていた為に、1位の扱いで投薬許可が出ていた。そしてそれは、サスケの将来は、呪術師以外ではならないという事。
「……結果として、皆が助かったけれど、そうならなかった確率だって高かったんだ。」
 あの日、イルカは採取の旅から帰ったところだった。1カ月を超える長旅で、イルカは1本の暗夜草を持っていた。何年も掛けて、それが咲くのを待っていたいた苦労が、その旅でやっと実を結んだのだ。持ち帰った一瓶の重みが、どれほど嬉しかったか。次の日に領主の館へ届けに行こうと、心に決めて帰って来た。
 そして、帰った村は、高熱を引き起こす病気が広がっていた。帰りついた家では、師が領主の館へ呼ばれたところで、イルカは後の事を頼まれた。
 手元にあった一瓶の暗夜草を差し出す間もなく、師は領主の館から運ばれて来た暗夜草の壷を差し出し、投薬対象を指示して家を出ていった。
 その対象人数は、村のギリギリ半分というところだった。暗夜草を使わない薬の作り方を見て、イルカは荷物の中の瓶を見た。
 他の誰もそれがここにある事を知らない。中の草を焼いてしまえば、それがあった事など誰にも知れない。
 でも、採取したばかりのその瓶の中身が、薬として機能するかどうか、それには時間が足りないだろうとも思っていた。元々、暗夜草は採取して水かアルコールに浸してその成分を抜き出す物だ。一日二日で成分が充分に抜き出せるものではない。採取してから2週間。幾らかの成分は出ているかも知れないという程度だった。
 イルカは迷った末に、それを使った。成分の不足を補う為に、量を増やして作った薬と、正規の方法で作った薬。2種類を持って村の家を廻った。
 村人たちが、子供の為に薬を取り替える事は、黙認されている。薬師は玄関で薬を分けて、彼等がそれを飲むか飲まないかは、当人たちに任せるのが普通だった。
 体力のない子供に良い方の薬を与え、自分は子供の為の物を飲む親まで、領主が咎める事はできない。結果的に、使われた薬の量と、助かった人間の数が大幅に違わなければ問題にはならないのだ。
 でも、イルカの作った薬は、想像以上の利き目をもたらした。村人は、全員助かったのだ。それで、何が起きたのか、知れないはずはなかった。
 イルカは投薬違反で有罪となった。もとより、言い訳などする気もなかった。自分がしている事はわかっていたのだ。それでも、目の前で苦しんでいる人たちを助けたかった。いつかそれを与えられるべき、見た事もない人たちではなく、今そこにいる人々の方が、イルカにとっては優先される人々だったのだ。
 罪状から国外追放が決定し、村に帰る事なく焼ごてを右手に押され、自力で手当てし船に乗った。領主の館へ連れてこられる時に、薬やら金やらを持たせてくれた師匠の配慮が有り難く、それを持たせてくれた領主に感謝をした。
 この家に来て、街でコノトに会って、彼が同じ立場にあると知った。彼は、右手のやけどの後を消す方法を教えてくれたけれど、それは選べなかった。
 村人を救った事は、良い事だったかもしれない。でも、他の村では大勢の人々が死んでしまった。身内に死なれた彼等にしてみれば、イルカの行動は許せなかったろうと思う。
 だから、罪人の証は消せなかった。
「でも、皆、感謝してる。それは、覚えていてほしい。」
 この手が助けてくれた事は、皆が知っている。あの日、彼が船に乗ったと聞かされて、どんなに村人が嘆いたか。帰って来さえすれば、今までと変わらなく暮らせたはずなのだ。どんな印があろうと、イルカが自分達を助けてくれた事は、間違いがないのだから。
「だから、俺が来たんだから。」
 あの日、礼を言う間もなく連れ去られた彼に、皆を代表して礼を言う為に来たのだ。
「大先生から伝言。」
 サスケはそう言って、右手を差し出してイルカの額に触れた。
『思う通りに生きてけばいい。間違いでも何でも、お前は自分に嘘ついて生きてけない馬鹿だから、無理しなくていい。俺が教えてやった通りに、好きなように生きていくがいいさ。』
 耳に聞こえる声ではなくて、呪術師が伝えてくれるその声は、直接頭の中に響いてくる不思議な声だ。
「……馬鹿って………」
 豪快な師の性格そのものの言葉は、何より嬉しい言葉だった。

 
 
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(2002.10.21)




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