不公平な世界



 客を待ちながら、イルカはぼんやりと昨日のセンカの言葉を思い出していた。
 仲良くしてやって、と言うという事は、それなりに幼い子どもだという事だろうか。そう考え、しかし、それでは一人で一月も旅に出ているのは危険過ぎると、思い至る。
 センカはイルカよりも随分年上に見えるが、未だに弟子をとっていないのならば、思った程は年上ではないのかもしれない。
 薬師として名前は広く知られているが、それを知っているのは、イルカが薬師であった事も影響しているだろう。
 だが、それでも聞こえてくるのは、名前とその人の作った薬の事だけで、容姿も年齢も伝わっては来ない。イルカが、センカに雇われて名前を聞くまで、その人と気付かなかったのは、そんな理由があっての事だった。
「……俺と同じくらいって事かな……」
 いくら何でも、年上の人間と仲良く、というのはあまり使われない言葉だろう。と言っても、イルカも今年で23になる。その年頃の人間が、「仲良くしようね」と言い合う事はまずないから、喧嘩はするなと言う事かも知れないと、考える。
「じゃぁ、俺が嫌われる可能性があるって事か?」
 人嫌いで隠居しようと言い出す人間が、最も嫌うタイプの人間であるという事だったらどうしようと、イルカは悪い方向へと考えを進めて行くことを止められなかった。
「いや、でも、センカさんと組んでるんだから、只の人のわけはないし、俺なんか、絶対、足元にも及ばないんだろうから、気に掛けもしないかもしれないし。」
 自分の傷を自分で抉っているような気分になって、イルカはため息をついた。
「………はぁ……」
 この店に来て、初めてこの家の薬草庫を見た時、イルカは言葉を失くした。
 教本通りに保存されたそれらは、イルカの家にあった薬草庫とは比べることもできない程に、素晴らしいものだった。
 それが、センカともう一人の薬師によって集められたものである事と、近くの森に行けば、かなりの薬草は揃うらしいという事は、イルカを驚かせるに充分の物だった。
 イルカの家の薬草庫は、その10分の1にも満たなかったかもしれない。だけれどイルカには、それすらも遠くまで採取に出掛けて、やっとの思いで手に入れてきた品々だったのだ。買い付ける薬草の値はとても高く、とても簡単に手を出すわけにもいかず、必死になって集めたのだ。
 それがここでは容易く手に入る。金で購うことなく、手を伸ばせば掴み取れると言うのだ。
 世界は、不公平に出来ている。その事実の悲しさに、イルカは泣きたくなった。
 そこにある薬草の半分が、イルカの家にもあったならば、どれほどの人が救われただろうか。そこにある薬草が垓紫でも簡単に手に入るものであったら、どれほどの人が手当てを許されず死ぬことを選ばずに済んだだろうか。
 そう思い、イルカは自分の浅ましさに暗い気持ちを抱え込むことになった。その後も、薬草庫に入る度、人を恨めしく思う自分を情けなく思うようになった。
「……できればそうしたいけれどさ…」
 人間関係には、二つ以上の感情が絡んでくるわけで、イルカが一人でどうこうできるものではない。相手がイルカを嫌ったならば、どうしようもないとイルカは小さくため息をついた。
 
 
 
 
 その朝、イルカは開店の準備をするために、店へ足を向けた。
「……?」
 店の中で物音がすることに気付き、イルカは首を傾げてそっと裏口の扉を開くと、中を伺った。
 店番の座るカウンターの中に、薄汚れたマントの背中が見えた。脇には長剣が立て掛けてあり、その横に布袋が置かれている。
「泥棒か?」
 もっとしっかり確認しようと、身を乗り出したイルカの動きに、扉の蝶番が音をたてた。
 瞬間、背中が振り返った。
 砂色のマントと同じ生地の服の足元は泥はねで汚れ、袖口には血と思われる染みが出来ているその姿に、イルカはそれが、泥棒に違いないと確信した。
 カウンターの中には、普段金の入っている箱が置かれているし、棚には薬草が用意されている。この店の中に、価値のないものなんてありはしないのだ。
「センカさん!泥棒です!!」
「違う!」
 少し離れたところで洗濯をしているはずのセンカに向けて叫んだイルカに、振り返ったその人物は慌てたように駆け寄り、腕を伸ばした。
 伸びた手が、口を塞ごうとするのを体ごと避けて横へ回ると、イルカは手に持っていた金の入った袋を振り回すように、後頭部へと叩き付けた。
「っ!」
 ぶつけたイルカすらも驚くような鈍い音が響き、男はうめき声を残しその場に倒れ込んだ。
「イルカ、無事!?」
 駆け寄ってきたセンカの声を聞いて、イルカはぴくりとも動かない男を見下ろしていた視線を、そちらへ向けた。
「……死んじゃったって事は、ないですよね……?」
「…………大丈夫だと思うけど………これは……」
 倒れた男の銀色の頭をパシパシと叩きながら、センカはそちらへ声をかける。
「カーカシ君。無事かーい。」
「え?」
 センカの呼んだ名前に、イルカは呆然とその後ろ頭を見下ろした。
「カカシって……」
 センカは自分の弟子ではないと言った。でも、世話はしたと。ならば、そのカカシは、イルカも名前を知っているカカシだろう。レカントの最後の弟子。それならば、今イルカが沈めた人物が、この店のもう一人の薬師に違いない。
「………最悪……だ…」
 仲良くしてくれと言われた相手を、殴ってしまった。ましてや、それはイルカの雇い主だ。機嫌を損ねたら首を切られる相手である。
 センカは止めてくれるかもしれないが、意識を取り戻したこの人が、イルカがいるならば店に戻らないなんて事を言い出したら、イルカはここを出ていかなくてはならないという人間だ。
 イルカはくらくらする頭を抱え、センカがカカシの様子を見ているのをぼんやりと見下ろしている事しかできなかった。
「とりあえず、部屋まで運ぶから、手伝って。」
 明日から、また旅に出なくてはいけないとしても、イルカには旅をする持ち合わせがない。これ迄働いてきた分の賃金をくれと言うのは、雇い主を殴って気絶させた人間に主張できる事ではないような気がした。
 もしかしたら、あんなに重くて固いもので殴ってしまったのだから、記憶や体に障害が出たりしたら、大陸中の損害である。イルカはどんどん悪い方へ向かっていく思考を止めらなかった。
「はい。」
 センカの言葉に従って、イルカはセンカの反対側から、倒れたカカシの腕を肩へ持ち上げ足を引き摺るように、入る事を許されなかった部屋へと、その体を運んでいった。
「すみません……」
「気にする事ないよ。疑われるような事したこれが悪い。イルカは、お店番のお仕事をこなしただけでしょ。」
「………でも…」
「これも、いい経験でしょ。ここまで見事に沈めた人は、初めてだからね〜。」
「初めて、って?」
 今迄にも、こんな事があったという事だろうかと、首を傾げると、センカは苦笑を浮かべた。
「大体いつもあんな風に帰ってきて、傷薬とか漁ってるから、店番が泥棒と勘違いするのは、よくある事なのね。でも、これは結構腕が立つから、後ろから取り押さえようとされたって、まず逆に取り押さえる事はできるわけ。これにしてみれば、留守中に入った店番の方が侵入者だしね。」
「……俺は、運が良かったって事でしょうか?」
 イルカだって、薬師として採取にも出る事があったから、剣は使えないがその代わりの得物をきちんと持っている。
 店番だし、金を扱っているからと、今だって身につけている。でも、さっきはとっさにそれを手にする事なんてできず、手に持っていたものを使ってしまったわけだ。これは、腕が立つとは言わないだろう。
「これが油断してたって事だよ。だから、いい経験なわけ。気にしなくていいからね。これがどんなに不機嫌そうにしてても、簡単に謝っちゃ駄目だよ。自分がどんなに不審な行動をしてたのか、理解させてやらないと。」
「でも、殴っちゃったわけだし……」
「雇い主の命令〜。」
「カカシさんも雇い主でしょう?」
 笑うセンカに問いかけると、彼は首を横に振った。
「イルカを雇ったのは俺だから、カカシはイルカの雇い主じゃないよ。」
「でも、俺ってこの店に雇われてるんじゃないんですか?」
「違うんだな〜。」
 笑って、センカはイルカを手招いて部屋を出る。時間になれば店を開けなくてはいけないのだ。ここでぼんやり立ち話をしているわけにもいかないと、イルカは気がついた。
「イルカはね、うちにいるといいかなぁと思ったから、雇ったの。お店番もしてもらってるけど、家の事もしてもらってるでしょ?お店番には、そこまでさせません。」
「………そうだったんですか……」
 でも、雇われる時は、店番がいないからと言って、雇われたのだ。
 イルカが町の薬屋に雇ってくれと頼み込んでいるところに、センカが品を納めに来て、そのままセンカに雇われる事になった。
 薬師の店の店番ならば、自分にもいい経験になると思ってイルカは雇われたのだ。
 この家に来てからは、センカが調剤に入っている時はイルカが家事をこなす事もあったが、それは店番の延長線にある事だと思っていた。
「大体、店番に家まで入らせたりしないしね。」
 こう見えて、神経質なんだよ。なんて呟くセンカに笑みをもらし、イルカは頷いた。
「できるだけ、頑張ってみます。」
 センカが、カカシをもう少しどうにかしようとしているらしいというのが、イルカにも伝わってきた。
 そこにイルカがいる事で何ができるのかはわからないが、行き倒れになってもおかしくないところを助けてくれたセンカの役に立てるのなら、頑張ろうと思った。
「それと、あいつは自分にへこへこする人間が嫌いだから、気をつけてね。気を使ってやる事もないから、イルカは、俺の為に動く事。いい?」
「はい。」
 それは、カカシの意志は尊重しなくていいという事なのだろう。
 例えば、カカシがイルカに怒って出ていけと言っても、聞かなくていいという事だ。センカが、そう言ってくれているのだとわかって、イルカは嬉しくなった。想像した最悪の状況は、多分やってこないのだと、安心できた。
「センカさんは、カカシさんが大事なんですね。」
「は?」
 思った事を口にしたら、目を丸くしてイルカを見つめるセンカと目が合った。
「違うんですか?」
 否定されるなんて思わなくて、イルカは問いかけた。
 イルカを雇ったのは、この家にいるといいと思ったからだと言ったけれど、この家にいるのはセンカだけじゃない。多分、センカはカカシの為に何かを考えて、イルカを雇ったのだと思ったのだ。
 違ったのだろうかと、じっとセンカを見ていると、彼は照れたように笑った。
「イルカって、いい子だねぇ。」
 よしよし、と頭を撫でられ、イルカは戸惑ってセンカを見上げる。
 薄茶色の目が、とても優しく笑っている表情が父親と重なり、イルカはぼんやりとそれを眺めていた。
「イルカが産まれたところって、優しくて素直な人がいっぱいいたんだろうね。」
「………センカさん?」
 自分は、そんな事を考えるような事を言っただろうかと、イルカは不思議に思う。
「なんか、照れちゃったなぁ。」
 ははは、と笑って、センカは調剤室へ足を向け、イルカはその後ろ姿が見えなくなってから、店へと足を向けた。
「………」
 センカに撫でられた頭を触ってみて、イルカは笑みを浮かべた。頭を撫でられて喜ぶような子どもではないはずだけれど、なぜだかそれが、とても嬉しかった。

 
 
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