扉の開く音に気付き、そちらをちらりと振り返ったセンカは、にやりと笑みを浮かべた。
「おはよう。」
「………あれが、新しい店番か?」
むっつりと不機嫌そうに口を引き結んでいたカカシが、その表情のままの声で問いかける。
「違うよ。イルカは、俺のお手伝いさん。」
秤に向き直り、センカはそう答えを返した。
「店に立ってる。」
「お前が出掛けてる時は、俺が店に立つ決まりでしょ?」
そのお手伝いをしているのだから、それはセンカのお手伝いの範囲内だと、そう主張された事に、カカシは問いを重ねる。
「俺が帰ってきたら、店に立つ理由はないという事か?」
「そうなるね。お前が帰ってきたら、俺がシャカリキに薬作る理由もないし。」
問いを重ねようとするカカシに、センカは向き直ると、真直ぐにカカシを見据える。
「イルカが何処で何して今まで生きてきたかとか、何でここにいるかとか、そういう事は俺は全然聞いてない。だけど、あの子を見たら、それでわかる事もあるでしょ。お前は、そうやって人の事を考えてあげる事も学びなさい。」
その口調の強さに、カカシは戸惑いながらセンカの様子を伺う。
今まで店番が入る度に、それを追い出す切っ掛けになったのが、カカシである事を責めているのだろうとはわかる。だが、今になってそれを責める理由がわからなかった。
「あれは、薬師なのか?」
「見て考えろって、今言っただろう?」
ため息を一つついてそう答えたセンカは、呆れたように言葉を繋ぐ。
「お前、そこらの誰かの話となると、考えるのを嫌がるのは、いつまでたっても変わらないねぇ。」
カカシはその言葉に沈黙を返し、くるりと背中を向けた。
言われた事が間違っていない事を、カカシもわかっている。身近にいる人間の事だけでなく、それより外にいる人間の事も理解するように努めてこそ、薬師としてもより良い人間になれるのだと、そう言われてきた。それでも、カカシにはそれが面倒なものとしか思えなかった。
もともと、薬師になりたくて修行に入ったわけではなく、街に薬師がやって来たから、それについていっただけだと言うのが一番近かった。あの頃、カカシは自分が属しているそこが、本当に自分がいるべき場所だとは思えなかったのだ。だから、彼らを見た時、それについて行かなくてはならないと思った。薬師になりたかったのではなく、そこが居場所だと思ったのだ。だから、薬師としての正しい道というものは、カカシにとってはあまり意味を持たなかった。レカントの元を離れるのならば、人と接する事のない場所が自分の居場所なのだと思った。センカが共に行くと言った時、センカならばいいと思った。カカシにとって薬師とは、人の為に薬を作るものではなく、自分の居場所を作るものだった。
そのセンカが、店番ではなく、自分の手伝いだと言って人を雇った。その事が、カカシにはどうにも納得できなかった。弟子にとったのだと言われたならば、まだわかる。だが、これまで何年も必要なかった手伝いを、わざわざ今になって雇う事がおかしいとカカシは思う。故に、今になって、誰かの事を考えろと言うセンカの意図も、カカシにわかるはずもない事だった。
「イルカは俺のお手伝いさんだから、イルカがお前にしてくれる事は、イルカの好意だと思う事。いいね。」
「わかった。」
背中に掛かった声にそう返し、調剤室を出て歩きながら、カカシはイルカという名であるらしい青年の姿を思い出す。
黒い髪と目。肌は随分日焼けして見えた。凱華には、その色を持つ人間はまず生まれない。少なくともカカシはこれまでにその色の持ち主を見た事がなかった。その色が出るのは、垓紫の人間だけだという話も聞いた事がある。あの国は、他所の大陸とつながりがあり、その血が混ざっているからだとも言われている。垓紫の中でも、凱華と接する西の人間にも、やはりその色は出ず、大陸の果てである東の人間にだけ、それが出ると聞く。ならば、その色を持つイルカは、垓紫の人間だろう。だが、垓紫の人間は殆ど国を出ないと聞く。旅に出る事はもちろんある事だが、移民はまずない。旅に出た人間が一つの所に留まり、期限も切らずに雇われるという事はあまり考えられない事だろう。更に、垓紫の薬師は国に管理されているという話も聞く。垓紫での薬師の扱いはそれほど高くないと言うが、管理されているならば、そんな人間が国外で薬師の家に雇われると言うのは、何か理由がありそうな気がする。
「……スパイとか……有り得ないか。」
頭に浮かんだ事を、そのまま否定し、カカシは苦笑を浮かべる。善良そうな顔をしていた。カカシの顔も知らなかったようだった。だが、とカカシは考える。
凱華の薬師の扱いは高い。それは、その技術が突出しているからでもある。反面、垓紫の薬師のレベルは低いと言われている。土地が力を持っていない事で、薬草が少ないというのが、その理由の一つでもあると言う。ならば、その国から出てきた薬師が、新しい技を手に入れようと考えてもおかしくはないかもしれない。スパイとして技を盗もうという気ではないとしても、その技を学ぼうとする事は当然の行動で、人の命を預かろうという人間にしてみれば、当然の義務だ。雇われた時に、彼がセンカをセンカと理解していたかどうかはわからないが、名前を聞けば、それがどんな人間であるかはわかる事だろう。ならば、彼はその技を学んで国へ帰るかもしれない。そうなれば、それはスパイと変わらないような、そんな気がした。
「……嫌な考え方だな……」
自分は高名な薬師の元で修行し、周りには薬材は溢れている。限られた物しかない場所で必死になっているであろう人々に対して、あまりに心の狭い態度だとは、カカシにだってわかる事だ。師について旅をした時に、凱華がどれほど恵まれているのかを知った。その人間が、技を学ばれた事くらいでとやかく言うのは心が狭いと言われるだろう。垓紫の人間ならば、たとえここで技を学んだとしても、それを活かす薬草を手に入れる事もできないかもしれないと言うのに。
カカシはため息をついて、庭へ足を向けた。
店を閉め、金袋と売り上げ台帳を持って居宅へ戻ったイルカは、そこにいたカカシを見て、今朝の事を謝らねばと、口を開いた。
「あの……」
「イルカ。お茶いれて。」
途端に、奥からセンカに声をかけられ、イルカは今朝の指示を思い出した。
『謝ってはいけない。』
イルカは、基本的に謝罪の言葉を口にするのが人よりも早い。もちろん、自分が全く悪くなければ、どんなに言われても謝る気はないが、自分に非があったのならば、相手が謝るよりも先に謝ってしまう人間だ。そうでないと、どうにも気持ちが落ち着かないのだ。
「……はい…」
怪訝そうに自分を見るカカシに、少しだけ頭を下げて、イルカは荷物を机の端に下ろすと、台所へと足を向ける。
「謝っちゃ駄目だって、言ったでしょ?」
「……すみません……」
言い付けを忘れていたのは、確かに悪い事なのだ。だから、謝る。イルカにとって、これは当然の事で、心にもない謝罪を口にしているわけではない。イルカにとって、これは正しい事だ。カカシに謝らない事は、間違っている事。だけれど、センカの指示に従わない事も間違っている事になる。イルカはそう考えて、小さくため息をついた。
「イルカにはわからないかもしれないけど、これは重要な事なんだよ。」
夕食の支度を進めるセンカの横で、イルカは香草茶の用意をする。センカの好きな薄荷茶は、実はイルカはあまり得意ではないのだが、違うお茶を用意するのも面倒で、ずっと同じものを用意していた。
「俺が、謝らない事が?」
「慣れてない人がいるって事の方かな。」
「……よく、わかりません。」
「うん。だから、イルカは気にしないで普通に生活してればいいから。カカシに謝らないように気をつけてね。」
「…………はい。」
にっこり笑うセンカを見ながら、イルカは胃の辺りがもやもやするのを感じながら、お茶の用意を持って、机へ戻っていった。
「どうぞ。」
席についているカカシの前にカップを出すと、戸惑ったような顔でカカシはカップを見つめ、イルカは首を傾げた。
「……薄荷茶、嫌いでしたか?」
問いかけると、困ったような顔が向けられ、イルカはお茶をいれ直そうかと来た場所へ目を向けた。
「カカシ。」
センカの声が掛かり、カカシは首を振って、口を開いた。
「ありがとう。」
随分と久しぶりに発した言葉に返ったのは、安心を表わす笑みで、カカシはイルカに気付かれないように、小さくため息をついた。
カカシは、薄荷茶が苦手だった。それ単体は嫌いではない。だが、食事時にそれを飲むのは、苦手なのだ。薄荷の匂いと、料理の匂いが混ざると、なんだがとても複雑な気分になる。だが、レカントの元では、それが普通であり、カカシはそれが苦手だと言えずに今まで来ているのだった。
それを、やっと気付いてくれた人が出て来たと言うのに、センカの声に、言われた事を思い出した。
『イルカのする事は、イルカの好意と思う事。』
人の好意は無下にしてはいけない。それは、カカシがレカントの元へ行くよりも先に教え込まれていた事であり、センカにも叩き込まれた事だ。カカシは人付き合いが好きではないが、好意に対するとるべき行動は理解している。ましてや、そうしろと指示されてもいて、見張りがついていては、抵抗のしようがない。それに、本当にイルカは好意で用意してくれたに違いない事がわかってしまったのだから、更にどうしようもなくなってしまった。
嫌いなのだと言ったら、イルカはきっと戻ってもう一度別のお茶を用意する事だろう。カカシは、それでは、なんだか申し訳ないような気がしたのだ。
「はい。お待ちどうさま。」
センカが料理を運んで来て席につくと、イルカもそれに続いて席についた。
「いただきます。」
ぺこりと頭を下げて、イルカはスプーンを手に取る。カカシはそれを見て首を傾げながら、スプーンを手に取った。垓紫のしきたりだろうかと、そんな事を考えながら、料理を口に運ぶイルカの表情が、微妙な事に気付いた。
「イルカ、馬に乗れる?」
隣から掛かった声に、イルカは首を横に振った。
「馬車なら御せますけど。」
「……そっか……。昨日、町でいい馬見つけたんだよね。イルカ、町まで歩いていくでしょ?馬があったら、もっと便利かと思ったんだけど。」
この家にいる動物は、センカとカカシの馬の2頭と、雌牛と雌鳥が2羽である。イルカに馬がいないのは、馬を連れて旅をする程、イルカの財布に余裕はなかったからだ。ここへ雇われた時も、当然持ち合わせなんてあるわけもなかったし、イルカにとっては、町までの道のりも、それほど気になるような距離ではなかったのだ。
「馬車か……」
「俺は、歩きでも問題ないですけど。」
雇われ人としては、自分の為に金を使われるというのは落ち着かない。イルカの着ている服も、実はセンカが用意してくれたものだったりする。給料の先払いだと思えばいいと言われて、それで納得したのだが、服と馬とでは値段に差があり過ぎる。ましてや、馬車となったら、更に金が上乗せされるのだ。それでは申し訳なく感じる。
「でも、荷物が多い時、馬車に乗せてもらってるでしょ?」
「…ぅ……」
誰がばらしたんだろうと思ってから、新参の自分よりも、センカの方が町の人も話し易いに違いないと思い至る。純粋な好意で、イルカにも足を用意してやれと言う人もいるかもしれない。町の人も、村の人も善良な人々だ。そう考えるのも、無理があるとは思えなかった。
「あれは、馬車馬には向かないんだよねぇ……」
センカの呟きに、イルカはほっと息をついた。自分の為の無駄金は、回避する事ができたらしいと、そう思ったイルカの安心は、あっさりと覆されるのだが、今のイルカに、それがわかるはずもなかった。
「……センカ、塩が足りない。」
話が一区切りついたところへ、カカシが口を挟んだ。
「お前ねぇ……それくらい、自分でしなさいよ。」
ため息をついて、センカは席を立つ。それを見送って、イルカは首を傾げた。
凱華の料理は、垓紫の料理と比べて味付けが薄い。国を出てから、イルカはそれをしみじみ感じていた。領土が隣り合っているからと言って、味覚の差と言うのはあるもので、イルカにとって、凱華の料理はどこか物足りないものだった。それは、この家の料理にも言える事だったが、家主の料理に文句を言うなんて事はできるはずもなかった。もちろん、食べられない程味が違うわけでなく、物足りないだけなのだ。料理は美味しい。ただ、もう少しだけ、味がキリっとしていればいいと、イルカは思うのだ。そして今日は、もう少しだけ塩が入れたいと、思っているところだった。
「カカシさん、凱華の人ですよね?」
「そうです。」
返った声は、どこか不機嫌そうで、イルカは声を掛けた事を後悔した。凱華の人間でも、味覚の違いはあるはずだ。イルカの村にも、辛いものが全く食べられない人もいたし、子供は大概辛いものは苦手だった。ならば、カカシがイルカと同じ判断をしたところで、おかしいという事もないかもしれない。カカシは薄荷茶が苦手そうにしていたし、その辺りの味覚が似ているという事かもしれないと、そんな事を考えた。
「ほら。」
塩の壷を差し出したセンカからそれを受け取り、カカシはスプーンの柄の先で、少しだけそれを皿の上へ落とした。
「イルカさんは?」
「……ありがとうございます。」
当然のように差し出されたそれを、イルカは有難く受け取り、センカに失礼でない程度の塩を入れた。
「塩分の取り過ぎはよくないからね。」
「はい。」
おとなしく二人で頷いて、イルカは席を立って壷を戻しに行く。
「………よくできました。」
「何が。」
不機嫌そうに返されて、センカは首を振った。
「褒めてあげてるんだから、嬉しそうにしなさいよ。」
イルカに聞こえないよう、小さく交わされる言葉に、カカシは更に不機嫌そうに食事を進めた。
垓紫の人間と凱華の人間の味覚が違うのは、旅をしている間に気付いた。最初は、垓紫の料理の辛さに辟易していたカカシだったが、旅を続ける間にそれにも慣れ、凱華に戻った時は、暫くその味が懐かしかったものだ。その後は、辛いものはあまり求めなくなったが、塩で締まった料理の味はなかなか忘れられなかった。
そんな事を思っていたカカシは、イルカが微妙な顔をして食事をする様子を見て、味が足りないのだろうと思い至ったのだ。料理は自分の好みのものが食べたいものだし、一人で主張するよりは、二人で主張した方が効き目がある。そう思って、カカシは声を出したのだった。
次の朝、ゆっくりと起き出して来たカカシは、自分の前に用意されたお茶が、薄荷の匂いをたてていない事に驚いて、イルカの顔を見やった。
「おはようございます。」
笑ったイルカの席に置かれているのも、匂いのないお茶だった。
「…………おはようございます……」
もしかして、昨夜の礼なのだろうかと思うカカシの後ろに立ったセンカが拳を握りしめた。
「早くないっての!」
ぱこん、と頭を叩かれ机に伏しながら、カカシは面白い人間が来たものだと、そんな事を考えた。