朝起きだして窓の外へ目をやると、必死に水桶を運んでいる黒い頭が視界に入った。
「早いねぇ………」
センカが聞けば、お前が遅いんだと言いそうな事を呟いて、カカシはベッドの脇に置かれた服を手に取る。
泥と血の染みがついたそれを、必死になって洗ったのはイルカだった。捨てようとしていたカカシから、奪うように受け取り、大事そうに洗っていた。その姿を見ながら、なんとなく、あまり裕福な生活はしていなかったのだろうと思った。その後、夕方に調剤室から出ると、綺麗に汚れの落ちた服を渡された。にこりと笑って、簡単に物を捨ててはいけませんと言った様子が、やけに印象的だった。
イルカの存在は、自分が恵まれているのだろうと、カカシに思わせる。イルカがそう言葉にするわけではないが、物を扱う様子を見ていれば、そう思わずにはいられなかった。
特に、水を扱う姿を見ているとそう思う。カカシやセンカは、井戸から汲み上げた水を移しかえる時に、それをこぼす事を気にしたりはしないが、イルカは一滴もこぼさないようにと注意を払っている。洗濯の時も、できるだけ少ない水で済ませようとしている事が伺える。
水がある事、土に力がある事。
凱華では当たり前の事が、当たり前ではない場所があって、当たり前でない人がいる。当たり前すぎて、それに感謝する事もないカカシにとって、イルカの存在はそれを気付かせてくれる貴重な人間だった。イルカの口から感謝の言葉が出る度に、自分がどれ程の間、そんな気持ちを忘れていたのかと思わされる。
「あ、おはようございます。」
自分よりもずっとずっと早くに仕事を始めているだろうという人から、笑ってそう挨拶されるのに、カカシは最近やっと慣れる事ができてきた。だが、それに笑って返すなどという芸当ができるわけもなく、寝起きの顔で頷く事しかできなかった。
「今、センカさんが朝ご飯の用意してます。洗濯物あったら、出しておいて下さいね。」
「……自分でやるから、いいよ。」
そう答えると、イルカが困ったような表情を浮かべた。カカシはそれに罪悪感を感じ、言葉を付け足し、説明をしなくてはならないと思った。センカが何処で伺っているか知れないし、イルカの困った顔はどこかカカシを落ち着かなくさせるのだ。
「それくらいは自分でしないと、俺が何もしてないみたいでしょ?」
その言葉に、イルカは表情をころりと変えて、笑みを浮かべる。それを見て、カカシはイルカに気付かれないように、ほっと息をついた。イルカは、笑っている顔の方がいいと、ぼんやりそんな事を考えて、カカシはそう考える自分に、わずかに戸惑った。
「でも、カカシさんが帰ってきたから、俺は店番しなくてもいいし、する事ないと、落ち着かないんですけど。」
「…………じゃぁ、お願いします……」
「はい。」
イルカは満足そうに頷いて、空になった水桶を持って井戸の方へ歩いていった。
「充分働いてると思うけどねぇ……」
世の中には、絶えず仕事をしていないと落ち着かない人というのがあるらしい。生憎、センカもカカシも、そこまで勤勉な人間ではなかったが、レカントの弟子の中には、そういう人もいたものだ。しかも、それがわざとらしくなく、当然の事をしている顔で、朝から晩まで何かをしていた。その上それは無駄ではなくて有難かったのだが、カカシは一生そんな人間にはなれないだろうと、そんな事を考えた。多分、イルカもそんな人間なのだろう。あれは多分、雇われているから働いているのではなく、働いていないと落ち着かない人間だと、カカシはそう思った。
すたすたと足を運んで食堂へ辿り着くと、奥にいたセンカがにこやかに笑ってやってくる。それだけで、先程のやり取りを見られていたのがわかり、カカシは盛大にため息をついた。
「遅よう。カカシ君。」
耳を横へ引っ張られ、カカシはため息でそれに返した。
「お前が寝てる間に、イルカが碧たちの餌やりまで済ませてくれたよ。」
「……アオの世話は、センカの仕事だろう。」
碧とは、センカの馬の名前である。この家では、馬の世話だけは持ち主の仕事と決められているが、他の家畜の世話は、本当ならばカカシの仕事だった。
「頼んだわけじゃないんだけど、やってくれるんだよね。」
「……大丈夫なのか?」
世話をしているという事は、大丈夫であるという証なのだが、思わずそう問いかけ、カカシは外へと視線を向けた。
「そりゃもう、驚く程おとなしい馬になっちゃってね。俺も驚いてるんだけど。」
いい加減離せと、センカの手を引き離し、カカシはその言葉に驚きながら頷いた。
碧という名前のその馬は、碧の瞳の牝馬である。カカシの馬である、牡馬の緑が近寄ろうとして、蹴倒されたという過去のある馬で、相当の牡嫌いでもある。当然と言うべきなのか、緑の主人のカカシの事も嫌っており、馬屋に足を踏み入れるだけで威嚇される事もあるような馬である。センカが碧を手に入れた時は、そうでもなかったと言うのだが、とにかく現状では、碧は牡嫌いで人嫌いな馬だ。それが、男であり人間であるイルカにおとなしくしていると言うのは、かなり驚くべき事だった。
「碧が威嚇したら、怒ったんだよ。餌を持ってきてあげたんだから、おとなしくしなさい。って。食べなかったら、食べなさいって怒るし。そしたら、おとなしくなっちゃってね。」
「言って聞くような馬じゃないだろ?」
「そりゃもう、すごい怒りだったからねぇ。店まで聞こえるくらいの怒鳴り声で、イルカの声だって事も信じられなかったけど。」
自分よりも恐ろしいものに出会って、降参したという事かと、カカシは納得する。だが、あのイルカが馬に向かって怒っている姿というのは、想像できるような出来ないような、微妙なところだった。
「まぁ、カカシの事、殴り倒すの見た時に、納得できたけどね。」
案外、思い切りのいい子だよね。と笑い、センカは奥の厨房へ入っていった。
朝食の始まるのを、いつものように一人先に席について、カカシはぼんやり待っていた。
「どうぞ。」
にこりと笑ってお茶を差し出すイルカからカップを受け取り、カカシはイルカが黒い手袋をしている事に気付いた。手袋と言うか、甲当てと言うのか、黒い革の手袋の指を切り取ったような品だ。所々傷がついており、随分と使い込まれた感じのするものだった。
「カカシさん?」
「……ああ、ありがとう。」
礼を求められているわけではないのはわかったのだが、とりあえずそう返して視線を動かすと、イルカが少し慌てたように手を引っ込めるのに気付いた。
「どうしたの?」
二人が言葉もなく気まずそうにしているのに気付いてか、朝食を運んできたセンカが声をかけ、イルカは首を振って席についた。
「ちょっと、ぼーっとしてただけ。」
「人より遅く起きてきて、寝ぼけてんじゃないよ。」
カカシの耳を引っ張ってセンカは言い、イルカがそれを見て笑うのを確認すると、カカシは小さく息をついた。
垓紫の人間は、手の甲を隠すのを嫌がったような記憶がカカシにはある。手の平を切った男の手当てをした時、包帯を巻こうとしたら、強硬に抵抗された。そんな恥曝しなまねができるかと、そんな事を言った記憶があるのだ。結局、手の甲を隠すという事が、垓紫でどんな意味を持つのか、カカシは知る事のないままそこを離れる事になったが、あれは確か、垓紫の北の地方の事だったから、イルカが暮らしている辺りがどうかは知らない。それでもなんとなく、イルカが手を背中に隠すようにした姿が気に掛かった。
「いただきます。」
カカシの知らない習慣を持っているイルカにとって、手を隠すと言うのは、どんな意味があるのだろうと、ぼんやりと考えながら、カカシは朝食を口に運んだ。