家を出たイルカは、カカシがそのまま着いて来る事に気付き、首を傾げた。
カカシが町へ出る時、徒歩で出掛ける事はまずない。愛馬の緑で出掛けるのだ。乗馬用の彼らは、その用がない間は厩に繋がれているため、運動をさせる意味でも、センカもカカシも家を出る時は、余程の近場でない限りは馬に乗っていた。
「カカシさん、緑は?」
「今日は、イルカさんがいるんですから、歩きですよ。」
答えると、イルカが少し表情を暗くしたのを見て、カカシは言葉を続けた。
「それとも、前に乗っていきます?」
「っ…!」
かぁっと顔を赤くしてイルカは口を開いたが、言うべき言葉が見つからないのか、口をぱくぱくさせている。
カカシはその表情を見て思わず吹き出していた。怒るかもしれないと思って口にはしたが、まさかここまでの反応をくれるとは思わなかったのだ。
馬に乗る時、同乗者を前に乗せるか後ろに乗せるかは、大体において、その人間をどう扱っているかに依るものだ。
成人した男の同乗がまず起こり得ない事はおいておき、普通は男なぞ後ろに乗せるものである。落ちないように前に乗せるのは、小さな子どもか大切な女か、というのが一般的な考えである。
「……そんなに、笑わなくてもいいじゃないですか……」
カカシの笑う姿に、女扱いを怒る事もできず、イルカは小さくそう言った。
「すみません。赤くなるとは思わなくて。」
「……そんなに嫌なら、歩いていきますよ…」
別に、元から歩いて行くつもりだったのだし、とイルカは腹の中で呟き、自分の言葉に少し苦しい思いをし、その理由がわからずに戸惑った。
「今日は、歩いて行かなくちゃならない理由があるんです。イルカさん乗せるのが嫌なわけじゃないですよ。」
カカシは笑ってそう言い、イルカはその返答にほっと息をつき、そこでどうして安心するのだろうと、更に戸惑いを深める。それでも、できるだけそれを表に出さないように気を使い、口を開いた。
「でも、俺なんか乗ったら、緑が可哀想ですね。」
「大丈夫ですよ。あいつ、あれで相当の重量に耐えますから。センカと乗っても、びくともしません。」
軽くそう返したカカシに目をやり、イルカは幾らか申し訳ないような気持ちになった。買い物用の袋を担いだイルカに対し、カカシは小さな袋を腰に下げているだけで、本当に、イルカに付き合う以外の理由は見えなかった。
「カカシさん、俺は別に一人でも大丈夫ですけど。」
「俺も用があるんで、気にしないでください。」
すぐさま返った言葉に、イルカは小さく頭を下げた。
初めてカカシに会った頃は、あまり言葉を交わす事もなかったが、最近では少しずつ会話する時間も増えた事を、イルカは少しだけ嬉しく思っていた。
センカもカカシも高名な薬師であるが、そんな事を鼻にかける様子もなく、イルカに知識を分けてくれるばかりでなく、普段の生活にしても、随分気を使ってくれている。
カカシは特に、習慣が違う事も見逃してくれているし、味覚の違いもわかってくれる。それが嬉しくて、安心する。
そして、客に対応している時は滅多な事で笑わないカカシが、センカに向けるのとは違うけれど、自分にも笑ってくれるのが嬉しい。今も、隣で歩いていてくれるのが嬉しいと思う。
「それに、イルカさんのお手伝いもしないと、センカに怒られるから。」
「……そんなに、頼り無いですかね。俺。」
小さくため息をついてイルカは言い、まるで子どもにするかのように世話を焼いてくれるセンカを思うと、嬉しいような気恥ずかしいような、とても不思議な気持ちになる。
イルカだって、大人として認められる年齢であるし、町へ買い物へ行く事くらい、今までにだってあったことなのだ。
「イルカさん、今日は何を買うつもりですか?」
問いかけられ、イルカは顔を上げてカカシの表情を伺い、それが笑いを含んでいる事に気付いて小さな声で答える。
「…村に薬草を送って、服を少し揃えて…」
「センカは、武器と服を用意させたいみたいですよ。人の物を優先させそうだから見張ってろって。」
その言葉に、イルカは顔を赤くして俯いた。センカの心配通り、イルカは自分の物でないものを一番に買おうとしていて、武器の事など頭の隅にもなかった。
「………でも、薬草は村に必要なんです。」
「それもわかるんで、センカが納得するように、服と武器も用意してくださいね。お金、どれくらい持ってきました?」
言い含めるようなカカシの言葉に、イルカは頷き、自分が村で世話をしていた子供達になったかのような、なんとも言えない複雑な気持ちを味わった。
「貰った半分は、置いてきました。」
「そうですね……武器は半金で依頼ができると思いますから、なんとかなるでしょ。」
「武器は、別にいいです。暫く旅には出られないだろうし。」
もっと金をためてからでないと、旅に出てもまた金に困る事になる。そう思ってイルカが答えると、カカシは首を横に振る。
「採取に出なくちゃならなくなったらどうするんです?」
その言葉に驚いて、イルカはカカシを見上げて問いかけた。
「連れて行ってくれるんですか?」
採取の旅は、各薬師の秘密となる領域の事だった。
薬草の採れる場所、薬材になる動物の生息地、無駄なくその場へ行ける道筋。そういうものは、師から弟子へ教えられる事でもあり、それぞれが探し出す事でもある。
大勢の薬師が同じ場所へ出掛ければ、手に入るものも少なくなる為、旅には余程身近なもの以外同行させる事はないし、それを人に語る事はない。
「あ……っと………イルカさんが馬に乗れるようになったら……かな…」
カカシの返答を聞き、イルカは自分の行動を恥じた。
別に、カカシは一言だってイルカを連れて行くとは言わなかったのだ。それを、勘違いして秘密を教える事をねだったかのようだと思う。
「ごめんなさい。」
謝るとイルカに、カカシは慌てて首を振った。
言葉を濁したのは、自分が以前に考えた事を思い出したからで、更に言えば、イルカがあまりにも嬉しそうな顔をしたせいだ。
カカシは一般的な薬師とは違い、自分の採取の旅の道筋を人に隠す気はあまりないし、以前にも考えたようにイルカにならば、教える事も構わないのではないかという気にもなっていた。
だから、思い切り肯定しそうになった自分にも驚いて、思わず口に出したのが否定に近い言葉だっただけなのだ。
「いや、でも、イルカさんが行きたいなら、いいですよ。」
緑なら、二人のって荷物積んでも平気ですし。と、カカシは続け、表情を曇らせたイルカの様子を伺う。
「近場の薬草取りなら、歩いても行けますしね。」
なかなか顔を上げないイルカに、更に言葉を重ね、カカシはなんとかイルカが笑ってくれないものかと願った。
「じゃ、それ、お願いします。」
やっと、イルカが頷いて笑い、カカシはほっとして笑みを浮かべた。
イルカの感情表現は真直ぐで、落ち込んでいる姿を見ると、どうにかして浮上させたい程に萎むのだ。そんな人間は、これまでカカシの周りには存在していなかったせいで、イルカの事がどうしても気にかかるのだと、カカシは理由付けていた。
「森の奥に、炎花草の群生地があるんですよ。夏になると、真っ赤になって見事なんです。」
「俺、炎花草見た事ないんです。綺麗ですか?」
人里に近い薬材の生息地は、さして秘密にはならない。町の人間が知らぬ間に採取する事もあり、薬師も利用者が多い事を踏んで採取を行う、誰でも使う薬草園のようなものである。
「赤すぎて怖いって言う人もいるらしいですけど、俺は綺麗だと思います。」
炎花草は、赤とオレンジ色の混ざった花を咲かせる草で、その花の形が炎に似ている事から、そう呼ばれている。根をすり潰して切り傷に塗ると、目覚ましいとは言わないまでも、良く効く傷薬になるのだ。
「本に、群生地の景色は一面に火が燃え盛っているように見える。って、書いてありました。怖いって、そういう怖さなんでしょうね。」
イルカはそう言ってまだ見た事のない景色を思い描く。
垓紫の大地に、群生地と呼べる程の緑は殆どなかった。だから、イルカは一面の緑にすら感動したのだ。それが赤く染められていたら、一体どれほどの感動だろうかと思う。
「じゃぁ、少なくとも夏まではここにいなくちゃいけませんね。」
「はい。」
イルカはにこりと笑って頷いた。