「蒼牙。」
「……大丈夫か?」
 部屋へ入ってきたその姿を見て、アカシはにこりと笑って頷いた。息せき切って走ってきたらしい姿は、それが忍びの姿かと、笑ってやりたい程にいつもの蒼牙とは違っていて、それが、彼の心配を現わしているのかと思うと、アカシはそれがとても嬉しかった
「赤ちゃん、見た?」
「見てきた。」
 入れ代わるように傍についていてくれた女性が立ち上がり、蒼牙は開いた枕元の椅子に腰を下ろした。
「名前、決めた?」
「決めた。」
 二人で顔を見合わせて笑う。小さな愛おしい二人の子ども。一目見て、名前は決まった。産まれてくるまでも、どんな名前にしようかなんて考えた事はなかったけれど、産まれてきた子どもは、自分の名前を主張したから、それがその子の名前なのだと、二人はそう思ったのだ。
「明日、届けてくるな。」
「お願いね。」
 蒼牙が笑うアカシの頬に手を伸ばし、そっと撫でると、アカシは少し驚いたように目を開いて、おかしそうに声をたてて笑った。それを見て、蒼牙はほっと息をついた。
 子どもが生まれたのは3日前の事だったらしい。その間一度も連絡は入らず、蒼牙が任務を終えて陽の当たる場所まで戻ると、自分よりも先に友人がその事実を知っていた。その上、子どもの顔を見たのも彼が先だった事は、どこか悔しい事実であり、蒼牙は慌てて病院へと駆け付けたのだ。
 不安ではないかとか、苦しくないかとか、色々考えたのだが、思いのほかアカシは元気で、体中の力が抜けるような、安心感が満ちてきた。
「起きていても平気なのか?」
「大丈夫よ。寝ているばかりもいけないんですって。」
「……誰よりも先に祝ってやろうと思ったのに。間が悪いったらないな。」
 ため息まじりにそうこぼし、蒼牙は枕元の林檎の山に目を移す。蒼牙の知らぬ間に話を聞いて駆け付けた人々からの贈り物かと思うと、どうして一言こちらへも知らせてくれなかったのかと、恨めしくなった。
 彼らにしてみれば、蒼牙が知らないはずはないと思っていたのかもしれないが、それでも何かあるだろうと、そう思ってしまうのだ。
「剥こうか?」
「綺麗なのでね。」
 指を差した左手と、ホルダーに伸びた右手に笑いながら、アカシは答える。どこか抜けているけれど、蒼牙が気を使ってくれているのだと思うのは嬉しく、自分が傍にいられなかった事を悔やんでいる姿は、どこか微笑ましいとさえ思えた。
「……ああ……」
「今日から、お父さんなんだから、ちゃんとしてよ?」
「まっかせなさ〜い。」
 笑って蒼牙は林檎を手に取り、クナイに伸ばした手を戻し、棚の上の包丁でクルクルと器用に林檎の皮を剥きはじめる。
「退院はいつ?」
「あと二日くらいでいいって。」
「山神上忍に報告は?」
「昨日来てくれた。蒼牙が一番最後。」
「……ホントに?」
 盛大にため息をついて、蒼牙は皿の上に林檎を削ぎ落としていく。
「かっこ悪〜。」
「仕方ないじゃない。夫がまだですから、見せられません。なんて、言えないでしょ。」
 盛大にため息をつく蒼牙に、アカシは笑みをこぼす。
 一人で子どもを産むのが不安だとか、そんなのは別になかったし、任務で長く離れているのはよくある事だったから、今更心細いなんていうのもおかしな事だと思ったけれど、それでも、顔を見て、声を聞いたら安心した。
 いろんな人が心配してくれて、頑張ったねと言ってくれたけれど、蒼牙が傍にいてくれることは、そのどれにも勝る事だった。ふゆふゆとぼやけた人に見えるけれど、それだけじゃない事は他の誰よりもアカシが知っている。
 でも、今は、そのぼんやりした姿が嬉しい。気遣って、笑わせてくれる事が嬉しかった。
「そうじゃなくてさ、こう、あ、子ども生まれたかも。って感じで、虫の知らせとかあってもいい気がしないか?っていうか、なんで俺、見張りつけとかなかったんだろう。」
 そうしたら、たとえ傍についていられなくても、子どもが生まれた事くらいはわかったはずなのだ。
「予定日より早かったもの、仕方ないわ。」
 差し出された皿から林檎の欠片を摘んで、アカシはそれを口に運ぶ。
「この失態を取り戻すためにも、目一杯大事にしてやらなくちゃ、だな。」
 笑う蒼牙の顔を見ながら、アカシはにこりと笑って頷いた。
「でも、甘やかすのはなしよ。」
「はーい。」
 林檎を口に運んで、蒼牙は笑ってそう答えた。





「イルカ、危ないから庭に出ちゃ駄目よ。」
「はーい。」
 居間で転がりながらひとり遊びをしていた息子が、とてとてと台所のアカシの元までやってきて、得意げに紙を広げた。
「見て、母ちゃん。イルカも描いたの。」
 えへへ。と笑って、示されたそれは、玄関に描く転地陣だった。
 ぎこちなく、所々間違ってはいるが、おおまかな所は間違っていない。
 覚えなさいと言った覚えもなく、それを見ているとも思っていなかった息子の行動に、アカシは驚いて言葉を失った。
「母ちゃん?」
 褒めてくれないの?と、問いかけるような視線に、アカシは慌てて笑みを浮かべた。
「よく描けたわね。イルカ。でも、これはまだイルカには早いから、もう描いちゃ駄目よ。」
「……ん……」
 しゅん、と落ち込んだ息子に視線を合わせて、アカシは話し掛ける。
「これはね、忍者の使う技だから、イルカは使っちゃいけないの。もし、イルカが使ったって知られたら、怒られるわよ。」
「いっぱい怒られる?」
「イルカが泣いても許してもらえないかも。」
「………もうしない。」
 それだけで涙ぐんでいる息子に、アカシは笑みをこぼす。
 任務を休んでいられたのは、子どもを産んでから1年の間だけで、その後は、頻繁に家をあける任務も割り当てられる元の生活に戻ってしまった。
 子どもは長く離れていると、母親だという事を忘れてしまうかもしれないと聞いた事で、不安になった事もあったが、今のところ、息子はきちんと自分を母親と認識してくれている。
 どちらかと言えば、いる時が少ないだけに、必死に傍にいるようにも見えると、蒼牙には言われた。そうして傍にいようとしてくれる息子は愛おしかった。
「じゃぁ、あれもだめ?」
 指差す先の散らかった居間には、幾つかの紙が綺麗に並べられている。
「何を描いたの?」
「父ちゃんの部屋にあったの。」
 手を引かれてアカシは居間へ移動する。息子が一人で遊んでいる事に安心していたが、その内容まで気を使ってやらなくてはならないとは、まだ考えていなかった。
「………」
 紙の上には、辿々しく文字が書かれていた。
 綺麗に広げられた巻物の文字を、必死に書き写したらしいその紙は、指の汚れの跡がついて使い物にはならないと思われたが、とりあえず形にはなっていた。
「これも駄目だと思うわ。……母さんには、ちょっとわからないけれど。」
「父ちゃんに聞いたらいい?」
「そうね。」
 考えてみれば、小さな子どもが遊ぶような物がこの家には用意されていない。大体が、子どもが生活するには向かない家なのだ。
 その中で、危なくない部屋を子どもに与え、守るようにして育てきたが、何か考えてやらなくてはならないと、アカシはそれに思い至った。
「……イルカは、絵を描くのは好き?」
「うん。」
 こっくりと頷いて、散らかった紙の一枚を引っぱり出して見せてくれる息子は、どこか自慢げに見える。
「これ、父ちゃん。」
 3人の人が描かれた紙を示して、イルカはそう言った。3人は同じ服を着ていて、仲良く並んでいる。
「イルカも、父ちゃんと母ちゃんと同じになるの。」
 そいで、同じ服を着るの。と、自分の言っている事の意味もわかっていないだろう息子が主張する。
 絵心はそれほど豊かではないらしいと、息子の描いたそれを見ながらアカシは笑みを浮かべ、その体を抱き締める。
「蒼牙さんと母さんと、どっちと同じがいい?」
「……んと……」
 考え込んだイルカが、暫くして小さく答えを返した。
「父ちゃんと一緒がいいな……イルカ、男の子だし。」
 でも、母ちゃんと一緒もいい。と、息子は笑う。それがたまらなく、愛おしいと思った。
 母が、自分の為に死ぬのだと決めた時も、こんな風だったのだろうかと、アカシは考える。この子のためならば、自分の命なんて、どれほどのものでもないと、そう思えた。
「イルカ、母さんの事好き?」
「うん。母ちゃん、大好き。」
 にっこり笑う息子を抱き締めて、アカシは笑みを浮かべる。
「母さんも、イルカが大好きよ。」
 イルカを産んだ時、アカシはそれが高波の終わりなのだと思った。たった3代だが、高波は女しか産まれなかった。海野は男一人の家系だと言う。高波は、母が最後だったのだと、産まれた子どもを見て思った。
 アカシは海野の家に入った。だからもう、高波は里の何処にもないのだと、そう思った。
 後悔をしたわけではない。ただ、そう思ったのだ。イルカは、高波の人間ではなく、海野の人間なのだと、そう思った。
 
 
 
 
 
 その日、遅くに帰った蒼牙を迎え、アカシはイルカの描いたものを見せた。
「ああ、上手く描けてるな。」
 巻物から写したその文字を見て、蒼牙はそう言い、転地陣を眺める。
「こっちも、けっこう覚えてるじゃないか。」
「描けと言ったの?」
「言ってないよ。目の前で書いてただけ。」
 アカシのきつい口調を気にする事もなく、蒼牙はそう答え、数枚の紙を見比べる。
「蒼牙さん、イルカはまだ、忍びになると決まったわけじゃないのよ。」
 イルカの行動に、そんな理由があったのかと思うと、アカシは黙ってはいられなかった。
 子どもの教育はどうしようかとか、この先どう育てていくのかなんて、まだ話した事もなかった程に、イルカは幼い。それを、決まった事のように動かされるのは、納得できなかった。
「なるさ。」
 当たり前の事を言うように、蒼牙はあっさりとそう答え、イルカの描いた転地陣に訂正を入れていく。
「まだ、あんなに小さくて、忍びがなんだかわかってない子よ。」
「じゃ、アカシはなんで忍びになったんだ?」
 ひょい、と顔を上げ、蒼牙はそう問いかけた。声は笑っていたが、表情は真剣で、真直ぐにアカシの目を捉えていた。
「……両親がそうだったからよ。」
 母親には憧れていた。父の後ろ姿も、アカシにはとても頼もしいものに見えていた。
 だから、自分も同じ道を行くのだと、疑いもせずにそう決めていた。
 だけど、そう決めたのは、アカデミーに入る少し前の年頃で、今のイルカの年頃には、そんな事は考えもしなかった。
「俺は、父親がかっこいいと思ったから、同じものになるんだって、そう思ってたよ。イルカだって、きっとそうさ。任務に向かう母親はかっこいいし、父親は呑気に傍にいてくれるし、同じになるって、思うに決まってるよ。」
「……でも、もしかしたら、別の仕事に就きたがるかもしれないわ。」
「他の仕事があるのも知らないのに?」
 蒼牙は感情の読めない声でそう言った。その響きの冷たさに、アカシは言葉を失い、蒼牙の顔を見つめた。
「…………それは…」
「イルカは、殆ど家から出た事がない。もう少し育てば、外にも出さなくちゃならないし、他所の子どもとも遊ぶようになるだろうよ。でもさ、きっとその頃に一緒に遊ぶ子どもは、競って忍者になりたいって言うだろうな。親の仕事しか知らない子どもの、将来の夢を確固たるものにするには充分な状況さ。」
「でも…」
「俺たちは、そうやって、忍びになるように決められてるんだよ。だったら、自分が勉強をしてるなんて気付かない頃から、あの子の頭の中に、必要なものを埋め込んでおいてやればいい。あの子は、これが正しいのだと思う何かを手に入れる。そうやって育ててやるのだっていいと思うよ。」
 アカシが子どもの頃は、そうではなかった。だが、蒼牙がそう育てられたのであろうと、そう考える事は容易かった。
 そして、蒼牙は、そう育てられた事を、良くは思っていないのだろう。
 だが、それでも、それを覆そうとはしない。それは、母が捨てられなかったものに似ていると、アカシは思う。
 でも多分、その蒼牙の言い分を拒否できないアカシにも、何かがあるのだろう。里に対する執着か、家に対する執着か、どうしても抗えないものがある。
 心のどこかでは、イルカが自分と同じ道を選ぶ事を望んでいたのだと、それに気付いた。
「イルカには、多分、力があるよ。だから、これはもう、どうしようもない事さ。」
「………でも、まだあんなに小さいのに。」
「イルカが、忍者になるって言うまでは、表向きで教えたりはしないよ。少し、慣らしてやるだけさ。」
 両親と同じになる事を願っても、それが何であるかを理解していないうちは、選んだ事にはならないはずだと、蒼牙は笑った。
「俺さ、一時、自分は忍びにならされたんだって思ってた事があってさ。イルカには、そうは思わせたくないんだよね。忍びになるように仕向けてるのは間違いないんだけど。」
「……まんまと、蒼牙さんの狙い通りみたいよ。あの子は。」
 笑って、アカシはイルカの描いた絵を見せる。
「男の子だから、父ちゃんと一緒がいいって。」
「…………そっか……」
 照れたように笑みを浮かべる蒼牙を見て、アカシは笑みを浮かべる。
 一人で眠る事に何の抵抗も見せないあの子は、自分がどんなに愛されているのか、気付く事があるだろうか。
 いつか、大人になって、自分の子どもを見つめる時に、それに気付いてくれるといいと思う。それまでは、そんな事にも気付かずに、それを当然のものとして育っていってほしいと、アカシは願う。
「俺も、かっこ良くならなくちゃ駄目だな。」
「蒼牙さんは、充分、かっこいい父親だと思うわよ。」
 アカシが笑うのを見て、蒼牙は小さく息をついて、その肩を抱き寄せた。

 
 
 
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