パチリと目を開けて、イルカは部屋の中がまだ暗い事を確認する。
 夢の中で、誰かが声を掛けるのを聞いて目覚めると、大体がそれは真夜中の事。部屋の窓を覆う雨戸の向こうに、人の足音が聞こえた。
「……父ちゃん……」
 その足音を、イルカはよく知っていた。走る足音なんて、昼間に聞いた事はないけれど、それでもわかるのだ。
 二つの足音の一つは父のもの。襖の向こう側の気配は母のもの。そして、イルカの部屋を囲む結界は、イルカを周りから守るものだ。
 両親は、イルカがこの部屋に入って眠りにつくと、部屋に結界を張る。イルカは、朝になってそれが解かれるまで、この部屋から出る事ができない。
 それは、夜中に時々こうして目を覚ますようになってから気付いた事だった。
「………」
 布団の中で丸くなって、イルカは目を閉じる。家の外の気配が一つに減ると、足音が遠退いていった。
「呼んだよね?」
 この家に満ちているもう一つの気配。家の外へ出ていく事を許されてから、イルカはこの家にあるそれに気付いた。
 それは、絶えず家の外に向けて何かを発している。外に出る事を求めているような、中へ入る事を拒否するような、どちらとも取れる何か。
 けれどそれはおぞましいものではなく、ただ声を上げるだけで、悪意も善意も感じない。
 最初は、家のどこかに人が閉じ込められているのではないかと思ったのだが、肉の気配がない事にも、暫く後になって気付いた。
 それは、確かにそこにあるけれど、肉を伴わないものだという条件から、イルカはそれが家の神様であるか、家に住んでいる幽霊かのどちらかだろうという事に決めた。
 この家では沢山の人が怪我をしたり死んだりしているから、幽霊が一番あり得そうだとも思っていた。
「………どこに、いるの?」
「イルカ、起きたの?」
 襖の向こうから声が掛かり、イルカは布団の中から顔を出した。
「音がしたから。」
「そう、何でもないから、寝なさいね。」
「うん。」
 頷いて、イルカは目を閉じた。イルカを呼ぶそれは、声を返してくれる事はない。
 いつも、一方的にイルカを呼ぶだけだ。眠っている間に限って、起きろと声をかける。それに従って目を開けると、外に気配があるのだ。
 そしてそれは、すぐに一つになってしまう。それがどういう事なのかを理解したのは、少し前の事。目の前で、蝉が地面に落ちて動かなくなった時だった。
 昼間は家でゴロゴロしている父が、ただそれだけの人間ではないのだと、その時ぼんやり理解した。張り詰めているだけが、強い者ではないのだと、気付いた時だった。
 その夜も、夢の中で、イルカは聞いた事もない言葉を聞き、複雑に組まれる指の動き、見た事もない模様を幾つも見た。それが忍術であるとイルカが知るのは、もう少し先の事だった。
 
 
 
 
「おはよう……」
 次の朝、イルカはもそもそと起き出して、居間にいる父に挨拶をすると、手招かれた。
「何?父ちゃん。」
 問いかけながら、イルカはあぐらをかいた父の膝の上に、膝を抱えるようにして、ぽてりと腰を下ろした。
「父ちゃん、手ぇ冷たい……」
 背中からぎゅぅっと抱き締められて、腕に触れる父の手が、水を触った後のように冷たい事に気付き、イルカは抗議の声をあげる。
「うん。寒いんだよ。」
「どうしたの?」
 問いかけ、父の手に息を吹き掛けて擦ってみると、頭の上で父が笑うのがわかった。
 今は、まだ夏の範囲の内だ。寒いなんて言葉が使われる季節ではない。それなのに、背中に感じる父の体温は、手と同じで冷たかった。
 イルカは必死になって、父の腕まで摩った。そうしてあたためなくてはならないと思ったのだ。
「風邪ひいたの?」
「違うよ。」
「……大丈夫?」
 問いかけて上を向こうとすると、ことり、と頭に何かが乗せられた。
「父ちゃん?」
「イルカは、父さんの事好きか?」
「好きに決まってるじゃん。」
 そんな事は、当たり前の事だった。耳のすぐ傍でかけられた声に、イルカは真直ぐにそう返す。
「決まってるのか?」
「ん。」
 こっくりと頷くと。笑う声が降って来た。
「父さんが、イルカの事好きなのも、決まってるのか?」
「母ちゃんが好きなのも決まってんの。」
「なんで?」
「決まりだから。」
 息子の主張に、蒼牙は苦笑をもらす。
 昨夜、イルカが目覚めていた事をアカシに聞かされ、蒼牙はわずかに動揺していた。
 蒼牙は、自分の父親が人を殺す姿を見て、それに嫌悪感を抱いた事があった。もちろん、父の仕事は理解していたのだ。それでも、父の手が血に染まるのを見た時、その手に触られるのが気持ち悪かった。
 その父すら、己の手を嫌悪している事に気付くまでの間、それをどうする事もできなかった。だから、イルカが自分にも同じ事を感じるのではないかと思うと、不安だったのだ。
 見られているはずはなかったが、蒼牙が今のイルカの年頃には、見る事ができた。イルカが言わないだけで、この家で起きてる事を見ている可能性も、捨てきれなかった。
「父さんが、イルカの事嫌い、って言ったらどうする?」
「それは、嘘だからいいの。イルカは、父ちゃんが好きだから。」
「イルカもそのうち、父さんの事、嫌いになるかもよ?」
「ならないもん。イルカは、死ぬまで父ちゃんと母ちゃんが大好きなの。」
 きっぱりと言い切った言葉は、子供らしくて無邪気だったが、それがどれ程嬉しい言葉なのか、言った当人は知る由もないのだろうと、蒼牙は苦笑を浮かべる。
「そっか……父さんは、死んでもイルカの事が好きだぞ。」
「ね。」
 笑って見上げてくる息子を抱き締めて、蒼牙は笑みを浮かべた。この子を守るために生きようと、もう一度、心に誓った。この子がいる里を守ろうと、そう思った。
 
 
 
 
 
「父ちゃん、遊びに行ってくる。」
「ちょっと待ってろよ。」
 棚から巻物を選んでいた父にそう返され、イルカは頷いてその場で父を待った。
 玄関を出るためにしなくてはならない事があるため、父にはそれに付き合ってもらわなくてはならないのだ。庭から外に出るという手もあるのだが、実は庭の方が細かく罠が掛けてあり、それをくぐり抜けて外へ行くくらいならば、玄関の転地陣をいじって出る方が格段に手間が掛からないのだ。
「今日は、何処行くんだ?」
「人のいる所。」
「………いつもは、何処に行ってるんだ?」
「人のあんまりいない所。」
「そっか。……符は用意したか?」
「した。」
 一枚手に持ったそれを示すと、父は頷いて先に立って玄関へ向かった。
「父ちゃん、ここ、誰がいるの?」
 壁を指して問いかけると、驚いたような視線が向けられた。
「父さんは、見た事ないな。」
「母ちゃんは?」
「多分、ないと思うよ。」
「………でも、何かいるよね?」
「ああ、いるな。」
 頭をくしゃくしゃとかき回されて、イルカは父を見上げる。
「父ちゃん?」
「父さんの祖父さんが、ここにいるんだって。」
「曾おじいちゃん?」
「本当かどうかは、父さんにはわかんないけど、海野の人間は、死んだらここに帰ってくるんだって。」
「……おじいちゃんも、いるの?」
「いるんだろうな。」
 見上げる父の顔は、どこか悲しそうで、イルカは何を言えばいいのかわからず、黙って父の後を着いて玄関へ足を向けた。
「友達できるかな。」
「イルカ次第だな。」
 笑って蒼牙はそう言い、玄関の転地陣に仮封印の術を掛ける。イルカはそれをおとなしく隣で眺める。
 それは、夢の中でも見た事のある指の動きだった。何度かなぞった事もあるそれは、それほど難しい動きではなかったが、指を組んだだけでは何の意味も持たないものらしく、術が発動した事はなかった。
 蒼牙はイルカに聞き取れない程小さく何ごとかを呟くと、印を解いた。
「行っておいで。」
「行って来ます。」
 ぼんやりとした光で描かれた陣の上を歩いて、イルカは玄関を出る。持って出る符は、帰ってくる時にこれの上を渡るための道具だ。父が作った物で、イルカの為に、父の部屋に用意されていた。
「暗くなる前に帰るんだぞ。」
「はーい!」
 大きく手を振って、見送る父に背を向けると、イルカは町の方へ向かって走り出し、その後ろを一羽の鳥が追い掛けていった。

 
 
 
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