エーテルダンス



 エミユから更に南下して、森林地帯を抜けてティティアを目指す道を選んだ二人は、街を出たその晩は、森の中での宿営となった。
 小さな草を円形に毟り取り、土の上に火を熾したゾロは、焚き火の中に荷物から取り出した小袋の中身を放り入れた。それから少し経つと、甘い匂いが辺りに漂った。
「何、それ。」
 サンジは初めて嗅いだその匂いに、興味津々の体で鼻をひくつかせ、ゾロに問いかけた。
「琥珀の欠片だ。」
 ゾロは当然の事を伝えるように、あっさりとそう答えを返し、サンジはその内容に驚いて目を見開いた。
 琥珀は魔物から身を護る護符とされているが、希少価値もあってなかなか手に入れられるものではないと言われている。それを、僅かとはいっても、燃やしてしまうなど、考えたこともなかったのだ。
「この匂いは?」
「琥珀の匂いだ。用心してる人間がいるとわかるから、あまり面倒は寄ってこない。」
 屑石だから、安いし、持っていると便利だぞ。とゾロは言い、先程の小袋をサンジに差し出す。
「三つ位持ってろ。旅慣れた人間なら、この匂いで集まってくるから。」
 大型の魔物にはなかなか対抗できるものではないが、一人で掛かるよりも、数人で掛かれば、小型の魔物はなんとか追い払うことができる。だから、旅人は夜を街で過ごせない時は、できるだけ固まって夜を明かすのだ。ゾロも、先程辺りを確認してから、この場所に腰を下ろした。不寝番を立てるにしても、人数は多い方が交代が出来て便利だというのも、旅人が固まる理由だ。魔物が出なくても、盗賊が出る可能性も捨てきれない為、やはり人は多い方がいい。
 サンジは差し出された袋から琥珀の欠片を取り、自分の小袋の中へ移動させる。
「これは、買ったのか?」
 本来ならば、こういった物も雇い主が金を出して用意させるものなのだろうと、サンジは思い、そう問いかけると、ゾロは首を横に振った。
「採ってきた。」
「採れるものなのか?」
 琥珀の生産地は国内に点在しているが、集落の外の人間には絶対に採取を許さない場所が殆どで、採取されたものは全て売りに出されると聞いていただけに、サンジにはそれを持ち出せたと言うことが驚きだった。
「俺の生まれた村は、琥珀の産地だったんだ。」
 ゾロのその返答は、サンジが初めて聞く、ゾロの過去の話だった。そして、売られた人間にしてみれば、あまり話したくはないはずの事。
「だから、時々帰って、採ってくるのを許してもらってる。」
 こいつは、自分を売った人間の元に帰る事が出来るのかと、サンジはその心の内を理解できず、戸惑いを感じた。
 サンジは、生まれた家を出た時、二度と戻らないと決意し、その通りに、今までに一度たりとも戻ったことがない。帰りたいなどとは思わなかったのだ。それなのに同じように売られたはずのゾロは、時折家を訪れると言う。それは、自分が売られる事にゾロが納得していたことと、その家には、ゾロにとって幸せな記憶があるという事だ。それを、微かに羨ましく感じることに、サンジは苛立ちを感じた。
「もしかして、それも?」
 胸の内の感情から目を逸らすために、サンジは気に掛かっていたことを問いかけた。
 ゾロの胸元に掛かっている大きな琥珀は、金を出して買えば、小さな家の一つも買えるような額になると思われる。サンジは、ゾロの質素な持ち物の中で、それだけが異質だと思っていたのだが、自分で採取したものだと言うのならば、納得できないでもない。
「これは、親父が見つけたんだ。」
 ゾロはそれを手に取って、そっと撫でる。
 父親がそれを、いずれ手元からいなくなるだろう息子の為に、大切に保管していたのだろうとは、容易く想像の出来ることだ。それだけでも、ゾロが親に愛されていた人間なのだということがわかる。
 サンジの親は、子供を売って、何一つ子供には与えなかった。派遣神官に任命された時、村に一度戻ってもいいと言われたが、サンジはそれを断った。多分、幾許かの謝礼が更に支払われたのだろうと思うが、親からはなんの便りもなく、子供を売るような親とはそんなものだと、諦めのようなものを感じた。
 もしあの時、手元を離れていく子供の為に、粗末でも新しい服の一枚でも用意してくれていたら、自分はあの日、あの貧しい家を訪れただろうとサンジは思う。だけれど、そんな事ができる程、あの家には余裕はなかった。
 家に戻って、派遣神官になったのだと告げたとしても、金にしか興味を見せない親だとしたら、それ程悲しいことなどない。自分は、生まれた時から、彼らにとって、金蔓でしかないのだとは、思いたくなかった。
「村長は、随分渋ったらしいけどな。」
 村では、外との取引で得たものは共有財産だから。とゾロは苦笑を浮かべてそう言い、サンジは首を傾げた。
「どういう事?」
「うちの村は小さかったから、村の中で商売をするような所じゃなくて、皆で琥珀を採って、皆で畑を耕して、皆で飯を食って、って感じだったんだ。だから、外との取引以外で金なんて必要ないだろう。売れるものは売っちまった方が金になる。金が増えれば、暮らしも楽になるしな。」
 それならば、ゾロが退魔士に買われた時に入った金は、ゾロの親ではなく、村の全員に分けられたと言うことだ。
 村が一つの家族のように機能しているとは言っても、ゾロを産んで育てたのはゾロの両親で、そんな事が通るものだろうかと、サンジは疑問に感じる。ゾロも、きっとそれには納得など出来ていないのだろうと、その表情を見てサンジは思った。それでもゾロには、家に帰ろうと思う程に、大切な家族がいるということなのだ。
「俺の親は、俺が売られる時、それまで着てた服まで取り上げて、見送りもしなかったよ。俺は、派遣神官がくれた綺麗な服を着て、もう、これで飢えなくていいんだって事ばかり思ってた。」
 あの村に、未練などないと思ったはずなのに、まだどこかで、思いが残っているのかもしれないと、言いながら湧き上がってくる重い気持ちで気付かされた。
「そか。」
 ゾロはそれ以上何も言わず、寝てしまえと、静かに言った。
 言われた通りに、荷物袋を枕に地面に転がって、もしかしたら、俺達はよく似ているのかも知れず、だけれどもしかしたら、まるで似ていないのかもしれないと、黙って剣を抱えているゾロを見て思った。


 寝息を立て始めたサンジを見て、ゾロは小さく息を吐いた。
 互いが、売られた人間だということは、初めて会った時からわかっていた。神官も退魔士も、そうして生まれるのだから、それは間違いのない事だ。だけれど、自分達の間には、それでも違う何かが存在しているのだと、先程のサンジの言い分でわかった。
 自分が売られた時、村の主産業である琥珀は採取量が減っていたが、貧しいというほどではなかったはずだ。食べるものには困らなかったし、着る物だって普通にあった。だから、自分が売られるのには納得していたけれど、あの時の嬉しそうな村長の顔は、未だに引っ掛かりを感じている。だから、親に売られたというサンジの気持ちは、自分の比ではないだろうと思う。何も親から与えられなかったと言い切れるだけの何かが、サンジの中にはあって、それは、親から離れていても消えないだけの、強烈な何かだ。それをわかりもしないで、慰めのようなことは言えなかった。
 荷物の袋を抱えるようにして眠るサンジは、本物の派遣神官だ。左の目を隠している。そちら側に、本物の印があるという事なのは、ゾロでなくとも知っている事だ。
 退魔士にしても神官にしても、目の色を基準にして集められ、修行を始めるが、少なくとも退魔士は、元から琥珀色の目をしていなくてはいけない理由はない事がわかっている。ゾロが知る退魔士の中には、修行の中で、琥珀色の目を手に入れた者もいる。生まれ持った目の色など、本当は何の意味もないということなのだ。ただ、可能性を持っている者、という理由で、その目の色を判断基準にするのは、一番手早い事だ。確率としては、やはり琥珀の人間の方が、能力を手に入れる率が高いと言う。
 けれど、やはりその能力を得るのも、退魔士になるのも、修行があって可能になる事だ。国中を回り、魔物と戦う方法を身につけ、その習性を学び、退魔士の掟を学ぶ。その内に、本当の退魔能力を得ることもあるという事だ。神官も、それと殆ど変わらない過程を経るのだと、聞いている。
 印が出る可能性が一番高いのは、何もかもを遮断して、ひたすらに修行に励む事だという。退魔士が旅を続けるのは、街に暮らせばそれだけ他に気を取られる可能性が高いからという理由だ。本神殿で、外に出ることなく日々を過ごす神官たちも、それと同じ理由で外界を遮断している。本神殿で修行をする神官が退魔能力を得るのは、地方神殿の神官の倍の確率だと言われる。その点を見ても、本神殿のやり方は有効だというのがはっきりしている。
 ただ、その閉鎖性からか、本神殿で過ごした派遣神官は、サンジのようにどこか抜けている。というか、他を見る余裕がないのだろうと、サンジを見てゾロは思った。
 外を知らないとか、そういう事ではなく、自分の事で手一杯のような、そんな感じを受ける。それが、派遣神官全体に言える事なのかどうかはわからないが、サンジはきっとそうだろう。
 けれど、サンジが、親に幾許かの恨みを感じていることは、派遣神官になるために、本人の知らない部分で、役に立ったはずだ。生まれ育った場所に気持ちを奪われることなく、神殿での生活を全てと思い、ただひたすらにその場で修行を行うこと。それが、サンジが随分と歳若い派遣神官である理由だろう。推測に過ぎないが、ゾロに与えられた知識で考えれば、そういうことになる。
 だけれど、それがサンジの救いになるわけではないから、そんな事をサンジに告げても意味がない。ならば、何も知らぬ顔をして、黙っているほかに、ゾロに出来ることはありはしないのだ。
 


 
 サンジが朝目を覚ますと、ゾロは既に起きていて、火に手をかざして暖を取っていた。
 森は茂っていて、陽の光は入ってくるが、燦々と降り注いでいるとは言いがたい。その上、季節が冬に近づきつつある頃の朝、地面から上がってくる冷気に目覚めた程だ。暖を取りたくなるのも当然だろうと思った。
「おはよう。」
「ああ。」
 今までの旅の間、こうして目覚めてすぐに、誰かと挨拶を交わすことはなかった。これが、一人旅ではないという事だなと、サンジは思った。
「とりあえず、酒でも入れろ。」
 自分の荷物を探り、食料を取り出しているゾロは、サンジにそう指示を出し、サンジは言われるままに荷物袋から、ワインを取り出して、口に運んだ。
 エミユの街で、ゾロはこの先の旅に必要なものとして、食糧と酒を買うようにと指示をした。森を抜ける道を選べば、野宿を選ぶ他に手はなく、食糧を森の中で見つけられるなんて考えないほうがいいと、ゾロは言った。サンジとしても、森の中を食べられるものを探してうろつくより、街で金を出して買っていく方がいいと思った。飢えるのは今でも何より嫌な事だ。
「その、固形食糧ってのは、どこでも売ってるのか?」
 ゾロは小さな鍋に茶色の塊を削り入れ、そこに水を注ぎ込む。昨夜も食べた、簡易シチューだ。
「あるな。」
 鍋の中身が温まってくると、ゾロは固いパンを器用に切り分け、サンジに差し出す。
 神殿内では、厨房で働いていたサンジだが、旅の途中の料理など考えたこともなく、ゾロに与えられるものを受取って食べる状況になっていた。
「チーズ食うか?」
 ゾロが問いかけ、サンジは昨夜食べた、その慣れない味を思い出して、答えを戸惑う。
「ま、無理はするな。」
 ゾロはそれを適当に切り分け、ナイフに刺したまま火で炙って、溶けかけたところをパンの上に落とす。それは、見るからに美味しそうな様子なのだが、どうも、味が慣れなかった。多分、牛乳から作ったチーズではないのだろうと思う。
「俺も、最初は嫌いだった。」
 匂うからな。と、ゾロは笑い、椀にシチューを注いでくれる。旅の護衛の仕事として、ゾロがそれを引き受けているのか、野宿などした事がないだろうと踏んでいるのか、それとも、料理などできないだろうと思っているのか、その辺がサンジには少し気になる。
 昨日、寝しなに話した内容は、今思い出すと、数日前に出会った人間に聞かせるようなことではなかったような気がする。自分だけ辛かったような言い分に聞こえなかったろうかと、目を閉じてから、ゾロが自分を眺めているのに気付いて、少し後悔した。
 最初から、ゾロにはあまりいいところを見せられていない。格好をつける必要もないけれど、駄目な奴だと思われているのも嫌だと、サンジは思う。
「普段は、料理とかするのか?」
 シチューは大味で、不味くはなかったが、やはり携帯食でしかないという印象がある。それでも、サンジが生まれた村で食べていたものは、これよりももっと酷いものだった。
「しねぇな。どうせなら、旨いもの食いたいし。」
 がつがつとシチューを食べるゾロは、栄養摂取をしているだけで、料理を食べているという顔はしていない。ゾロにしても、この食事はあまり歓迎されていないらしい。
「お前は? 神殿にも、厨房係っているんだろ?」
「俺が、それだ。」
 神官は退魔士に詳しくないが、退魔士は神殿に詳しいのだな、と、サンジはそのゾロの質問で気付かされた。
 本物だ偽物だと言って、自分の立場を守りたいなら、彼らのように、神殿も退魔士を知るべきではないのかと、不意に思った。サンジは、護衛に雇っておいて、退魔士の退魔能力がどういうものかも知らないのだ。
「へぇ…」
 野宿じゃ、腕の揮いようもねぇな。と、ゾロは笑い、サンジも苦笑して頷く。荷物を減らすために、あれこれと持って出掛けることはできなかったし、味付けの決め手の塩も、そんな事で使うには勿体ない物でもある。
「この旅が終わったら、食わしてやるよ。」
 ナミさんのとこで厨房借りてさ。と、サンジが言うと、ゾロは嬉しそうに頷いてから、意地悪い笑みを浮かべる。
「賃貸料を請求されるかも知れねぇぞ。」
 気に入らない客から手数料を七割取るという彼女なら、言いそうな事だと、サンジは苦笑を浮かべて頷いた。
「さて、今はこの辺のはずだから…」
 片付けをするゾロを横目に、サンジは地図を開き、今の居場所を推測しようとした。
「お前、なんだよ、それ!」
 ひょい、とサンジの地図を覗き込んだゾロが、今までにない勢いで叫び、サンジは驚いて地図を握り締め、ゾロを見返す。
「何って。地図。」
「んなもん、見ればわかる。なんで、そんなの使ってるのかって言ってんだよ!」
 アホか、お前。とまで続き、サンジは自分の地図の何がそんなにゾロの機嫌を損ねたのかがわからず、そろそろとそれをゾロに差し出してみる。
「神殿からの支給品なんだけど。」
「はぁ?」
 ゾロは差し出された地図を叩き落とし、自分の袋の中から地図を取り出して、地面に広げる。
「これが、地図だろ。」
 サンジの持っていた地図には、山脈や大きな街の位置などが描かれているが、街道の位置などは描かれていない。徒歩での旅には大まか過ぎる、広域図だ。
「おぉ。」
 サンジは、地面に広げられた地図を見て、そこに描き込まれているものの細かさに驚いて声を上げた。
 大きな街の位置、それと近隣の町を繋ぐ街道と距離、街道を離れた場所には、幾つかの点とそれを結ぶ線。街の名前もきちんと書き込まれている。
「普通に驚くな!」
 ゾロは言い放ち、サンジは反論しようと顔を上げ、ゾロが本気で怒っているのに気付き、言葉を失う。
「大体、こんな地図で森を抜けようなんて、よく提案したもんだな。昨日、なんで結界石もない場所で足を止めるかと思ったら、全く道筋を考えてないって事じゃねぇか。」
「結界石って?」
 初めて聞く言葉を確認すれば、ゾロは片付けようとしていた椀をサンジに投げつけた。
「この、アホ神官!」
 迷わず避けたサンジにゾロは叫び、サンジはどうしてそこまでゾロが怒るのかがわからず、じっとゾロを見る。
「…森の中にある、避難所の印だ。」
 ゾロはサンジの無知はサンジのせいのではないのだと自分に言い聞かせ、必死に冷静を取り戻しそう答えを返した。
 結界石は、森や山の中に、退魔士が設置している物だ。その石の周りには、魔物を退ける力が働き、内部を守る結界を作ることから、そう呼ばれる。
 旅人は基本的に街道を通って旅をすることを心掛けるが、急ぐ旅の場合はどうしても森や山など、人が少なく、魔物が出やすい場所を通らなくてはならない。そういう時に、結界石の傍で野営をし、魔物に追われた時は、そこへ逃げ込むようにするのだ。
 だからこそ、最新の地図を買い旅に出る事は、旅をする場合の常識だ。それを作成している退魔士も、ごくごく安い値段でそれを売っている。普通に街で育ったなら、それを知っているはずなのだ。
「へぇ。知らなかった。」
 サンジは相変わらず普通に驚きの声を上げ、ゾロはそれを見てため息を吐いた。
 首都で姿を見た時、これはやばいと思ったのだ。どこに行くつもりかは知らないが、見張りのついていない派遣神官にしてはぼんやりしていて、それなのに、護衛を雇おうとしていた。ぼったくられるかもしれないのは自分で責任を取ればいいとしても、怪我でもされたら洒落にならないと思った。だからわざわざ、わかりやすく退魔士そのものの形で後を追いかけた。本当に、ついて来てよかったと、ゾロはしみじみ思う。
「お前、これまでも森の中を移動したりしたのか?」
「ああ。」
 けろっとした顔でサンジは答え、ゾロはひくりと顔が引きつるのを感じた。
「怪我をしたりは?」
「まぁ、それなりに。」
 サンジは照れたように笑ってそう答え、ゾロは落ち着いた怒りが、それまで以上に燃え上がるのを堪えきれなかった。
「この、大馬鹿!」
 バンっと地図を叩き、サンジの頭を押さえつけるようにして地図に近付けさせる。
「ここに、お前がこれまで辿ったことのある道筋を描け。」
「えぇ…」
 めんどくさい。と答えようとしたサンジは、ちらりと見上げたゾロの顔が、先程以上に怒りに彩られていることに気付き、喉の奥が引き攣れるのを感じた。
「怪我をした場所もだ。」
「はい…」
 何か、自分の知らない事情がそこにはあるのだろうとサンジは推測して、言われるままにゾロの地図にこれまでの派遣任務先と、大体の道筋を描き、怪我をした記憶のある道筋にはそれと説明を加える。
「怪我の手当ては?」
「水で流して、布で止血してた。」
「水?」
 ゾロはキッとサンジを睨み、サンジはカクカクと頷いて、荷物の中の水袋を指し示す。
「血の量は。」
「そんなに沢山は流れてないけど…それって、大事なことなのか?」
「当たり前だろ!」
 サンジの質問の意図がわからず、怒りのままにそう叫んでから、ゾロはサンジが本当にその意味がわかっていないのだと気付いた。
 退魔士は、一人での旅でも、護衛任務の旅でも、通った道、魔物との遭遇場所や怪我をした位置などを、細かく報告する義務がある。それは、そうする意味のある事で、ゾロは派遣神官にも当然そういった義務があるものだと思っていた。だが、どうやらその義務はないようだとサンジの様子を見ればわかる。報告義務があるのなら、地図を見て、多分ここ、なんて説明をするわけがない。そうなると、神殿が派遣神官に聖地調査をさせるのは、それがそこにある理由がわかっていないからで、確認に出掛けているわけではないという事になる。それでは、これまで退魔士が考えていた事が間違っていることになり、現状との齟齬が出る。ただ、サンジは他の派遣神官とあまり交流がないようでもあり、単に事実を知らされていないだけ、ということも考えられないわけではないと、ゾロは思う。
「魔物に会っても、戦ったわけじゃねぇし、怪我っても、そんな酷いのはないんだぜ?」
 サンジは言い訳のようにそう言って、書き込みの終わった地図をゾロの方へそっと押し返す。
「悪い。ちょっと、驚いたんだ。」
 退魔士は、怪我をしても自分の血を水で洗い流すことはしない。水を含ませた布で拭いて、その布は乾かしてから燃やす。それが退魔士の常識だ。そうしなくてはならない理由がある。それは、派遣神官も同じはずなのに、そんな基本も教えられていないのは、そこから想像できる事を考えさせないためとも考えられる。神殿内にも自分達の知らない問題があるという事なのだろうか。
 押し返された地図を見て、書き込みがそれなりにわかりやすいことを確認すると、ゾロはそれを鳥の形に折り畳み、小さく呪文を唱えて息を吹き込む。
「おぉ!」
 ふわり、とゾロの手の中から黒い鳥が飛び立つのを見て、サンジは驚きの声を上げる。
「お前にだって出来るだろう。」
 なんでそんなに驚くんだ。とゾロは苦笑し、サンジは照れたように笑う。
「いや、なんかお前だったら、もっとごつい鳥になるのかと思ってさ。」
 ゾロの手から飛び立ったのは、小さな鳥だった。力強く羽ばたいて、あっという間に見えなくなったが、ゾロがその鳥を選ぶというのが意外だったのだ。
「あれは、早いからな。」
 あの知らせは急ぎだからあれがいいんだ。とゾロは答え、サンジはゾロの先程の様子を思い出し、小さく息を吐いた。
「怪我って、そんなに重要なのか?」
「お前がそう教えられてないなら、それでいいんだ。」
 そう答えて、ゾロは小さく息を吐く。
 神殿は、意図的に派遣神官に教えていない情報があると考えるのが妥当だという気がしてきた。派遣神官に師弟のような協力関係がないことも、得た情報の全てを知らせないためなのだと考えれば、理解できる事だ。
「さっきの地図、送っちまってよかったのか?」
「まだ、俺のがあるし、次の街まで着けば、新しいのが買える。」
 そう答えて、ゾロは自分の地図を取り出し、サンジに差し出す。
「エミユから、どっちに来てるんだ?」
 自分は方角がまるでわからないらしいと、ゾロは師から言われて知っている。自分はちゃんとわかっているつもりなのだが、何度も訂正されれば、なんとなくそれが嘘ではないのもわかる。但し、距離感は完璧だと言われているから、コンパスがきちんと使えれば、問題なく一人旅も出来るのだ。
「南。」
 サンジは辿ってきたと思わしきルートを指で辿る。
「距離は大体、五十キロってとこだな。」
「だったら、この辺。」
 サンジは地図の一帯を指差し、ゾロは頷いてそこから一番近い結界石の位置を示す。
「まず、ここに辿り着く事を考える。」
「東に五キロだな。」
 サンジはそう答えてから、地図の一点に赤く印が書き込まれているのに気付いた。
「ゾロ、これは?」
 地図に元々あるものではなく、誰かの手で描き込まれた物だとわかるそれは、随分と辺境の位置にある。
「目的地だ。」
 ゾロは短く答え、サンジは視線だけそちらに向け、その表情を窺う。
「行かなくていいの?」
「最後に行く場所だから、まだいい。」
 まるで、死に場所を言うみたいだ、とサンジは笑おうとして、ゾロの表情が静か過ぎることに気付き、口をつぐんだ。
 自分は普通に知っているべき事も知らないらしい。知ることすら禁じられていた退魔士の事なら、尚更に知らない。だけれど、その表情を見れば、それが笑って話題にしていい事かどうかくらいはわかる。それは、ゾロにとってとても重要なこと。そしてきっと、自分の考えた事は外れていない。ゾロはそういう言い方をした。
「そうなんだ。」
 サンジが何かを飲み込み、笑ってそう返すのを聞いて、ゾロはサンジが馬鹿ではないのだと思った。
 琥珀の退魔士は、死に場所が決まっている。それが、琥珀の退魔士として最も重要なことだ。自分が協会から何も言われず、好きなように動き回っていいのは、それがその為に与えられた自由だから。だから、普段はあまりそれを考えないようにしている。
 派遣神官も、同じはずだ。退魔士の知る事実から推測すれば、そういう事になる。だから、派遣神官の派遣任務は、外に出る事が出来るという、自由の一部なのだと考えていたのだが、どうもそういう事ではないらしい。
 サンジは、自分達が怪我をしないようにしなくてはいけないことを知らない。結界石や神殿の位置の詳しく書かれた地図を与えられていない。多分、派遣神官が死んだ後どうされるかも知らない。ただ、退魔士の中にも自分の死に場所を指示されてから、逃げようとする者がないわけではないから、派遣神官もそれを警戒している可能性もある。サンジがまだ派遣神官になってから日が浅い。派遣神官の本当の存在理由に気付いてから、教えられると考えてもいいのかもしれない。
 ならば、自分がここでサンジの知らないことを直接教えるのはよくない事だろう。今聞かせたことは、サンジがものを考える材料にはなるが、それでサンジが何かを考えるかどうかは、サンジの問題だ。ただ、そこでサンジが悩むような事になったらと、後悔もある。着いてきたのが自分でなかったら、もう少し上手いやり方ができたろうかと、ゾロは気落ちする。
「とりあえず、出発しますか。」
 ゾロの表情が暗いのが気になったが、サンジはそれの理由がわからず、結局、明るい声を出してみせることしかできず、それを聞いたゾロが顔を上げて微かに笑ったのを見て、ほっと息を吐いた。




「五〇〇。」
 ゾロが後ろから声を掛け、サンジは地図を見て次に向かうべき方角を確かめる。
 朝の一悶着の後、距離を測るゾロと、方角を確かめるサンジの協力により、目的の結界石へたどり着くことができた。
 サンジが初めて見た結界石は、思いの外小さいもので、大きな柱のような物が立っている事を想像していたサンジは、思わず声を上げ、ゾロにまた馬鹿にされる事になった。
 結界石は水晶製で、一〇センチ程の四角錘が土から顔を見せているような物だった。注意しなくては気付かない程度に思えたが、サンジには、結界創造に使われる力を感じ取ることができた。
 ゾロはそれの表面をじっと観察し、サンジに持たせている自分の地図の上の結界石の印を幾つか指で辿り、それが目的地であることを確認した。
 そこからは、地図を見て次の目的地へのルートを決め、そこに来るまでと同じように、サンジに方向を定めさせ、距離はゾロが測るという状況が再度始まった。
「お前、もしかして、方角わかんねぇの?」
 サンジは向かう方向を定めて、ゾロにそう問いかけた。
 首都で会ってからずっと、ゾロはサンジの行くに任せていたし、昨日もまるでサンジを疑わなかった。普通、道は任せると言ったとしても、向かう方向がおかしければ気付くはずだ。それなのに、今朝までまるでそれに気付かなかったのだから、ゾロはそれが正しいかどうかの判断ができなかったということになる。
「わからないわけじゃない。」
 ゾロはそう答えを返したが、その表情は明らかに動揺を示していて、サンジはそれ以上の追求をやめることにしようと思った。
 道案内は護衛の仕事じゃないなんて言ったのは、どうやら道案内ができないからだったようだ。物は言いようだな、とサンジはあの時のゾロの様子を思い出して思った。
「距離六〇〇。」
 サンジには自分が歩いた距離はよくわからないが、ゾロは自信を持って距離を測る。ここまでにも、ゾロはきちんと結界石を探し当てているから、それは間違いではないということになる。
 今サンジが持っている地図を発行しているのが退魔士協会だというのならば、彼らは自分達の感覚で距離を測って地図に示しているということだろうかと、サンジはゾロにそれを問いかけた。
「ああ。距離感だけは絶対に覚えさせられるから。」
 目的地にきちんと辿り着かなくてはいけないから。とゾロは言い、サンジはその目的地というのが、手の中の地図の中で一番はっきりと書き込まれた印の場所を言うのだろうと思った。きっと、全てがそこに掛かっているのだ。
「地図も作らなくちゃいけないもんな。」
 実際、距離感が身に付いている者の数が少ないと思えば、少々の誤差があったとして誰が不平を訴えるわけでもないのだ。退魔士個人の距離感で測ったものであろうと、問題はないのかもしれないと、サンジは話題をそらした。
「そうだな。」
 ゾロは、サンジが今朝の話題をなるべく遠ざけようとしていることに気付き、サンジが自分の事を気遣っていてくれるのだと、恥ずかしいような嬉しいような不思議なものを感じる。
 退魔士は、あまり気遣いをされる職業ではない。特に剣士は護衛が主になるから、客を気遣っても自分が気遣われる事は稀で、まるで疲れることも傷付くこともないのだと思っているような扱いをされることもある程だ。だから、ふいにそれに気付くと、どこか落ち着かなくなる。
「退魔士は、世の中の役に立ってる、って感じがする。」
 サンジの言った言葉に、ゾロはなんと言って返していいのかわからず、前を歩く背中をじっと見る。
「神官だって、役に立ってるだろ。」
「知らないことばかりでも?」
 サンジは笑いながらそう言い、それがまるで自分を笑っているかのように聞こえて、ゾロはなんとかしなくてはと思うが、上手い言葉がなかなか浮かんでは来ない。
「国中に神殿を作って、権力を手に入れようと必死なんだぜ。聖地の調査だって、金儲けの為にしてるだけだ。」
 自分が一番大事なんだよ。とサンジは言い、ゾロは思わずその腕を掴んだ。
「それだけじゃない。」
「え?」
 サンジは腕を?まれて振り返り、ゾロが必死の表情を浮かべているのを見て、驚いてその意図を窺う。
「神殿を増やしてるのは、そういう意味じゃない。」
 なんでゾロが、神殿の意図を語るのかと、サンジはそれを理解できずに首を傾げた。
「どういうこと?」
「権力が欲しい神官もいるかもしれねぇけど、違うんだ。」
 ゾロはそれ以上を語ることができないのか、再度そう繰り返し、サンジの腕を掴んでいた手を放した。
「神殿は、この国には必要だし、人の役に立ってる。でなけりゃ、金持ってわざわざ通ったりなんかしねぇよ。」
 神殿に喜捨をするのは義務ではない。彼らは何かを求めて神殿を訪れる。それが一度きりで終わらないのは、そこに意味を感じているからだ。
「お前だって、役に立ってるんだ。」
 サンジは以前にティティアの近くを通っている。そこで怪我をしている。ならば、ティティアの聖地出現には、サンジも関わっていると考えて間違いない。ティティアには人々が訪れている。当人は気付いてもいないが、少なくともサンジは、派遣神官として、人々の役に立っている。
「…そっか。」
 ゾロが必死にそう言うのは、どうやら自分への慰めではなく、何かそう確信するものがあるのだと、サンジはその表情で推測し、それを知らないのは自分の無知のせいなのだろうかと考える。
 ゾロに会って、話を聞いて、自分がいかにものを知らなかったかに気付いた。そして何より、自分がものを考えていなかったことに気付かされた。一つの事を知って、それから別の事を推測するという作業を、この派遣任務には行っていなかった。もしかしたら、これまでの事をきちんと見直せば、見えてくることがあるのかもしれない。それに気付いただけでも、この任務には意味があると、サンジは思った。


 夜が近付き、辺りが暗くなりかけた頃、サンジは進む先に人の気配があることに気付いた。
「近いな。」
 これまで森の中を歩いていて人とすれ違ったことはないが、他にも人はいたらしい。けれど、話し声が聞こえてくるに従って、サンジはこのまま進んでしまっていいものなのか戸惑って足を止めた。
「どうした?」
「いや…俺とか入って行っていいのかと。」
 人が集まって夜を明かすとは聞かされたが、そこに派遣神官と退魔士が入っていくのは許されるのかと、気に掛かる。神官は退魔士を認めていないのだから、それが一緒にいるというのも、問題があるといえばある。
「神官がいりゃ、安心するじゃねぇか。」
 何ぐずぐず言ってんだ。とゾロは軽く言い放ち、サンジの膝裏を蹴りつける。
「だけど、お前、退魔士だし。」
「神官と退魔士がいたら、安心材料倍増じゃねぇか。」
 神殿が何を発表していようと、森の中で結界石に集まって不安な気分でいる人々にしてみれば、安心がそこにある方がずっと意味のあることに違いないと、サンジはゾロの言い分を受け入れることにする。
「倍増か。」
 本当は、俺は退魔能力ってのがよくわかってないんだけど。とサンジは胸の内でぼやく。
 神官の退魔能力は、実のところ退魔結界を作る技と能力の事を言う。今まで通ってきた結界石と同じ役割を持っているという事で、魔物と戦って退けるというのは、少し違っている。それは、神官以外は知る事ではないけれど。
「ほら、急げよ。」
 急かされて歩きながら、神殿は嘘だらけなんだと、サンジは思った。

 
 


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