「あんなに怒らなくたっていいと思わない?」
「具合が悪いって奴が、いなくなったら、心配になるに決まってるだろ。」
俺だって心配したんだぞ。とチョッパーは言い、用無しになってしまった薬を手に、ため息をついた。
「チョッパーには悪い事をしたと思ってるけど、私だけ外に出ちゃ駄目なんておかしいじゃない。」
ナミはいつか必要になるかもしれないからと、一族が集め続けた海図を覚え、天候の読み方を教えられた。その事自体は、ナミだって必要な知識だと思うから、喜んで覚えた。だけれど、その知識を持っているからといって家に閉じ込められるのは納得できない。これでは檻に入れられているのと変わらない。
「でも、今は特に外の人間が来てるんだから、気をつけないと。」
昼間に会ったサンジという人間は、ゾロの言うことをよく聞いて、チョッパーにも危害を加えようとはしなかったけれど、それでもそれが彼だけの性質であることも考えるべきだと思う。
「今日会ったけれど、悪い人間じゃなかったわ。ゾロの事だって、言いたくないなら話さなくてもいいって言ってくれたし、外の話を沢山教えてくれたわ。」
「…そうなのか?」
ゾロは、ナミよりも特別な存在だ。村の中の真ん中の家に暮らしていて、その家には自由に開く扉がない。それでも外へ出てこられるから、ゾロは特別だけれど、それを許されているのはゾロがまだ若いからだ。ゾロの他にももう二人がその家にいるが、その二人が自分の意思で外へ出てくることはない。
「大体、ゾロは外に出たって怒られないのに、何で私は駄目なのよ。」
「だって、ゾロはどこにいたって帰って来れるけど、ナミはそうじゃないだろ?」
ゾロが特別なのは、人ではないからだ。昨日ナミを連れ帰った時も、その能力で帰ってきて、ナミは帰ってから2時間ほどは横になっていた。ゾロ曰く、『空間を捻じ曲げて飛ぶんだ』との事で、昨晩彼は姉と呼んでいる、くいなからこっぴどく叱られたらしい。今朝、チョッパーが呼び出した時、ナミの具合が悪いのだと聞いて、青くなっていた。
「ゾロを迎えに来いって呼べばいいんでしょう。」
「捕まったりしない事が、一番いいことじゃないか。」
ゾロが来られない場所だったら大変だろ。とチョッパーは言い、ため息をついた。
「その上、そいつ等の為に木を切っていいかなんて、今聞いたら、絶対許してもらえないぞ。」
ゾロは、少しだったら切ったほうがいい木があるって言ってたけれど、そんな事を言ったら、ナミはまた黙って出かけかねないとチョッパーは思い、口を噤むことにした。
「何よ。こんなところに閉じこもって自分達の安全しか考えていないなんて、いやらしいわ。」
これまでは外を知らなかったから、ナミは自分の不満も特殊なものかと思っていた。ナミよりもずっと不条理な扱いをされている人たちがいたから、余計にそう感じてもいたけれど、外の人間の話を聞いたら、自分の考えも特別なことではないと思えた。小さな世界に閉じこもっているのが嫌で、海を旅している人たちがいるのだ。ならば自分がこの家に閉じ込められていることを嫌うのだっておかしな話じゃない。
「ナミ、外に出たいならそう言って、誰かに着いて来て貰えばいいことだろう? 勝手に出て行くから怒られるんじゃないか。」
「見張りがついてるなんて、嫌なのよ。」
チョッパーやゾロは別だ。二人とも村の中での立場が少し特殊だから。ナミに言いたい事を言うし、機嫌を伺ったりしない。でも、他の村人はナミを逃がさないようにしようという意識が見えて、傍にいると息が詰まる。
「どうせ、ここから出て行ったりしないんでしょう。私なんていなくたって、いいじゃない。」
「でも、外の人間に見つかったんだ。移動するって話になるかもしれない。」
「今だったら、尚更私じゃなくてもいいじゃない。」
ナミには姉もいるし母もいる。彼女らの方がまだずっと多くの知識を持っているはずだ。
漠然とした外への憧れは、ルフィに会ってはっきりとした形を持った。
彼らに着いて行けば、この生活から解放されるに違いない。
「留守番ってのも、暇なもんだな、おい。」
誰に言うでもなく独り言を呟いて、サンジは空を見上げた。
真っ青のため息が出るほどの上天気だ。航海の最中ならば喜ばしいことだが、やむを得ない停泊中にこの天気は、どうにも気分が呆けてよろしくない。舟番ともなれば特に呆けがちだ。
今日は、ルフィの依頼の答えをゾロが持ってくることになっている。全員でぼんやり待っていたって、何の特にもならないと、船長はもう一つの船の様子を探りに行く事を提案した。いつもならばウソップが留守番をするのが当然なのだが、今回はゾロに会ったことのある人間の方がいいだろうと、サンジが残ることになったのだ。それなのに一向に待ち人は現れず、ルフィたちが帰ってくる様子もない。
「…早く来ねぇかなぁ…」
サンジがぽつりと呟いた時、眺めていた空の一部が歪んだ。
「何だ!」
ぎょっとして臨戦態勢を取った時、いきなり空に人の姿が現れた。
「ゾロ?」
重力を感じさせない動きでサンジの前に降り立って、昨日とはまた違う姿をしたゾロは、きょろきょろと辺りを見回してから、サンジに目をやった。
「他の奴らは?」
ゾロは一昨日の姿よりも、もう少し鍛えられたような姿をしていた。商船の護衛を髣髴とさせるとサンジは思う。
「別の船に行ってる。」
ゾロの様子には焦燥感が見て取れて、サンジは何が起きたのかと問いかけた。
「ナミがいなくなった。ここにいたらいいと思ったんだ。」
ゾロは答え、やっぱりあっちなんだ。と呟いて身を翻そうとし、サンジは慌ててその腕を掴んだ。
「あっちって、ここの反対側の船か?」
「知ってるのか?」
「今、ルフィたちが出かけてる。あのお嬢さんが、そこにいるってのか?」
「くいなが言うから、間違いないと思う。」
俺はナミが寝てると探せないから。とゾロは言い、サンジを怪訝そうに見上げた。
「そいつら、何しに行ったんだ?」
「奴らが、お前とか彼女とかを狙ってるんじゃないかと思って、様子を見に行ったんだよ。あいつらは質の悪い奴らで、略奪目的で世界中を巡ってやがるんだ。」
「だったら、こんなとこでぼけっと話ししてる場合じゃないじゃねぇか。」
腕を掴むサンジの手を振り払おうとするゾロを、サンジは引き止めようと手に力を込める。
「お前だって狙われてんだ。のこのこ出て行ってどうする。」
「あの村で戦ったことのある奴なんて、チョッパーしかいねぇんだよ。俺は戦える。だったら俺が行くのは当然だろう。」
サンジの腕を振り払うゾロの様子は、昨日見た子供と同一人物とは思えなかったが、それでもこのまま彼を行かせてしまってはいけないのではないかと、サンジは思った。
もしナミが捕らえられているとしても、ルフィがいる。ナミを見つければ、ルフィはそれを黙って見過ごすはずはない。それを阻止するために、彼らは出かけているのだ。
「一人で行くなって言ってんだよ。」
船を開けるのは不安だが、それよりも、見過ごすわけにいかない事態だと考えるのが良さそうだ。打算的な考え方をすれば、ここでナミを助け、ゾロの手助けをしておけば、船の修理や食糧の入手にだって、好意的な反応を期待できるというものだ。
「俺一人しかいねぇだろ。」
「俺が行くって言ってんの。お前、俺と会話する気ある?」
「…なんで、お前が来るんだよ。」
関係ないだろ? とゾロは尋ね、サンジは首を横に振る。
「お前は、俺に食糧をくれた。俺は、お前に礼をしなくちゃならねぇ。俺は、船の戦闘員でもある。俺を連れて行けば、役に立つと思うぜ?」
ビシリと胸元に指を突き付けて言えば、ゾロは少し怯んだようにサンジを眺め、それから小さく頷いた。
「じゃ、急ぐぞ。」
船を急いで下りようと足を踏み出したサンジは、ゾロに手を振り払われ、講義しようと顔を上げると、腹に腕を掛けるように掬い上げられた。
「は?」
「掴まってろよ。」
ゾロの声を聞き取るか、というタイミングで、耳元で風を切る物凄い音が立ち、あっという間に船が遠ざかっていき、森の木々の間を飛ぶように移動していくのを、サンジはなすすべもなく、ゾロに抱えられて眺めていた。ゾロの様子を確かめようにも、風圧で振り返ることすらできず、サンジはこの姿を見られるのだけは嫌だと、本気で思った。
「無事か?」
船の見える位置まで来て、やっとゾロは動きを止め、サンジは地面に下ろされて、声も出せずに頷いた。
「…大丈夫か? これも無茶か?」
サンジの様子を見て、ゾロは膝を着くサンジの前に屈み、問いかけた。
「問題ねぇ。行くぞ。」
船の上では人が激しく動き回っている様子が伺える。終結前に間に合った事は間違いがない。
立ち上がったサンジを見上げて、ゾロは頷くと、走り出したサンジを追って、船に向かって駆け出す。
今、ゾロの形を作っているのは、もう一人の同族であり、かつては人と共に剣を取って戦ったことがあるという、コウシロウの意識だ。姉のように思っているくいなも、ゾロも、彼から戦う術を教えられたが、くいなたちを外へ出すことを、村の人々は嫌がった。
チョッパーと二人でナミを取り戻せるかは不安だったが、ああまではっきりと、自分が戦えるのだと言い切ったからには、サンジはきっと、強いのだろうとゾロは思う。戦えると言ったけれど、自分が本当にきちんと戦えるかを、ゾロは試した事がないから、それはとても心強いことだと思った。
「急げよ!」
サンジが振り返って声を掛け、その声に気付いたのか、船から銃弾が飛んでくる。ゾロはスピードを上げてサンジに追いつくと、地面を強く蹴り出し、サンジの肩を掴んで一気に船まで跳躍する。
「落とすぞ。」
声を掛けて肩を掴んでいた手を離し、サンジを甲板に下ろすと、ゾロは視線を廻らせて、チョッパーの無事を確認し、剣を持っている人間を探した。
甲板を走り抜け、立ち塞がる男の腹に拳を叩き込んで取り落とした剣を拾い上げると、甲板の隅に置かれた檻の中に、気を失っているらしいナミを見つける。
駆け寄って助けるべきか、まずこの騒ぎを収めるべきかを考えて、騒ぎを収めることが先だと考える。ゾロはナミの影響を受けすぎる為、今ナミの傍へ寄って彼女を起こしてしまうと、多分戦うには向かない姿になってしまうのだ。それでは役に立つことができない。
「あれも、捕らえろ!」
誰かの叫びと共に、ゾロに向かってくる人間が増え、ゾロはサンジの言っていたことは本当だったのだと、理解する。
チョッパーもくいなも、人間はよく見極めなくてはいけないと言った。彼らは珍しいものは同等のものとして扱ったりしないからと。
掛かってくる人間達を斬り払い甲板に沈め、移動しながら先制を仕掛ける。
イメージがそのまま動きに変換されるのだから、戦い方を覚えなさいと言われたように、甲板の上で行われる戦闘に目を向け、立ち塞がる者を斬り払う。自分が動ける事にゾロは安堵した。
視線の先で、舞う様に剣を振るうゾロの姿に、サンジは驚かずにはいられなかった。移動も剣の動きも、まるで重さを感じさせない。両手で扱うべき剣を、片手に持って、二本を振るっているというのに、その動きは滑らかで、無駄がない。戦えると言い切っただけのことはあると思う。
子供の姿を見ていたから、手助けが必要だろうと思ったのだが、彼一人でも、この甲板上の人間を全て片付けてしまえるのではないかと思う程に、それは他を圧倒していた。
甲板上で動く人間は既に数えられるほどに減り、当初の目的である、ナミの救出をせねばと考えたサンジは、掛かってくる男を蹴り飛ばし、檻へと駆け寄った。
ナミに外傷は見当たらず、息も安定していることを確認し、多分、何らかの薬物で眠らされているのだろうと考える。
まずは、この檻を何とかすべきだろうと、ナミのいる場所から一番遠い檻の一部に向けて、サンジは思い切り蹴りを喰らわせた。
視界の端を、サンジが駆けていくのを、ゾロは確認し、その行く先に目をやって、焦りを感じた。
ナミが起きる前に、この数人を倒してしまわないと、面倒な事になりそうな気がする。ナミは、ゾロがナミの影響を受けやすいことを知らないし、ゾロが戦えることを知らない。こんな事ならば、剣を習っていることを伝えておくべきだったと、今更ながらに考え、回りを囲む人間達に剣を向けた時、悲鳴が聞こえた。
悲鳴を上げたナミの視線の先で、ゾロの姿が一瞬揺らぎ、彼が斬り付けられ、赤い血が飛び散るのを見て、サンジはゾロへ駆け寄り、ゾロに追い討ちを掛けようとしている男を一蹴りで甲板の端まで飛ばし、残る者を沈めると、ゾロを振り返った。
「……ゾロ?」
斬られて血を流しているゾロは、困った顔でナミを振り返り、ため息をついた。
「悪い…」
何を謝るかと聞きたくなる程、どくどくと溢れる血が、彼の白い服を赤く染めていくのに、ゾロの様子はどこも辛そうには見えない。ただ、船を訪れた時の姿よりも、腕周りや首が細い。多分、最初に見たゾロの姿だろうと思った。
「大丈夫なのか?」
「多分。」
ゾロがそう答えたところへ、ナミが駆け寄ってきて、ゾロの傷を見て息を飲む。
「チョッパー! 手当てして!」
ナミはゾロの傷を自分の服を脱いで必死に抑え、医者であるチョッパーを呼び叫ぶ。ゾロは、その様子を見て小さくため息をつき、手を持ち上げると、トン、とナミの額を指先で突いた。
「ナミ!」
チョッパーが崩れるナミを抱き止め、ゾロを見上げる。
「ゾロ?」
問いかけるチョッパーに苦笑を浮かべて、ゾロは隣に立っているサンジに目を向けて、手を伸ばしてその額に触れた。
「おぉ?」
駆け寄ってきたルフィが、ゾロの姿が揺らいで、先ほどまでの赤く染まった姿が消えたことに、声を上げる。
「大丈夫なのか? ゾロ。」
「おかしい感じはないな。」
ゾロは答え、チョッパーの腕の中のナミを眺める。
「ナミも、無事そうだな。」
「うん。怪我もなさそうだ。早く、村に連れて帰って、皆を安心させてやらないと。」
チョッパーは言い、ルフィを振り返って、ぺこりと頭を下げる。
「助けてくれて有難う。」
「気にするな。こいつらが、俺は大っ嫌いなんだ。」
ナミはいい奴だから、協力するのは当然だ。とルフィは答え、ゾロはサンジに頭を下げた。
「有難う。」
「大見得切ったしね。」
そう答えながら、サンジは自分の取った行動が、失策だったかと考えた。ゾロが真っ先にナミの元に行かなかったのは、さっきの事態を予測していたからだったのかもしれない。
ならば、サンジのした事は、ナミにいらないショックを与えてしまったことになるかもしれない。
「助けてくれたし、本当に、世話になった。」
ゾロは、サンジの表情が晴れないことに気付いてそう言ったものの、それ以上何を言うこともできず、ルフィに向き直った。
「村の人間は、閉鎖的だから、ナミを助けてくれたからって、突然連れて行くことはできない。まず、ナミを連れて帰って、事情を説明してくる。待っていてくれないか?」
「おう。こいつらの後始末もしなくちゃいけねぇし、ここで待ってるよ。」
ルフィは軽く請け負い、ゾロとチョッパーは、ナミを連れて船を下りて行った。
「あのトナカイも、変身するんだな。」
チョッパーと呼ばれるまで、サンジはあれは何者かと思っていたのだが、獣人族には変身能力のあるものもいると聞いたことがあった事を思い出す。
「不思議トナカイだな。」
ルフィはあっけらかんと言い放ち、ナミを背に乗せて走り去る四足のトナカイと、その背中に一緒に乗って、ナミの体を支えている、小さな緑の子供を見送った。
「で、こいつら、どうするよ?」
ゾロも、殺す気で戦っていたわけではないらしく、絶命しているものはいないが、流石に出血のある者を放っておくと、いずれ死ぬ。手当てしてやるのも癪だが、殺してかたをつけるのも、彼らと同等のようで不愉快だ。
「血止めだけでもしてやるか…」
ウソップがそう言って、船室の中に医療道具を探しに行き、ルフィは探検気分でそれを追いかけていく。
「本当に、言い伝え通りの生き物だったのね。彼。」
目の前で、姿がくるくる変われば、信じないわけにもいかないと、ロビンは言う。
変身能力者だとしたら、斬られて血を流して、平気でいられるとは考えにくい。形がどんなに変わっても、それが当人の血肉であることは変わらず、それが傷付けば、姿が変わったところで、傷は残るはずだ。あれが、斬られて血を流す人間をイメージしたナミに影響された擬態だからこそ、ゾロは怪我に頓着せず、ナミを気絶させて、まともな姿のイメージを持っていたサンジに触ったのではないだろうか。
「でも、彼の姿を写真にしたって、説得力はないから、私達の商売にはならないわね。」
ロビンは笑い、サンジは頷いて、苦笑する。
「それにしても、コックさんが、男の子を助けに行くなんて、意外だったわ。」
船長さんも、私も、彼の直ぐ傍にいたのに。とロビンは笑い、サンジは言われて初めて、自分が女性であるナミをその場に置いて、離れたことに驚いた。
確かに、戦闘は殆ど終結していて、檻の周りに人はいなかったが、例えナミが商品になる人間だとしても、絶対の安全が保障されているわけではない状況だったのだ。
普段のサンジならば、彼女を抱きしめて視界を遮ってやる事を選んだと思う。それなのに、サンジは迷わずゾロを庇いに行っていた。
「食糧の礼に、手助けするって、言っちまったからね。」
答えながら、サンジはロビンの笑みを見て、少々落ち着かない気分を味わった。
別に、ゾロを助けに走ったのに他意なんてない。小さな子供だと思っていたから、助けなくてはいけないと思っただけのはずだ。
「そういうことにしておきましょう。」
ロビンはにこりと笑って、そう言った。